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第05話: カフェの噂と『オリジンコアセクター』の影

 金曜日の夕方。一週間の業務を寸分の狂いもなく完璧に完了させ、全ての報告書と必要書類をシステムにアップロードし終えたクロエは、いつもより僅かに浮き立つ心で定時を迎えた。


 今週もまた、数々の非効率な障害や、クライン課長からの理不尽な業務指示(そのほとんどは巧妙に回避したが)を乗り越え、自身の聖域であるアフターファイブを死守した。守り抜いたのだ。


 ——この達成感は何物にも代えがたい。


 今日の目的は、週に一度の楽しみと定めている、隠れ家カフェ「静寂(しじま)のインク壺」への訪問。


 王都の喧騒から少し離れた、古書店が立ち並ぶ路地裏にひっそりと佇むそのカフェは、クロエにとってまさに至福の空間だった。


 重厚な樫の木の扉をゆっくりと開けると、カラン、と優しいドアベルの音が鳴り、落ち着いたトーンのジャジーな音楽の音色と、焙煎された珈琲豆の芳醇な香りがクロエを包み込んだ。


 店内には磨き上げられた天然木のカウンターと、アンティーク調のテーブル席が数席。

 

 壁一面には古今東西の書物が並び、まるで個人の書斎に迷い込んだかのような錯覚を覚える。


 客層も静かに読書を楽しむ人々や、小声で語り合う知識人風の男女が多く、クロエの好みにぴったりだった。


「いらっしゃいませ、クロエさん。

 いつもの席、空いてますよ」


 カウンターの奥で、銀縁の眼鏡をかけた初老のマスターが、柔和な笑みで声をかけてきた。


 彼はこのカフェの主人であり唯一の店員でもある。彼の淹れる珈琲と手作りのケーキは絶品で、クロエはすっかり常連になっていた。


「マスター、ごきげんよう。

 では、いつものブレンド

 『深淵(アビス)静寂(しじま)』と、

 今日のシフォンケーキをお願いします。

 確か、今週は季節限定の

 『霧隠れベリー』でしたよね?」


 クロエはカウンターの一番奥、窓際の指定席のような場所に腰を下ろしながら、淀みなく注文を告げた。マスターは「お詳しいですね」と微笑みながら、手際よく珈琲豆を挽き始める。


「ええ、クロエさんのためなら、

 どんな希少なベリーでも手に入れてきますよ。


 今朝採れたての、幻と言われる

 『ミスト・ルージュベリー』を

 たっぷり使いました。

 きっとご満足いただけると思います」


 軽口を叩きながらも、マスターの珈琲を淹れる所作は真剣そのものだ。一滴一滴、丁寧にお湯を注ぎ、豆の持つポテンシャルを最大限に引き出そうとしている。


 その姿はクロエにとって、ある種の職人の「効率化された美学」を感じさせ、好ましいものだった。


 やがて運ばれてきたのは、琥珀色の液体が美しい曲線を描くカップに注がれた「深淵(アビス)静寂(しじま)」と、淡い紫色をした、見るからにふわふわのシフォンケーキだった。


