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第64話: 歌うマンドラゴラの絶叫と鎮静の唄

 囁きの肖像画事件から数日後の午後。クロエ・ワークライフは魔術師団第三課の自分の席で、先日の事件に関する報告書の最終チェックを行っていた。


 同時に発覚した王宮内の情報管理体制の脆弱性に関する改善提案書も作成済みだ。もちろん、これも彼女が自主的に作成したものだが、完璧な精度。というのも——


 今日はアフターファイブに、王都で最近評判のパティスリー「プランタン・ヴェール」訪問する予定があるからだ。


 オーガニック素材にこだわった、春季限定「エルフの森のハーブと蜂蜜のタルト」が目当てだ。繊細な味わいを想像するだけで、クロエの口元は自然と緩む。


 ——が、そんなクロエの想像を破壊するかのように、オフィス内にまたしても緊急出動を告げるアラート音が鳴り響いた。


 ディスプレイには「王都中央植物園にて、原因不明の魔法植物暴走事件発生。周辺住民に精神的被害拡大中。至急対応されたし」との文字が点滅している。


「……魔法植物の暴走、ですか。

 またしても私の専門分野とは言い難い。

 しかし放置すれば私の定時退社とハーブタルトに

 確実に影響が出る、厄介な極まりない案件ですね」


 クロエは今日何回目か分からない深いため息をつきながらも、即座に状況分析を開始した。


 現場となった王都中央植物園は、王都民の憩いの場として親しまれている。その一角には、世界各地から集められた希少な魔法植物を展示・研究する特別エリアが存在する。今回の事件はそこで発生したらしい。


 クロエが出動準備を整えながら関連情報をスキャンしていると、リリィ・プランケットが不安そうな顔で駆け寄ってきた。


「せ、先輩!

 今回の事件、もしかしたら

 『歌うマンドラゴラ』の暴走かもしれません!


 私、古代文献でその植物に関する記述を

 読んだことがあるんです!


 非常に強力な音波を発して

 周囲の生物の精神に影響を与える

 危険な植物だって……!」


「歌うマンドラゴラ……?

 リリィさん、その植物についてもう少し

 詳しく教えていただけますか?


 あなたの知識が、効率的に状況を打開する

 鍵になるかもしれません」


 クロエはリリィの専門知識に期待を寄せた。



 植物園に到着すると、既にパニック状態に陥っていた。特別エリアを中心に、耳を塞ぎ、頭を抱えて苦しむ人々。その中心からは、人間の可聴域を僅かに超えた不快極まりない超音波が発せられている。


 鼓膜と脳髄を直接揺さぶるような、途切れ途切れだが強力な音波。クロエの強化された聴覚とアナリティカル・レンズの魔力音響分析機能が危険度をキャッチしていた。


「これは……酷い騒音公害ですね。

 私の集中力を著しく削ぎ、

 思考効率を著しく低下させます。


 このままではハーブタルトを味わうための

 私の繊細な味覚と嗅覚が、取り返しのつかない

 ダメージを受けかねませんね……」


 クロエは個人的な理由で——今日は主にハーブタルトのためだが、この事件の早期解決を決意した。


 音源は特別エリアのガラス温室内部。そこでは数十株の「歌うマンドラゴラ」が、まるで苦しむかのようにその人型の根を震わせていた。


 本来なら美しい歌声で人々を癒すと言われている植物だ。しかし今は一斉に、耳障りで不快で、精神を蝕む「ザ・不協和音」とでも言うべき音波を周囲にまき散らしていた。


 その影響で周囲の他の植物は急速に枯れ始め、温室のガラスもビリビリと震え、今にも砕け散りそうだ。


「先輩、やはりマンドラゴラです!

 でも、どうしてこんなことに……?

 文献によれば、本来とても穏やかで

 美しい歌を歌うはずなのに……!」


 リリィが悲痛な声を上げる。


 クロエはアナリティカル・レンズでマンドラゴラの状態を詳細にスキャンした。


「なるほど……原因が判明しました。

 これらのマンドラゴラは、何者かによって

 非正規な魔力触媒を投与されて

 強制的、かつ極めて不安定な形で

 活性化させられています。


 触媒の成分配合も明らかに不完全(テキトー)です。

 いくつかの重要な材料が不足しているか

 あるいは粗悪な代用品で間に合わせた痕跡が

 見られます。


 結果、マンドラゴラの魔力循環系に

 異常な負荷がかかり

 本来の調和の取れた歌声ではなく

 このような苦痛に満ちた『絶叫』を

 発するようになってしまったのでしょう。


 これは……残酷な虐待行為です」


 クロエの瞳に冷たい怒りの光が灯った。これは単なる事故ではない。何者かが意図的に、そして無知ゆえに、この悲劇を引き起こしたのだ。


 クロエの哲学では、無知であることは他者を傷つけていい免罪符にはならない。


 その時、リリィが何かに気づいたように声を上げた。


「先輩!

