第04話: 新人魔術師と効率的指導の始まり
王宮での非効率会議を強制終了させた翌日。
クロエはいつも通り、始業前に自身の研究テーマである「術式自己最適化アルゴリズムの、多重ネスト構造における魔力リーク現象の抑制」に関する論文執筆を進めていた。
昨日、アラン・クルツから得た情報は夜のうちに初期分析を終え、いくつかの検証すべき仮説を立てている。
それによると王都の魔力インフラの不具合は、単なる老朽化や事故ではなく、何者かが意図的に「未知のバイパス回路」を利用して正規ルート外から大量の魔力を不正に引き出している可能性が高い。
しかも、その痕跡は巧妙に隠蔽されている。
「面倒なことになってきましたね。
ですが、
私の定時退社を脅かすレベルの事態でない限り、
深入りは避けるのが賢明でしょう」
そう結論付けた矢先、クロエのブースにクライン課長が珍しく神妙な、しかしどこか面倒事を押し付けようという魂胆が見え隠れする顔つきでやってきた。
彼の後ろには、制服を着た小柄な少女が、極度の緊張で顔をこわばらせながら縮こまるように立っていた。
少し大きめの魔術師団の制服に埋もれるようにして、明るい茶色の癖っ毛のショートボブからは、不安げなヘーゼルの瞳が覗いていた。
「ワークライフ君。
今日から君のチームに
新人が配属されることになった。
リリィ・プランケット君だ。
魔導学校を優秀な成績で卒業した期待の新人だ。
…というわけで君が
彼女の指導係を担当してくれたまえ。
君のその卓越した効率性とやらを
後進の育成にも、いかん無く発揮してくれることを
期待しているぞ。
これは業務命令だ」
クラインは一方的にそう告げるとリリィの肩をポンと叩き、「まあ、ワークライフ君は少々変わってはいるが腕は確かだから、しっかり学ぶんだぞ」などと余計な一言を添えて、さっさと自席に戻っていった。
「新人育成……年間業務タスクの中でも、
特に非効率、かつ予測不能な要素を多く含む、
最難関ミッションの一つですね」
クロエは内心で深々と、本日二度目のため息をついた。目の前では、リリィと名乗った少女が金魚のように口をパクパクさせながら、今にも泣き出しそうな顔でこちらを見上げている。
小動物のような大きな瞳は潤み、肩は小刻みに震えている。お世辞にも「期待の新人」という風格はない。
「リリィ・プランケットです!
あの、今日からお世話になります!
ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます!」
か細い声で、しかし必死にそう叫ぶと、リリィは深々と頭を下げた。その勢いで、持っていた鞄から数冊の魔導書がバサバサと床に落ちる。慌てて顔を上げた拍子に、頬のそばかすが一層赤く見えた。
ところが。彼女は魔導書を拾おうとして、さらに別の書類をぶちまけた。典型的なドジっ子属性のようだ。クロエの額に僅かに青筋が浮かんだ気がした。
しかし、クロエは感情を表に出さず、リリィのプロフィールデータ(クラインが置いていった羊皮紙に走り書きされていた)に目を通す。
魔導学校の総合評価はB+。実技は平凡だが、座学、特に古代文献学と思想史の成績が突出してS評価を得ている。
(……実技は平凡だが、座学、
特に古代文献学と思想史の成績が突出してS評価。
なるほど、特定の専門分野に没頭する
と驚異的な集中力を発揮するタイプ。
その反面、周囲への注意が散漫になり、
日常的な動作でミスをしやすいのかもしれない。
その知識は使い方次第では
化ける可能性を秘めているかも——)
——ということを瞬き一回よりも短い時間のうちに考えたのち、クロエは思考を切り替え、脳内ディスプレイにペライチの企画書を示した。
○○○○
目標設定:リリィ・プランケットを
三日間で最低限の戦力、
即ち「私の業務を阻害しないレベルの人材」に育成。
可能であれば、
彼女の特異な知識ベースを活かせるタスクを発見し、
戦力として活用する。
○○○○
「リリィさん、落ち着いてください。
まずはそこに座って。深呼吸を三回。
それから自己紹介を三分以内で簡潔にお願いします。
あなたの得意なこと、苦手なこと、
そして魔術師団で何をしたいのか。
合理的かつ具体的に」
クロエの冷静で事務的な口調に、リリィは少しだけ落ち着きを取り戻したようだった。
◇
育成初日。クロエはまず、自身が数年かけてブラッシュアップを続けてきた「魔術師団第三課・新人向け業務マニュアルVer.4.2.1(クロエ・エディション)」のデータを、リリィの真新しい魔導端末に転送した。
全三百ページ超、図解とフローチャート、FAQ、トラブルシューティング事例集、そして巻末にはクロエ特製の「非効率行動パターンとその改善策リスト」まで網羅した、完璧なマニュアルだ。
「まずはこれを熟読し、
内容を完全に理解してください。
特に第一章の『定時退社のための基礎心得』と、
第三章の『報告・連絡・相談の
最適化プロトコル』は重要です。
質問は、マニュアルを読んでも
理解できなかった点のみ、まとめて行うこと。
よろしいですね?」
「は、はい!
