第55話: 悪魔の囁きとクロエの信念
クロエが最終反撃のタイミングを窺い、全神経を集中させていた——まさにその時。
ヴァロワールはクロエの意図を察知したかのように、あるいは彼女のその揺るぎない決意を打ち砕こうとするかのように、物理的な攻撃ではなく、より悪辣な精神的な攻撃を仕掛けてきた。
「フン、その揺るぎない決意……
いつまで持つかな?
お前もかつて所属していた
あの忌まわしき
『王立先進魔導研究所』での出来事……
私が全てを『管理』していたあの場所で、
お前が何を経験し、何を失ったか……
忘れたとは言わせんぞ。
あの時の絶望を再び味わわせてやろう。
……思い出せ、クロエ・ワークライフ。
お前もまたこの世界の『非効率』に
深く絶望していたはずだ。
非効率な組織がお前の大切な友人を、
アステル・ノクターナを、
無残に奪い去ったのではなかったか?
理不尽なシステムが
お前の才能と努力を正当に
評価しなかったのではなかったか?
この世界そのものがお前を苦しめ、
お前の心を
歪ませてきたのではなかったか?」
ヴァロワールのその言葉はまるで悪魔の囁きのように、クロエの心の奥底に潜む最も触れられたくないトラウマと、彼女自身も気づいていなかった本音——この世界に対する深い失望とある種の諦観——を的確に、そして容赦なく抉り出してきた。
「なぜ、私を憎む?
なぜ、私の創り出す
『完璧に効率的な世界』を否定しようとする?
私こそが、お前の長年の望みを
そしてお前が心の奥底で渇望していた
真の『秩序』と『調和』を、
この世界にもたらすことができる
唯一の存在だというのに!」
ヴァロワールの言葉は、クロエの脳裏に、過去の辛い記憶を次々と鮮明に蘇らせた。
研究所でのあの悲劇的な事故。友人の最期の苦悶の表情。周囲の大人たちの無責任な態度。そしてその後も延々と続く、職場の非効率なシステム、理不尽な上司、無意味な業務……。
それらがヴァロワールの言葉と重なり、一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、クロエの心は激しく揺さぶられた。
(……そうかもしれない
……この世界は確かに非効率で理不尽で、
そして……救いようがないのかもしれない……
もしヴァロワールの言うように
全てが完璧に効率化され
無駄も矛盾も存在しない世界が実現するのなら……
それはある意味では理想的なのかもしれない……
私がこれまで求めてきたものは
それだったのかもしれない……)
彼女の心が深い葛藤に囚われる。動きがほんの一瞬だけ――止まりかけた。
ヴァロワールは、そのクロエの心の揺らぎを敏感に感じ取った。
「そうだ……
それでいい、クロエ・ワークライフ。
お前も私と同じなのだ。
共に来い。
そしてこの旧世界を破壊し、
我々の手で、真に価値のある、
新しい世界を創造しようではないか……!」
ヴァロワ―ルがクロエに手を伸ばそうとしたその時。
「しっかりしろ、クロエ!
そいつの甘言に騙されるな!」
バーンズの魂からの叫びが響いた。
『先輩! 先輩の信じる道は
そんな歪んだものじゃないはずです!
私たちが信じてる先輩は
そんな人じゃありません!』
リリィの必死な声も通信を通じて届く。
「クロエ……思い出せ。
君が何のために戦ってきたのかを。
君が何を守ろうとしてきたのかを」
アランの静かだが力強い言葉も。
「やれやれ——
ここで主人公がラスボスの口車に
乗ってどうするんだい?
そんなベタな展開は、
三流ドラマでもやらないぞ?」
シオンのいつものような軽口も。
仲間たちの声。そしてクロエの脳裏に鮮明に蘇ってきたのは、ヴァロワールの言うような冷たく完璧な世界ではなかった。
もっと温かく、そしてどこか不完全で――でも愛おしい日常の風景だった。
パティスリー・グリモワールの、あの絶品のモンブランの味。
静寂のインク壺のマスターが淹れてくれる珈琲の香り。
リリィが淹れてくれる少し茶葉の多すぎるハーブティー。
バーンズとの、くだらないが、どこか憎めない口喧嘩。
アランとの、言葉少なだが確かな信頼に満ちた共同作業。
シオンの、人を食ったような、しかしどこか真理を突く言葉。
そして何よりも定時で仕事を終え、自分の好きなことに没頭できる、あの至福の、アフターファイブのかけがえのない時間。
「……いいえ、ヴァロワ―ル。
あなたの言っていることは、全くの見当外れです」
クロエは心の底から湧き上がる力強い声で、ヴァロワールの誘惑を完全に振り払った。彼女の瞳にはもはや一切の迷いはなかった。
「あなたの言う『効率』は何も生み出さない!
ただ人の心を踏みにじり
大切なものを破壊するだけの
冷酷で独善的な思想に過ぎない!
私が求めるのはそんなものではありません!
私が信じ、そして守りたいのは
たとえ非効率で矛盾に満ちていたとしても——
そこに人々の笑顔があり、温もりがあり、
そして明日への希望がある。
この不完全で愛すべき世界と
その中で営まれる、ささやかな日常なのです!
その日常と、私の大切なアフターファイブを
あなたのような狂人に脅かされるわけには
断じていかない!」
クロエのその言葉は、彼女の魂からの叫びであり、そして彼女が辿り着いた、揺るぎない信念の表明だった。
ヴァロワールは、そのクロエのあまりにも強い拒絶に一瞬だけ驚愕し、そして理解できないものを見るかのような表情を浮かべた。
「……愚かな!
……どこまでも非効率な感情論に過ぎん…!
ならばもはや貴様に、生きている価値はない!
我が理想の最後の障害よ、ここで消え失せろ!」
ヴァロワールは激昂し、レガシー・コロッサスの全エネルギーを解放。クロエを完全に消滅させようと最後の一撃を放とうとした。
キュイイイイイ……エネルギーが集中し、空間中の何かが吸い寄せられていく。
しかし、クロエはもはや何も恐れてはいなかった。彼女の心は仲間たちとの絆によって、かつてないほど強くそして澄み切っていた。