 あの古代文献の中に、

 マンドラゴラの暴走を鎮めるための

 『鎮静の唄』に関する記述があったのを

 思い出しました!


 でも、その詠唱には特殊な古代語の正確な発音と

 古代の音階に関する深い知識

 そして何よりも、植物たちの苦しみに

 心から共感する『清らかな魂』が必要だって……

 私なんかに、そんなことができるかどうか……」


 リリィは自信なさげにうつむいた。


 クロエはそんなリリィの肩にそっと手を置いた。


「リリィさん。

 あなたなら、きっとできます。

 あなたのその純粋な心と、古代文献への深い知識は、

 誰にも真似できないあなただけの力です。


 そしてあなたのその『共感力』こそが

 今の彼らを救うために最も必要なものなのです。


 自信を持ってください。

 私があなたの安全と、詠唱のための最適な環境を、

 必ず確保しますから」


 クロエの(珍しく)温かく力強い言葉に、リリィは顔を上げた。その瞳にはまだ不安の色は残っていた。しかしそれ以上に、クロエへの信頼と自分にしかできないことがあるのだ、という新たな使命感が輝き始めていた。


「……はい、先輩! 私、やってみます!」


 クロエはまず、自身を中心に多重構造の「静寂と守護の結界」を瞬時に展開した。マンドラゴラの不快な音波を遮断し、かつ外部からの物理的な干渉を防ぐ。それはクロエの持つ精密な魔力制御と音響工学の知識を駆使して最適化された完璧な防御フィールドだった。


 そしてリリィを結界の中心、最も安全でかつマンドラゴラたちに「声」が届きやすい場所へと導いた。


「リリィさん、準備はいいですか?

 あなたの歌声で彼らの苦しみを癒し、

 本来の美しい歌を取り戻させてあげてください。


 時間は、あなたの納得がいくまで私が保証します」


 リリィは深呼吸を一つすると目を閉じ、そして震える声で、しかし心を込めて古代の「鎮静の唄」を歌い始めた。


 その歌声は最初はか細く頼りなかったが、徐々に力を増し、清らかでどこまでも優しい美しいメロディーとなって結界の中に響き渡り始めた。それは現代の音楽とは全く異なる、古代の、魂に直接語りかけるような不思議な力を持った歌だった。


 ——奇跡が起こった。


 あれほどまでに苦しげに絶叫していたマンドラゴラたちが、リリィの歌声に呼応するかのように、徐々にその震えを収め、不快な音波も弱まっていったのだ。そしてやがて、彼らの中から本来の美しい澄み切った歌声が、ぽつり、ぽつりと響き始めた。


 リリィの歌とマンドラゴラたちの歌が結界の中で共鳴し合う。それはまるで古代の森の精霊たちが奏でる、荘厳でどこまでも優しいハーモニーのようだった。


 数分後。


 全てのマンドラゴラは完全に落ち着きを取り戻し、その場にはただただ美しい調和の取れた歌声だけが静かに響き渡っていた。



 この事件の裏には、闇市場のブローカーの存在があった。希少な魔法植物を高値で売買する連中が、禁書庫から流出した「古代植物活性化の魔導書」の不完全な記述を元に、一攫千金を狙ってこの非道な犯行に及んだのだという。何者かが意図的に情報を流した可能性もある。


 クロエは逮捕されたブローカーたちに冷徹な視線を向けた。


「非効率な金儲けのために貴重な知識を悪用し

 結果として多くの人々と

 そして無力な植物たちにまで

 多大な迷惑をかけるとは、愚の骨頂ですね。


 このような輩は、社会の効率を著しく低下させる

 害悪でしかありません」


 一方で、リリィの目覚ましい成長と彼女の持つ「清らかな魂」の力の可能性を高く評価する機会となったことに、不謹慎ながらも若干ありがたく思っているところもあった。


 そして——ようやく手に入れることができそうな「エルフの森のハーブと蜂蜜のタルト」への期待に胸を膨らませ、定時退社後の甘美なひとときに思いを馳せるのだった。


 この事件は、禁書庫から流出した「禁断の知識」がいかに容易に、無自覚に悪用され、社会に混乱をもたらすかという危険性を示した。


 その背後には今はまだ姿の見えない連中が蠢いているのだろうか——。 

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