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第82話: ヘキサグラマトンの真価——『万象が存在するかしないか』を決定する力

「ママ! クッキーが!」


「クッキーがどうしたの?」


「——これは……!?」


 王都のある家庭では、子供が食べていたクッキーが突如花に変わった。またある家庭では、したためていた日記がライ麦パンに変わり、デスクが宙に浮かび、メガネが揮発するなど、不可思議を超える不可思議が次から次に起きていた。


 そう。賢者ヴァイスクが王都中央の地下「オリジン・ヘブン」でヘキサグラマトンの一部を起動させた影響は瞬く間に、世界中で生じていたのだ。


 オリジン・ヘブンの地下空洞だけでなく王都カルドニア全域、さらには周辺の国々で物理法則や魔法法則が不安定になっていった。


 王都の中心広場で人々が歩いていたはずの地面が突然粘性のある液体のようになり、人々が足を取られて悲鳴を上げる。空を見上げれば太陽が二つに三つに見え、そして次の瞬間には空そのものがまるで割れた鏡のように無数の破片となってきらめいている。


 時間が不規則に進み始めた。ある場所では数秒が数時間に感じられバターがミルクに戻ったという。また別の場所では数時間が数秒に圧縮され咲いたばかりの花が一瞬で枯れ果てて塵になったともいう。


 物質の属性が勝手に書き換えられていく。燃えるはずの炎が触れるもの全てを凍てつかせ、流れるはずの水が鋼鉄のように硬質化し人々の行く手を阻む。


 まさに世界の終焉を告げる混沌。


 市民生活は完全に麻痺し、魔術師団や騎士団も突然発生、前代未聞、神出鬼没、理解不能な事態に、有効な対策を何一つ打つことができずにいた。


 地上で合流していたアラン、バーンズ、そしてリリィは、地獄絵図の中でも必死に人々の命を救おうと奮闘していた。


「しっかりしろ! 諦めるな! 必ず助けは来る!」


 アランは退院したばかりだというのに、その正義感から崩れ落ちる建物の下敷きになりそうな市民を、身を挺して救おうとしていた。


「うおおおっ! こっちだ!

 安全な場所まで俺が案内する!」


 バーンズは屈強な体で瓦礫の山を切り開き、避難経路を確保しようとしていた。倒れてくる建物の壁、高い樹木、飛来する物体——あらゆるものから護る『炎の壁』を使いながら。


「皆さん、落ち着いてください!

 東地区の第3避難シェルターの防御結界は

 きちんと機能しています!

 ——そこへ向かってください!」


 リリィも、パニックに陥った人々の心を少しでも落ち着かせようと必死に呼びかけ続けている。


「だからって、どうやってそこまで行くんだ?

 道が、通れないじゃないか!」


 リリィが見やると、確かに王都の目抜き通りはもちろん路地裏の小径まで、地面は隆起し、街路樹は水平に生え、水路が弾けて冠水し、魔導エネルギーが至る所で炸裂している。


 そう。状況は悪化の一途を辿るばかりだった。王都も、王都に暮らす人々も、一瞬で崩壊寸前に追い込まれていた。


「先輩……! 一体どうしたら……?」



 一方、地下のオリジン・ヘブン。


 クロエとシオンが賢者ヴァイスクと対峙していた。ヴァイスクはヘキサグラマトンの力をその身の一部に取り込み、魔力は以前とは比較にならないほど増大している。


 その力は禍々しく、周辺に対して「万象が存在するかしないか」を意のままに捻じ曲げつつあった。


「これだよこれ、この力だよ。

 無駄だと分かるだろう? クロエ・ワークライフ。

 君のちっぽけな計算と論理など

 私が操作する

 『万物が存在するかしないかを決定する力』に

 比べれば、何の意味も持ちえないのだよ!」


 ヴァイスクが手をかざすだけで、中空に道が生まれそこをヴァイスクが進んでいく。クロエが放った精密な魔力の矢も、たやすく弾く壁が空間に突然現れる。


「これが

 『万物が存在するかしないかを決定する力』……

 これは想像以上に、厄介です」


「やあやあ、これは参ったね。

 彼には届くことすら難しそうだ——」


 シオンが展開した古代の結界術もいとも簡単に引き裂かれてしまう。まさに、圧倒的な力の差。


 しかしクロエは、この絶望的な状況下でさえ決して冷静さを失ってはいなかった。


 彼女のアナリティカル・レンズはヴァイスクの猛攻を捌くのと同時に、背後のヘキサグラマトン本体の複雑怪奇な構造と、世界の法則に干渉している恐るべきメカニズムを猛烈な速度で解析し続けていたのだ。


(……このままでは

 この世界は数時間も持ちませんね。


 世界中の魔力が共振を起こし

 不可逆的な『法則崩壊ドミノ』が発生して

 私も、私のアフターファイブも

 全てが『最初から存在しなかったこと』に

 なるでしょう。それを止めるには——)


 クロエは一つの結論に達した。


 この巨大でイカレたシステムを完全に停止させるためには、論理構造の根幹に潜む「矛盾点」、あるいはヴァイスクとヘキサグラマトンの間に確実に存在するはずの「インターフェイス」を正確に突き、全体を強制的にクラッシュさせるしか道はない、と。


(しかし、そのためには

 私の全ての魔力と精神力を賭けて

 ヘキサグラマトンの制御機構に

 直接アクセスする必要がありますね——)


 それはあまりにも危険で無謀な賭けだった。


「……世界の危機も

 私の定時退社を脅かす巨大なシステムバグも

 対処の根幹は同じです。


 原因を特定して切り分けること。

 最適化された手段でそれを完全にデバッグすること。


 『出来る出来ない』を

 思い悩んでも事態は好転しません。

 『やる』しかないのです」


 クロエは静かに、しかし翠色の瞳の奥に鋼のような揺るぎない覚悟を決めて、オプティマイザー・ロッドを強く握りしめた。

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