第06話: 最重要任務と猫まっしぐら作戦
月曜日の午後、定時まで残り一時間という、クロエにとってはゴールデンタイムとも呼べる時間帯。
今日の業務は全て計画通りに完了し、あとは魔導端末のログを最終確認してシャットダウンするだけ。
今夜は予約しておいた最新型の魔導音響装置「サラウンド・スフィアX1」が自宅に届く予定なのだ。
開封の儀とセッティング、そしてお気に入りのオーケストラ音源の試聴。それを考えるだけで、自然と口元が緩む。
そんな至福の瞬間に水を差すように、クロエのブースに血相を変えたクライン課長が文字通り転がり込んできた。その手には、汗でぐっしょりと濡れた羊皮紙の通信文が握られている。
「わ、ワークライフ君!
き、緊急かつ最重要任務だ!」
クラインの声は裏返り、額には脂汗が滲んでいる。尋常ではない様子だ。
「カルドニア王国建国以来の、
いや、我が魔術師団創設以来の、
未曾有の危機と言っても過言ではない!」
(また大袈裟な……
どうせ非効率な書類の山か、
下らない会議の招集でしょう)
クロエは内心冷ややかに毒づきながらも、表情は冷静なまま「どのようなご用件でしょうか、課長。簡潔にお願いします。定時まであまり時間がありませんので」と促した。
「ポ、ポンメルン侯爵家の…
愛猫であらせられる『プリンセス・ミミ号』様が、
お屋敷から脱走なされたのだ!
ポンメルン侯爵閣下は
カンカンにお怒りでいらっしゃる!
王宮を通じて、我が魔術師団に
直々に捜索命令が下された!
これは、単なる猫探しではない!
王国と侯爵家との友好関係、
ひいては国際的な信用問題に発展しかねん、
極めて政治的な意味合いを帯びた
ミッションなのだ!」
クラインはぜえぜえと肩で息をしながら、一気にまくし立てた。クロエは、一瞬だけ、本当に一瞬だけ、思考が停止した。
(猫探し……が、最重要任務……?
国際的な信用問題……?
この国の危機管理体制は、既に末期症状を通り越して
崩壊しているのではないでしょうか)
しかし、彼女はプロフェッショナルだ。たとえ依頼内容が猫探しであろうと、それが「業務」として下された以上、効率的に処理するのみ。
「承知いたしました。
ポンメルン侯爵家がご令嬢、
プリンセス・ミミ号様の捜索ですね。
最適化されたルートと手段で、
迅速に発見・保護いたします。
ところで課長。
『最重要任務』に対する成功報酬、
及び時間外手当については、規定通り……
いえ、このような緊急
かつ政治的案件であることを鑑み、
特別加算を期待してもよろしいのですか?」
ちゃっかりと、しかし真顔でそう確認するクロエに、クラインは——
「も、もちろんだとも!
君がミミ号様を無事保護できれば、
特別報奨金も検討しよう!
だから、頼む! 何としても定時……
いや、そんな悠長なことは言っていられん!
可能な限り迅速に!
一時間以内に見つけ出してくれ!」
——と、半ば懇願するように叫んだ。
「一時間ですか。了解しました。
では、行ってまいります」
クロエは、普段の業務では決して使用しない、緊急時用の高出力転移魔法陣起動キーをデスクの引き出しから取り出した。
猫探しのための国家予算の無駄遣い。実に非効率だが、今はそれを嘆いている時間すら惜しい。
◇
転移魔法でポンメルン侯爵家の広大な庭園に直接降り立ったクロエは、まず状況を分析した。
アナリティカル・レンズが庭園全体の三次元マップを瞬時に生成し、考えられるミミ号の逃走ルートを複数パターン表示する。
屋敷の使用人たちへの聞き込みは時間の無駄と判断。彼らはパニックに陥っており、情報は錯綜しているだろう。
クロエは代わりに、携帯型の広範囲探知魔導具「アニマル・ソナーMk-Ⅱ(猫特化カスタム版)」を起動した。
これは、対象動物の品種、固有の魔力パターン(ペットには個体識別のための微弱な魔力マーキングが施されている場合がある)、そして鳴き声の周波数パターンを指定することで、広範囲からターゲットを絞り込むことができるクロエの自信作だ。
なお、前回いつ、どのような目的で起動したのかは定かではない。
とそこへ、ポンメルン侯爵家の執事が、震える手で小型の記憶魔晶を差し出した。
「こ、こちらに、
プリンセス・ミミ様の普段のお声や、
お気に入りの玩具で遊ぶ際の
特有の喉を鳴らす音などが記録されております…!
