第02話: 非効率なスライム討伐戦線
翌朝。いつものように定刻の三十分前に魔術師団の庁舎に到着したクロエは、自席で始業までの時間を魔導理論の最新論文の読解に充てていた。
完璧に調整された魔導ランプの柔らかな光が、彼女の真剣な横顔を照らしている。コーヒーはブラック。砂糖やミルクは、摂取カロリーと準備時間の観点から最適解ではない。
始業時刻きっかりに庁舎全体に鳴り響く鐘の音と共に、クロエは論文から顔を上げた。今日のスケジュールは既に昨夜のうちに脳内でシミュレーション済みだ。
午前中に割り当てられた定型業務を処理し、午後は先日クライン課長から押し付けられた報告書の残件処理と、進行中の魔力効率改善プロジェクトのデータ分析。
そして十七時ジャストに退勤し、今日は気になっていたブックカフェで新作のハーブティーを試す予定。
完璧な一日になるはずだった。そう、掲示板の緊急アラートが、けたたましい警告音と共にオフィス中に響き渡るまでは。
「緊急討伐依頼、ね。
出ましたか、本日最初の非効率イベントが」
クロエは小さくため息をつきながら、ブースの壁面に設置された共有情報ディスプレイに視線を送った。そこには赤文字で通達が点滅している。
○○○○
警戒レベル3:
近郊森林エリア
『エメラルドメイズの森』にスライム
(変異種・高分裂・弱酸性腐食タイプ)大発生。
周辺住民への被害拡大の恐れあり。
第三課及び第五課は、合同で即時対応せよ。
○○○○
「スライム、ですか。
しかも変異種とは、少々仕様が面倒ですね。
高分裂に腐食性……。
周辺住民へのケアも考慮すると
早めに対応すべき案件。
予定を少し組み替える必要はありますが、
元の予定も含めて、定時までには終わるでしょう。
——いえ、終わらせます」
クロエは冷静に状況を分析し、脳内のスケジュールを再構築し始める。隣のブースでは、既に戦闘準備を整えつつあるバーンズ・ゲイルが、拳を鳴らしながら意気込んでいるのが聞こえてきた。
「おおっ、スライム討伐か! 腕が鳴るぜ!
派手に吹き飛ばして、一匹残らず浄化してやる!
ワークライフ、お前もさっさと準備しろよ!
こういう時こそ、日頃の鍛錬の成果を見せるんだ!」
袖をまくり上げた制服の下の逞しい腕に力がこもる。彼の琥珀色の瞳が、太陽の光を受けて爛々と輝いた。
バーンズの言葉には純粋な闘志と、そしておそらくだがクロエに対する若干の対抗意識が滲んでいる。
昨日の一件で、彼女の異常なまでの処理能力を改めて目の当たりにしたものの、それを素直に認めたくないのだろう。
クロエは特に反論もせず、淡々と討伐任務用の装備をロッカーから取り出した。カスタムメイドの魔導杖「オプティマイザー・ロッド」、各種属性に対応した魔力カートリッジ、そしてゴーグル型多機能解析魔導具「アナリティカル・レンズ」。
全て彼女自身が設計、あるいは既存品を徹底的に効率化したものばかりだ。
「バーンズさん。
派手に吹き飛ばすと、高分裂タイプの場合は
逆効果になる可能性がありますが、
ご存じでしたか?」
「なっ…! う、うるさい!
俺には俺のやり方があるんだ!
見てろ、お前のちまちましたやり方より、
俺の豪快な魔法の方が
早く片付くことを証明してやる!」
どうやら彼に何を言っても無駄なようだ。クロエは再び小さくため息をつき、解析レンズを装着した。
レンズ越しに、彼女の翠色の瞳が一瞬鋭く光る。その瞳では、これから始まる戦闘に向けた冷静な分析が、既に始まっているようだ。
「まあ、彼の行動もデータ収集の一環として、
観察するとしましょう。
『このあと失敗する魔術師個体』
——として、
後の報告書に役立つかもしれませんしね」
◇
エメラルドメイズの森の討伐現場は、クロエの予想を僅かに上回る混乱状態にあった。既に先行していた第五課の魔術師たちが、あろうことかバーンズ同様に「派手に吹き飛ばそう」としていた。
彼らが放つ威力の高い範囲攻撃魔法は、確かに一部のスライムを消滅させてはいるものの、その衝撃で大半のスライムが数百の微細な個体に分裂し、結果として被害範囲を無尽蔵に拡大させていた。
さらに、地形は無駄に抉られ、二次的な環境汚染すら引き起こしている。まさに非効率の展覧会だ。
「くそっ、キリがねえ! 分裂しやがって!」
「おい、そっちはどうなってる!
