第09話: オリジンコアセクターの咆哮
それは、またしても金曜日の夕方だった。クロエ・ワークライフは、一週間の全ての業務報告書を完璧な精度で仕上げ、関連部署へのデータ共有も完了させ、魔導端末のシャットダウン準備に入っていた。
今週は特に大きなトラブルもなく、予定通りにタスクを消化できた。新人リリィの育成も、当初の予測よりは順調に進んでいる。彼女の古代文献学の知識が、意外な形で旧世代魔導システムのバグ解析に役立つ場面もあった。
「今日のディナーは、
王都でも予約が最も困難と言われるレストラン
『星詠みのテラス』での特別コースです。
三ヶ月前から予約を入れておいた甲斐がありました。
最高の料理と、最高の夜景……
考えるだけで、日々の業務の疲れも吹き飛びますね」
クロエは、珍しくウキウキとした気分を隠せずにいた。彼女にとって、アフターファイブの充実は、日中の業務効率を最大限に高めるための重要なモチベーションなのだ。
あと数分で、輝かしき定時。そして至福のディナーが待っている。そう思った、まさにその瞬間だった。
ビーッ! ビーッ! ビーッ!
オフィス全体に、これまで聞いたこともないような、新しいバリエーションのけたたましい緊急警報が鳴り響いた。
同時に、天井の魔導灯が赤色の警告灯に切り替わり、不気味な明滅を繰り返す。尋常ではない事態であることは明らかだった。
全ての魔術師たちが、一斉に作業の手を止め、何事かと周囲を見回す。クロエも、思わずシャットダウンしかけた端末の操作を中断し、情報ディスプレイに視線を向けた。
そこに映し出されたのは、信じられないような内容だった。
「緊急警報!
警戒レベル4発令!警戒レベル4!
魔術師団全職員に通達!」
アナウンスの声は緊迫し、途切れ途切れになっている。
「王都西方、
古代遺跡・オリジンコアセクターにて、
制御不能な高密度魔力反応を複数同時検知!
巨大未確認存在……推定、
古代ゴーレムと思われる物体が出現!
現在、周辺都市ヘイステリア方向へ高速で接近中!
被害甚大! 繰り返す、被害甚大!」
クロエの個人端末にも、最優先事項として、全魔術師団員に対する非常招集命令が叩きつけられるように表示された。
『第三課所属、クロエ・ワークライフ。
直ちに戦闘装備を整え、指定座標へ転移せよ。
これは最重要ミッションである。
遅延は許されない』
「……最悪の、タイミングですね」
クロエは、静かに、しかし心の底から湧き上がる深い絶望と共にそう呟いた。「星詠みのテラス」の予約は、もちろんキャンセルしなければならないだろう。
この状況では、それもやむを得ない。クロエは即座に魔導端末を操作し、レストランへの自動キャンセル処理と、丁寧なお詫びのメッセージ(もちろん定型文だが、彼女なりの最大限の誠意は込めている)を送信するプログラムを起動した。
しかし、それ以上に問題なのは、この事態の深刻さだった。オリジンコアセクター。古代ゴーレム。先日シオン・アークライトが示唆していた、最悪の可能性の一つが現実のものとなったのだ。
「レストランには大変申し訳ありませんが、
これは私の定時退社、いえ、
カルドニア王国の存亡に関わる最優先事項です。
被害を最小限に抑え、
そして何よりも、迅速にこの非効率な事態を収拾し、
一日も早く平穏なアフターファイブを
取り戻さなければなりません」
クロエは、瞬時に思考を切り替えた。悲嘆に暮れている暇はない。プロフェッショナルとして、今なすべきことを、効率的に実行するだけだ。
彼女は冷静に、しかし迅速に戦闘装備を装着し始めた。オプティマイザー・ロッドを手に取り、腰のベルトには各種属性に対応した高純度魔力カートリッジを複数セット。
アナリティカル・レンズを装着し、起動テストを行う。クロークルームから、防御力と機動性を両立させた特殊戦闘服(もちろんこれもクロエのカスタム品で重さを極限まで削減し、魔力伝導効率を最大化してある)を身に纏う。
準備完了まで、わずか三十秒。
「転移魔法陣、緊急モード起動。
座標、オリジンコアセクター近郊。
高度五十メートル。
魔力チャージ開始。
カウントダウン……
5、4、3、2、1……
転移!」
クロエの足元に複雑な魔法陣が眩い光を放ち、次の瞬間、彼女の姿はオフィスから完全に消え失せていた。残されたのは、床に僅かに残る魔力の残滓と、呆然と立ち尽くす同僚たちだけだった。