 ケーキの上には、艶やかなミスト・ルージュベリーが惜しげもなく飾られ、粉砂糖が雪のように薄くかかっている。


「…素晴らしい。

 見た目も香りも完璧な調和です」


 クロエはまず珈琲を一口含む。深く、複雑で、それでいて澄み切った苦味とコク。


 彼女の疲れた脳を優しく覚醒させてくれるようだ。次に、シフォンケーキにフォークを入れる。驚くほど柔らかく、フォークが吸い込まれる。


 口に運ぶとベリーの甘酸っぱさと、シフォンの卵と小麦粉の優しい甘みが絶妙に絡み合い、とろけるような食感と共に口の中に広がっていく。


 これは先日の『金の溜息』とはまた違った方向性の、素朴でありながら奥深い美味しさだ。


「マスター。

 このベリー本当に素晴らしいですね。

 仄かな霧のような香りが、甘さを引き立てています」


「お気に召して何よりです。


 そのベリーは王都の西にある、

 『オリジンコアセクター』の近辺でしか採れない、

 珍しいものなんですよ。


 ただ…」


 マスターは珈琲カップを磨きながら、ふと表情を曇らせた。


「最近、どうもあの辺りの様子が

 おかしいんですよねぇ。

 街の魔力ノイズが、

 以前にも増して酷くなっているみたいです。


 特にオリジンコアセクターの方角から、何か…こう、

 不気味な波動のようなものを感じる——って、


 うちの常連の魔力感知に敏感な連中が

 口を揃えて言うんですよ。


 近づいただけで気分が悪くなる、

 なんて話も聞きます。


 うちのじいさんも昔言ってましたよ、

 『古き核の微睡(まどろ)みは、

 目覚めの刻を待つ龍の息吹』だってね。


 要するに——

 あの遺跡には近づくなってことでしょう?」


 オリジンコアセクター。古代文明の遺跡であり、現在は立ち入りが制限されている危険区域。


 先日の王宮での会議でもその名前が何度か出ていた。魔力インフラの異常との関連も疑われている場所だ。


 クロエはシフォンケーキの甘さを味わいながらもマスターの言葉に意識を集中させた。


「不気味な波動、ですか?」


「ええ。それにここ数週間で

 腕利きの探索者や、物好きな魔術師が何人か、

 あの遺跡の調査に向かったきり戻ってこない……

 という噂もチラホラと。


 まぁ、ただの噂ならいいんですがね。

 こりゃあ、ただの魔力異常じゃねぇかもしれんな、

 なんて思ったりもするんですよ」


 マスターはそう言うと、ふう、と溜息をついた。


 クロエは、何気ないふりをして、自身の魔力感知能力を微かに解放した。普段は周囲への影響を考慮して最低限に抑えているが、今は少しだけ出力を上げる。


 すると、確かに感じ取れた。


 王都全体を覆う、微弱だが不快なノイズ状の魔力パターン。それは、ここ数日で確実に増幅している。


 そして、マスターの言う通り、西のオリジンコアセクターの方角からは、特に強く、そして何よりも異質で歪んだパターンの魔力が、まるで間欠泉のように断続的に放出されているのが分かった。


「これは……

 自然発生的な魔力異常ではありませんね。

 明らかに何らかの干渉波。

 誰かが意図的に、何かを行っている…?


 それもかなり大規模な術式か——

 あるいは、未知のアーティファクトを使って…」


 シフォンケーキの繊細な甘さを感じながらも、クロエの眉間に、無意識のうちに深い皺が寄っていた。


 この歪んだ魔力パターンは、先日クラインに押し付けられた報告書にあった、各地で頻発する原因不明の魔力インフラ障害のデータと奇妙なほど符合する点が多い。


 その時クロエはふと、店内の隅のテーブル席に座る、フードを目深にかぶった男の存在に気付いた。いつからそこにいたのだろうか。


 男はコーヒーカップを片手に顔を伏せて本を読んでいるようだが、その視線が時折こちらを窺っているような、そんな刺すような気配を微かに感じた。気のせいかもしれない。


 だがクロエの直感が、微かな警鐘を鳴らしていた。


「マスター。

 興味深い情報をありがとうございます。

 オリジンコアセクターの件、留意しておきましょう」


 クロエは平静を装い、マスターに礼を言った。しかし彼女の頭の中では、先ほどの歪んだ魔力パターンと「探索者の失踪」という不穏な情報。


 そして王宮でアラン・クルツから得た「魔力系統図の改竄痕跡」という断片が、急速に繋がり始めていた。——何光年も離れた星々が星座となり、そこにストーリーが生まれたように。


 これは単なる自然現象でも、偶発的な事故でもない。何者かが、オリジンコアセクターを利用して王国全体の魔力システムに干渉し、何かを企んでいる。その可能性が限りなく高まってきた。


 そしてその企みがもし成功すれば、王都の機能は麻痺し、大混乱に陥るだろう。


 そうなれば、この「静寂(しじま)のインク壺」で静かにシフォンケーキを味わうような、ささやかだがクロエにとってはかけがえのないアフターファイブの平和も、無残に打ち砕かれてしまうかもしれない。


(面倒ですが……

 これは少し本格的に調査する必要が

 あるかもしれませんね。

 私の平穏な日常と、美味しいスイーツを守るために)


 クロエの中で、これまで「業務外」として切り捨てていた問題への、能動的な関与の意思が芽生え始めていた。それは使命感からではない。


 あくまで自身のワークライフバランスと、アフターファイブのクオリティを維持するためだ。それが、彼女にとっては何よりも重要なことなのだから。


 クロエは残りの珈琲をゆっくりと飲み干し、会計を済ませて席を立った。


「ごちそうさまでした、マスター。

 今日のシフォンも最高でした。

 また来週、楽しみにしています」


「ええ、またのお越しを。お気をつけて」


 マスターに見送られ、クロエはカフェの扉を開けた。その瞬間、先ほどまで感じていた、隅のテーブルのフードの男からの刺すような気配が、ふっと消えていることに気付いた。男がいたはずの席は、もぬけの殻だった。


「……」


 クロエは何も言わず、ただ夜の帳が下り始めた路地裏を、いつもより少しだけ速い足取りで歩き始めた。彼女の心は、既に次なる「最適化」の対象を見定めていた。それは王国に忍び寄る、見えざる脅威の正体だった。

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