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第91話: 賢者ヴァイスクが作り出す幻影

 全ての真実を知って決意を固めたクロエは、賢者ヴァイスク——いや、かつての親友・アステルに思いをはせた、その瞬間。


『思い出せ、クロエ。

 我々の始まりと、そして終わりの場所を——』


「これは……? グッ!?」


 クロエが構えるよりも早く周囲の空間がぐにゃりと歪む。クロエの目の前に、あの日の「王立先進魔導研究所」の第三研究室が投影される。記憶よりも、ずっと鮮明に。


「——非効率的な感傷に浸るつもりはありません!

 これは幻覚! 私に通用するとでも?」


 クロエも、精神防御壁を構築し、幻覚を無効化する術式を展開する。鉄壁の論理は、この種の精神攻撃を本来なら容易く弾き返すはずだった。

 

 しかし——。


『これは、ただの記憶ではない。

 クロエ。

 君が忘れた、あるいは忘れたフリをしている

 アステル・ノクターナの『魂の叫び』そのものだ!』


 ヴァイスクの言葉と同時に、幻影の奥から激動のような悲しみ、怒り、そして絶望が押し寄せてくる。


(——! これは……!)


 それはもはや魔法などではなかった。アステルが抱えていた生の感情が、クロエの論理的な防御壁など何らの意味をなさないかのようにすり抜ける。クロエの精神に、あの日のアステルの感情が直接流れ込んでくる。


「ああああああ!!

 ごめんなさい、ごめんなさいアステル……

 私は、私は、ああぁ……」


 クロエの思考が、一瞬、完全に停止する。


(——これは攻撃……でも拒絶してはいけない

 あの日の、アステルの『想い』なのだから)


 これは防御すべき敵意ではなく、共感し、受け止めるべき、かつての親友の痛みなのだ。その僅かコンマ数秒の動揺。ヴァイスクは、致命的な隙を決して見逃さなかった。


『来るがいい、クロエ。

 ——いや、既に“ようこそ”というべきかな。

 君が、君の罪と向き合う時間だよ」


(やられた……)


 ヴァイスクの精神がクロエの意識を完全に捕縛し、内側から記憶の世界へと引きずり込んでいく。


 言うなれば時の迷宮(クロノス・ラビリンス)



 クロエが恐る恐る目を開けると、そこに広がっていたのは、あの日と寸分違わぬ、忌まわしき第三研究室。思わず自分の体がどうなっているか確認するクロエ。


(本当に『あの日』に居るみたい、ですね)


 白衣を着た若き日の自分。その隣には——


「ねえクロエ!」


(——!)


 屈託のない笑顔を浮かべ、新しい魔法理論について熱く語りかけてくる親友。そう、淡いブルーの髪に、ヘーゼルの瞳が美しい、アステルの姿。


(あの日の、ままなのね——)


「ねえ、クロエ!

 この数式、美しいと思わない?」


(えっ?)


「これを使えば魔力エネルギーの伝達ロスを

 ゼロに極限まで近づけることが

 できるかもしれないの!


 そうなればもっと多くの人が

 魔法の恩恵を受けられるようになる。

 世界はきっともっと良くなるわ!


 今はまだ、机上の空論だけどね」


 そう夢を語り、照れくさそうに笑うアステル。その瞳は純粋な探究心と未来への希望でキラキラと輝いていた。


(あの頃、私は——)


 思わず微笑むクロエ。クロエにとってもかけがえのない、最も充実していた時間だった。


 しかし次の瞬間。


 実験装置の耳をつんざくような甲高い警告音。制御不能に陥ったエネルギーの紫色の波動。


「クロエ、ダメ! 逃げて——!」


 クロエを庇ってその波に飲み込まれていく、アステルの悲痛な表情。


「——ああっ!!」


 クロエは悲鳴を上げた。


 だがその光景は何度も何度も悪夢のように彼女の目の前で繰り返される。何度も何度も呑み込まれて消えるアステル。


 もしあの時自分が別の選択をしていれば。もし自分がもっと彼女の理論の危険性に気づいていれば。もし自分にもっと力があれば。もしも、もしもあの時——。


「もしも、もしもあの時、私が——」


 そんな無数の「もしも」がクロエの心を容赦なく苛む。


 そうして「もしも」にこじ開けられた心の隙間に、賢者ヴァイスクの悪魔のような声が響き渡る。


『……そうだよ、クロエ。

 君は何も悪くない。

 悪いのは全てこの非効率で不完全な世界なのだ。

 こんな世界があるから、あの日アステルは消えた。


 そして今、君は苦しんでいる。

 全部、全部この世界のせいだ。


 だが私と共に来れば

 この悲劇を書き換えることができる。


 ヘキサグラマトンの力を使えば

 失われたアステルを——

 そして君が望む完璧な世界を

 取り戻すことだって、出来るんだよ』


(ああ、もしもここで……)


 クロエの心は折れかけ、甘い誘惑に身を委ねそうになった。自分の効率主義も定時退社への執着も、全てはこの過去の失敗から生まれた、歪んだ強迫観念だったのかもしれない、と。


 しかし。


 深い絶望の闇の底で彼女は確かに聞いた。


『ロエ……クロエ!

 しっかりしろ!

 お前がそんなことでどうする!』


 バーンズの不器用だが力強い叱咤。


『君の過去に何があったか——

 それよりも君が今

 必死に守ろうとしているものを私は信じる』


 アランの静かだが揺るぎない信頼。


『先輩…! 先輩のせいじゃありません…!

 先輩はいつも私たちのために

 一番大変な場所で

 戦ってくれているじゃないですか…!

 だから一人で苦しまないでください…!』


 リリィの涙ながらの魂の叫び。


(ああ、皆さん——)


 仲間たちの純粋で温かな想いが、クロエの心の闇を打ち破る一筋の光となった。


(……そうでした。

 過去は変えられない。

 たとえ変えられたとしても、変えるべきではない。


 重要なのは過去から何を学び

 未来をどう生きるか——です)


 クロエはゆっくりと顔を上げた。その瞳にもはや迷いの色はなかった。


「私が守りたいのは

 完璧に効率化された

 冷たい理想郷などではありません!


 私が守りたいのはこの不完全で非効率で

 だからこそ愛おしい

 仲間たちと共に生きる『今』

 この瞬間なのです!」


 クロエの強い意志が、その言葉が、時の迷宮を内側から粉々に粉砕していく!音を立てて崩れていく、第三研究室の幻影。


『な……小癪な真似を……』


 ヴァイスクの捨て台詞が虚しく響いた。



 現実世界へと意識を取り戻したクロエは、仲間たちの温かい存在を再確認し、賢者ヴァイスクに向かって揺るぎない決意を宣言する。


「あなたの非効率なまでの過去への執着と

 自己満足に満ちた夢想は

 ここで私が完全に『クリア』させていただきます!」


 クロエの翠色の瞳の奥には、もはや冷徹な合理性だけではない、仲間への深い信頼と未来への確かな希望が強く輝いていた。

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