何卒…!」
クロエはそれを受け取ると、即座にアニマル・ソナーMk-Ⅱに接続し、音声データを解析、プロファイリングを開始した。
「プリンセス・ミミ号。品種——
カルドニアン・ロイヤルロングヘア。
毛色、シルキーホワイト。
瞳の色、サファイアブルー。
魔力マーカーパターン、登録番号PM-001。
鳴き声及び行動パターン
サンプルデータ、登録完了。
捜索開始!」
ソナーが微かな音を発しながら探知範囲を徐々に広げていく。庭園は入り組んでおり、温室、薔薇園、人工の小川、さらには小さな森まである。通常の探索方法では、数時間はかかるだろう。
数分後、ソナーが明確な反応を示した。庭園の最も奥まった場所にある、巨大な装飾噴水の裏手。そこにミミ号らしき熱源と魔力パターンが感知された。
「発見。最短ルートで接近します」
クロエはまるで茂みの上を滑るように、音もなく目標地点へと移動する。特殊な魔術繊維で作られたブーツは、足音を完全に吸収する。
噴水の裏に回り込むとそこにいた。シルキーホワイトの美しい毛並みを持つ、気品あふれる猫。間違いなくプリンセス・ミミ号だ。
しかし、ミミ号はこちらの姿を認めるや否や、警戒心を露わにし、「フシャーッ!」という威嚇音と共に、素早い動きでさらに奥の茂みへと逃げ込もうとする。
(なるほど、非常に警戒心が強く、
運動能力も高い。
物理的な捕獲は困難、かつ非効率ですね。
それに無理強いすれば——
この美しい毛並みを傷つけてしまう可能性もある)
定時まで残り約二十分。追いかけっこをしている暇はない。クロエは即座に作戦を変更した。
「プランBに移行。
猫の原始的本能と品種特性を利用した
誘導捕獲オペレーションを開始します」
まずクロエは自身の周囲に、他の猫や動物を寄せ付けない、微弱だが特殊な忌避フィールド魔法を展開した。これで、ミミ号が他の動物に驚いてさらに遠くへ逃げるリスクを排除する。
次に、オプティマイザー・ロッドを取り出し、先端から特殊な魔力波を放射した。
これは、猫が最も好むとされる周波数の音波と、カルドニアン・ロイヤルロングヘア種が特に反応するフェロモンに似た物質(もちろん無害な魔力合成物)の匂い成分を組み合わせたものだ。いわば「猫まっしぐら」魔法である。
さらにクロエはポケットから小さな魔道具を取り出した。レーザーポインターのように、赤い光点が地面を不規則に動き回る、猫のおもちゃだ。
ただし、この光点は単なる光ではない。猫の視覚と狩猟本能を最大限に刺激するよう、光の明滅パターンや動きのアルゴリズムが最適化されている。
ミミ号は、茂みの奥から訝しげに、しかし抗いがたい好奇心に駆られたように、赤い光点をじっと見つめている。
そして、匂いと音波の効果も現れ始めたのか、少しずつ警戒を解き、そろりそろりと茂みから姿を現した。
クロエは焦らない。光点を巧みに操り、ミミ号を自分の足元へと誘導していく。そして、ミミ号が光点に夢中になり、完全に油断してじゃれついてきたその瞬間。
「捕獲」
クロエは、対象を傷つけることなく優しく包み込み、一時的に動きを封じる泡状の捕獲魔法「ソフト・バブル・プリズン」を発動。
ふわりとしたシャボン玉のような泡がミミ号を包み込み、ミミ号は一瞬驚いたものの、泡の心地よい感触にうっとりとしたのか、大人しくなった。
定時五分前。クロエはプリンセス・ミミ号を抱きかかえ(意外と懐かれたようだ)、ポンメルン侯爵の元へと届けた。
侯爵は感涙にむせびながらクロエに感謝の言葉を述べ、約束通り(というかそれ以上の)多額の報奨金の約束をしてくれただけでなく、なぜか山のような最高級猫用おやつ及び猫用ベッド一式(もちろんクロエには不要だ)を手渡してきた。
そして十七時ジャスト。クロエはポンメルン侯爵家を後にし、王都の夕焼け空の下を、少しだけ(報奨金の額に)満足げな表情で、予約しておいた魔導音響装置の販売店へと向かうのだった。
「ふぅ、猫は癒されますが、
依頼主が人間である限り、
そこには必ず、非効率が付きまといますね。
まあ、今回は実入りが良かったので、
良しとしましょうか」
猫用おやつは後でリリィにでもあげよう——と考えながら。