ありがとうございます!
頑張って読みます!」
リリィは目を輝かせ、まるで聖書でも授かったかのようにマニュアルのデータを受け取った。しかし、現実はそう甘くはない。
◇
数時間後、リリィは基本的な魔道具の操作訓練で、ミスを連発していた。魔力充填器の出力調整を誤り、訓練用の小型魔石をオーバーロードさせて発煙させる。
データ入力端末の操作では単純な転記ミスを繰り返し、データベースにエラーログを大量発生させる。
挙げ句の果てには、資料整理用の自動仕分けゴーレムに間違った指示を出し、貴重な文献を魔導シュレッダーにかけそうになる始末。
その度に半泣きになり、クロエに「申し訳ありません!」「どうしましょう!」と狼狽する。
クロエは、淡々とその状況を観察し、記録していた。彼女の表情は変わらないが、内心では「これは想定以上に時間がかかりそうですね。私の定時が…」と、微かな危機感を覚えていた。
そこへ、訓練場の近くを通りかかったバーンズが、リリィの惨状を見かねて(あるいは単に口を出したくて)割って入ってきた。
「おい新人! 声が小さい! 気合が足りん!
そんなんじゃ
魔石もゴーレムも、お前の言うことなんか聞かんぞ!
基本は根性だ! 腹から声を出せ!
よぉし! もう一回やってみろ!」
バーンズの体育会系の、時代錯誤な大声指導がリリィに浴びせられる。
ただでさえ萎縮していたリリィは、その威圧感に完全に怯え、さらに手元がおぼつかなくなり、今度は魔力ポーションの調合キットをひっくり返してしまった。
色とりどりの液体が床に広がり、異臭を放ち始める。リリィの潤んだ大きな瞳は今にも涙で溢れそうに揺れている。
「ひぃぃぃ! ご、ごめんなさいぃぃ!」
「だから気合が足りんと言っとるだろうが!」
バーンズの怒声が響く。クロエは静かに立ち上がり、二人の間に割って入った。
「バーンズさん。
あなたのその指導方法は、
彼女の特性及び現在の心理状態に適合していません。
現状、効率を著しく低下させる要因
となっていますのでお引き取りいただけますか。
ここは私の管轄です」
「な、なんだと!
