第97話: 再び始まる『非効率的な日常』との戦い
最初に感じたのは消毒魔法特有の匂いと、自らの魔力が完全に枯渇しているという、久しく感じたことのない無力感だった。
「ここは——」
規則正しく点滅する生命維持装置の魔導ランプの光が、白い天井をぼんやりと照らしている。脳裏をよぎるのは、天空の制御室で見た崩壊の光と、誰かの温かい声……。
クロエがゆっくりと目を開けると、ベッドの脇で椅子に座ったまま、心配そうに眠りこけているリリィの姿があった。
クロエが身じろぎした音でリリィははっと目を覚まし、大きな瞳にみるみる安堵の涙を浮かべた。
「せ、先輩……!
目が覚めたんですね……!
よかった……本当によかった……!」
「リリィさん……
あなたこそ、もう大丈夫なのですか?」
クロエの穏やかな問いに、リリィは何度も頷く。
「先輩、三日も眠っていたんですよ。
みんな、すごく心配して……」
その言葉に応えるかのように、病室の扉が勢いよく開き、仲間たちが次々と顔を覗かせた。顔中に絆創膏を貼ったバーンズ、腕を吊っているアラン。
「「クロエ!」」
ところが、彼だけは様子が違った。
「——ようやく目を覚ましたいのかい?」
なぜか傷一つなく飄々としたシオン。もちろん、クロエの様子に安堵の表情を浮かべていたのは同じだが。
「ちっ、ようやくお目覚めかよ!
お前のせいで
俺たちの打ち上げが延期になってたんだぞ!」
バーンズのいつもの軽口に、アランが静かに続けた。
「……本当によく、戻ってきた。
クロエ。君がいなければ、今頃この世界は……」
「やれやれ、物語の主役がいつまでも眠っていては
エピローグが始まらないからね。
おかえり、クロエ・ワークライフ」
シオンの言葉に、クロエは朦朧とする意識の中、体を起こそうとしながら静かに口を開いた。
「皆さん……
今回の討伐戦の最終評価——
及び、皆さんへの感謝を報告します」
(((……クロエだ)))
そう言うとクロエは、一人ひとりの顔を見ながら彼女らしい不器用だが心のこもった言葉を紡ぎ始めた。
「リリィさん。
あなたのトラウマ克服と
あの状況下での冷静な分析がなければ
我々に勝機はありませんでした。
もう立派な皆にとってのパートナーです」
「先輩!」
「バーンズさん。
あなたの異常な頑丈さと
仲間を守るという強い意志が
我々の盾となりました。
あなたの覚醒がなければ
私はヴァイスクに辿り着けなかったでしょう」
「ったりめえだろ! クロエ!」
「アランさん。
負傷した身で、最後まで
冷静な情報支援と陽動を続けてくれたこと
感謝します。
あなたの騎士道が、我々の道を照らしてくれました」
「ふっ……妙にしおらしいな」
「シオンさん」
「なんだい? クロエ」
「——あなたの規格外の能力と
時に自己陶酔的な『演出』がなければ
我々は今頃、存在確率ゼロになっていたでしょう
あなた一体……」
「なんだい? クロエ」
「……いえ、やっぱり何でもありません。
あなたがたとえ何者であっても
あなたはあなたです」
クロエの言葉に、バーンズは照れ臭そうに頭を掻き、アランは静かに微笑み、リリィは再び涙ぐみ、シオンは心から楽しそうに笑った。
「うるせえ! ……ほらよ、見舞いだ。
リリィに聞いて
お前が好きそうだっていうから買ってきた」
バーンズはぶっきらぼうに、辛うじて厨房が難を逃れたという、王都の老舗『ブリュレ・オ・ブリュレ』の特製プリンをベッドサイドに置いた。
◇
一息つくと、アランが現在の状況を報告し始めた。
「クロエ。君にはつらい事実かもしれないが……
今回はヴァイスク——つまりアステル・ノクターナの
残留思念は、王都上空で観測不能になったと見られ
騎士団としては『被疑者不詳』として
事件と向き合おうとしている」
「やはりそうでしたか——」
「王宮には『暫定統治評議会』が発足し
我々が関わった今回の事件は公式に
『天空の制御室事件』と呼称されることになった」
「ええ。王立禁書庫に始まったこの事件も
こういう結末になるとは——」
「指導者を失った『叡智探求の兄弟団』は
残党も次々に逮捕され完全に消失した」
「——脆く、儚いものですね」
「王都の市民は
君たちを『天空の英雄』と呼んでいる。
復興への動きも活発だ」
「そんな大それたことではありませんよ」
「だが」とアランは言葉を続けた。
「同時に——
『天空の制御室事件』事後調査及び王国再建委員会
——という
いかにも非効率そうな組織も立ち上がってだな」
「——!!」
その言葉を裏付けるかのように、病室のドアがノックされ、王宮の使者が一枚の羊皮紙を恭しく差し出した。
クロエ宛の、委員会からの「公式な証言と英雄叙勲式典への出席」を求める召喚状だった。クロエは目を通すと全文読むよりもはるかに早く、心の底からうんざりした。
「やれやれ。
本当の戦いはこれからなのかもしれませんね。
正当な時間外手当請求のための、本当の戦いが」
大きな危機が去った後、途端に組織は非効率的な日常に戻る。英雄は邪魔者になり、手柄の奪い合いと責任のなすりつけ合いが始まる。
重苦しい空気を破るかのように、クロエは真顔で、しかし最も重要な懸案事項として、仲間たちに問いかけた。
「ところで皆さん。
『パティスリー・アルビレオ』が限定販売していた
『星屑のティラミス』ですが
さすがにもう入手は不可能ですよね?」
「「「「……」」」」
あまりに場違いな質問に、病室の空気が一瞬だけ凍り付く。そして次の瞬間、バーンズが叫んだ。
「お前はまず自分の心配をしろ!」
アランは黙ってこめかみを押さえ、リリィは困ったように、笑った。
「ったく……退院したら
まずはお前の快気祝いだ!
俺が奢ってやるから、好きなだけ食え!」
バーンズのその言葉に、クロエは静かに首を振った。
「結構です」
「え?」
「奢っていただく必要はありません。
今回の作戦に関わる福利厚生費
及びチームビルディング研修費として
全額、王国に請求しますので」
「そ、そうか……」
クロエは、バーンズが持ってきてくれたプリンの蓋に、そっと手を伸ばした。
定時退社と完璧なアフターファイブを守るための永遠に続く戦いは、再び始まったのだ。