こっちも手が足りん!」
第五課の魔術師たちの焦燥した声が飛び交う。そして、その混乱に拍車をかけているのが、我らがバーンズだった。
「くらえええっ! 爆裂火球連弾!!」
バーンズは雄叫びと共に、両手から次々と灼熱の火球をスライムの群れに向けて放つ。
その威力は確かに目を見張るものがあるが、クロエのアナリティカル・レンズが瞬時に表示したデータは無情だった。
火球の強大な熱エネルギーだけでなく、その爆発的な衝撃がスライムの物理的な分裂を誘発し、さらに熱が体組織を不安定にさせ、分裂後の再生活動を通常時の約300%にまで高めている。
おまけに、彼の魔法による衝撃波が弱酸性の腐食液を広範囲に飛散させ、周囲の植物を枯らしている。
あまりにも美しい、完璧な逆効果である。味方の足を引っ張る行為と言っても過言ではない。
「バーンズさん。
その攻撃パターンは、
敵の分裂と腐食被害を促進させています。
直ちに攻撃を中止し、
より低刺激、かつ広範囲をカバーできる
冷却系の術式に切り替えることを推奨します」
クロエは冷静に、しかしはっきりとバーンズに通信魔法で指示を送った。
アナリティカル・レンズは既に、変異スライムの核の正確な位置、分裂を抑制する特定の低周波冷気パターン、そして腐食液を最も効率的に中和するアルカリ性魔導物質の最適配合比率を割り出している。
「うるさい! うるさいうるさいうるさい!
俺の戦い方に口を出すな!
援護はいいからお前はそこで見てろ!
俺がこいつらを全滅させてやる!」
バーンズからの返答は予想通り、何らのロジックも感じさせない感情的なものだった。彼はクロエの的確な分析とアドバイスを、自身のプライドへの挑戦と受け取ったようだ。
頑固で非合理的な男。その真っ直ぐさは、時として美点にもなり得るのかもしれないが、今はただの障害でしかない。
「…やむを得ませんね。
現状、第五課とバーンズさんは、
戦力というよりむしろ
マイナス要因として機能している、と判断します。
これ以上の被害拡大と時間浪費を防ぐため、
プランBに移行。
単独での制圧を開始します。目標タイム、五分以内」
クロエは小さく呟くとオプティマイザー・ロッドを構えた。彼女の周囲の空気がわずかに震える。
まず、クロエは広範囲に極低温の魔力フィールドを展開した。それはバーンズの火球のような派手さはないが、計算され尽くした周波数の冷気が、森全体に薄い霧のように広がり、活性化していたスライムたちの動きを瞬く間に鈍化させる。
分裂の勢いも、目に見えて弱まった。同時に、大気中の水分を凝集させて微細な氷の結晶を生成。これが、腐食液の中和に必要なアルカリ性物質を運搬・散布する媒体となる。
「第一フェーズ、環境制御完了。
続いて、能動的無力化を開始」
次に、クロエはオプティマイザー・ロッドの先端から、レーザー光線のように細く絞られた氷の針を、雨あられと放ち始めた。
それは第五課の魔術師たちが放つような広範囲攻撃ではない。一つ一つの氷の針は、アナリティカル・レンズがリアルタイムで捕捉・追尾している無数のスライムの、まさにその「核」だけを正確に貫いていく。
一ミリの狂いもない、神業的な精密射撃。魔力の消費は最小限に抑えられ、それでいて効果は最大限。
バーンズが派手な魔法で一体倒す間に、クロエは数十、数百の個体を沈黙させていく。それはもはや戦闘ではなく、効率化された「作業」だった。
バーンズの火球が着弾し、新たな分裂と腐食液の飛散を引き起こすその瞬間に、クロエの生成したアルカリ性氷晶がピンポイントで飛来し、腐食液を中和。
被害を未然に防ぐ。バーンズの行動すら、クロエの計算の中では予測済みの変数の一つに過ぎないかのように。
あっという間だった。数分前まで森を埋め尽くさんとしていたスライムの群れは、クロエが一人で戦場に介入してから、わずか三分四十五秒で完全に沈黙した。
森には元の静寂が戻りつつあった。ただ、第五課とバーンズが破壊した地形、枯らせた植物の痕だけが、痛々しく残っている。
「討伐完了。
現場保全及び二次汚染防止措置、実行。
所要時間、三分五十二秒。
予定より若干早まりましたね。上出来です」
クロエはオプティマイザー・ロッドを収めると魔導端末を取り出し、音声入力と自動整形システムを併用して、討伐報告書をその場で作成し始めた。
被害状況、討伐方法、使用魔力、所要時間、そして今後の対策案。全てが簡潔かつ的確にまとめられていく。
呆然と立ち尽くす第五課の魔術師たちと、自分の魔法が全く役に立たなかった(むしろ邪魔だった)という事実に愕然としているバーンズを尻目に、クロエは他の隊員たちが後片付けや負傷者の手当て(幸い軽傷者のみだった)を始めるのを横目に、さっさと帰還準備を整えた。
「バーンズさん。
今回の戦闘データは、
今後のあなたの訓練に大いに役立つことでしょう。
特に、状況判断と魔力効率の点で、
改善の余地が多く見受けられました。
報告書にも詳細を記載しておきますので、
後ほど熟読されることをお勧めします。
では、お先に失礼します」
一方的にそう告げるとクロエは転移魔法陣を展開し、一足先に魔術師団庁舎へと帰還した。
残されたバーンズは、悔しさと、そしてほんの少しの、クロエの圧倒的な実力に対する畏怖のような感情がない混ぜになった複雑な表情で、彼女が消えた空間を見つめていた。
彼のプライドはズタズタだろうが、これも彼が成長するための必要なプロセスだ、とクロエは考えていた。もちろん、そのために自分が余計な手間をかけるつもりは毛頭ないが。