俺は親切で教えてやってるんだろうが!」
「その『親切』が、
対象にとって迷惑、かつ非効率であるという
可能性を考慮できない点が、あなたの限界です。
どうぞ、ご自分の訓練にお戻りください。
あなたの『根性』は別の場所で
お役立ていただければと」
クロエの冷徹な正論と、有無を言わせぬオーラに、バーンズは「ぐぬぬ…」と唸りながらも、渋々引き下がった。
クロエは床にしゃがみ込み、半べそをかいているリリィに視線を合わせた。
「リリィさん。
ミスは誰にでもあります。
重要なのは、ミスの原因を特定し、
分析し、再現させないための
具体的な対策を講じることです。
五分間差し上げますから、
今の連続した失敗の原因と、
それに対するあなたなりの改善策を
三点、論理的に報告してください。
——感情論は不要です」
厳しいが、的確な指示。
否、的確だが、厳しい指示。
——どちらだろうか。
いずれにせよリリィは必死に涙をこらえ、震える声で「は、はい…」と頷き、必死に頭をフル回転させ始めた。クロエは、その様子を静かに見守っていた。
五分後。リリィは、まだ少し声は震えていたものの、先ほどよりは落ち着いた様子で報告を始めた。
「えっと……まず魔力充填器のミスは、
マニュアルの操作手順を記憶違いしていて、
確認を怠ったことが原因です。
改善策は、
操作前に必ず該当ページを再確認し、
指差し確認をすることです」
「次に、データ入力のミスは、
焦りと緊張で集中力が散漫になっていたこと、
あと、キーボードの配置に
まだ慣れていないことが原因だと思います。
改善策は、入力前に深呼吸をして落ち着くことと、
タイピング練習ソフトで基礎練習をすることです」
「最後に、ゴーレムの誤操作は……
バーンズ先輩の声にびっくりして
パニックになってしまったことが……」
——そこまで言って、リリィはハッとして口をつぐんだ。上司の指示で先輩の非を指摘するのはまずいと思ったのだろう。勘のいい子である。
クロエは小さく頷いた。
「ゴーレムの件は外部要因ですから、
あなたの直接的な責任範囲外と判断します。
ただし、突発的な事態への対応力は
今後の課題ですね。
仕事というのはほぼ、突発事態への対応ですから。
それ以外の分析と改善策は概ね妥当です。
特に、原因を自分の内面と外面に
分けて考察しようとした点は評価できます」
「あ、ありがとうございます……!」
リリィの顔に、わずかに安堵の色が浮かんだ。
「用語解説については
マニュアルに追記しておきましょう。
あなたの専門である古代文献学の知識は、
現代魔導工学の用語体系とは異なるでしょうから。
緊張については……そうですね、
深呼吸と、小さな成功体験の積み重ねが有効です。
では、これを」
クロエは、ごく簡単な、しかし手順の正確さが求められる魔力パターンの識別照合タスクのデータクリスタルをリリィに手渡した。
「これは、本日中に必ず完了させてください。
手順はマニュアルのP.158を参照。
焦らず、一つ一つ確認しながら行えば必ずできます。
私は隣で自分の作業をしていますが、
何かあれば声をかけてください。
ただし、
マニュアルに書いてあることは、質問しないように」
リリィは緊張した面持ちでデータクリスタルを受け取り、自分のブース(クロエの隣に急遽設置された)に戻ると、マニュアルを開いて真剣な表情で作業に取り組み始めた。
数時間後、定時十五分前。リリィが恐る恐る、しかしどこか達成感に満ちた顔でクロエの元へやってきた。
「せ、先輩! できました!
識別照合、完了しました!
エラーも……ありませんでした!」
その手には、完璧に処理されたデータクリスタルが握られている。クロエはそれを受け取り、一瞬で内容を検証した。確かにミスはない。
「結構です。よくできました。
基本は押さえましたね。成長速度は予測範囲内です」
「ほ、本当ですか!? ありがとうございます!」
リリィの顔が、ぱあっと明るくなる。今日初めて見る、心からの笑顔だった。
「では、今日はここまで。お先に失礼します」
クロエはそう言うと、さっさと帰り支度を始めた。
「えっ、あ、はい! お疲れ様でした!」
呆気にとられるリリィを後に、クロエはオフィスを出ようとしたが、ふと思い出したように立ち止まり、振り返った。
「リリィさん。
明日はもう少し難易度の高い課題を出しますから、
今日渡したマニュアルの応用編……
特に『並列思考による複数タスクの
同時処理入門』の章を予習しておくように。
それと、あなたの専門である古代文献学の知識が、
現代魔術の非効率性を打破する、
鍵になるかもしれません。
その視点も忘れないでください」
「は、はい! 頑張ります!」
クロエは小さく頷くと、今度こそ本当にオフィスを後にした。彼女の背中を見送るリリィの瞳には、緊張だけでなく、憧れと、そしてほんの少しの目標を見つけたかのような輝きが宿っていた。
クロエはといえば——
(今日の新人育成という非効率タスクは
思ったより早く終わりましたね。
これならブックカフェで
ハーブティーを二種類試す時間くらいは
あるかもしれない……)
——などと考えながら、足取り軽く庁舎を後にするのだった。