第18話: リリィの来訪と『非効率だが無視できない変数』
クロエは「王立先進魔導研究所」とヴァロワールの影、そしてあの事件との関連性を見つけてから一段ギアをあげて調査に没頭していた。
あの事件を忘れることはないし、彼女への思いも変わることはないが、今は、目の前の課題に向けて、未来(と未来のアフターファイブ)に向けて戦わなければならない——そう心に決めたのだ。
数日後。彼女の自宅の呼び鈴が、再び鳴った。
モニターに映っていたのは、意外な人物だった。先日配属されたばかりの新人、リリィ・プランケットだ。その手には、小さなバスケットが抱えられている。
「せ、先輩……!
あの、謹慎中だとお聞きしましたので、
お見舞いに……と思いまして……。
これ、母が焼いたクッキーなんですけど、
もしよかったら……」
リリィは、緊張で顔を赤らめながら、おずおずとそう言った。彼女なりに、クロエのことを心配して訪ねてきてくれたのだろう。その健気さには、さすがのクロエも少しだけ心が和むのを感じた。
「リリィさん。
わざわざありがとうございます。
ですが私は謹慎中といっても、
特に体調が悪いわけではありませんので、
ご心配には及びません。
むしろ普段よりも研究に集中できて、
有意義な時間を過ごしていますよ」
クロエは、リリィをリビングへと招き入れた。客という意味では、彼女の家を訪れたのは、おそらくリリィが初めての客かもしれない。
「それより、
何か魔術師団で変わったことや、
新しい情報はありましたか?
あなたは意外と情報収集能力が高いようですから」
クロエは、リリィが在処を質問しながらも淹れてくれたハーブティー(少し茶葉が多すぎたが、気持ちは嬉しい)を飲みながら、さりげなく情報を引き出そうとした。
リリィは、最初こそ恐縮していたが、クロエの穏やかな態度に少し安心したのか、ぽつりぽつりと最近の出来事を話し始めた。
「あの…実は、先日、新人研修でご一緒した、
王立アカデミーのシオン・アークライトさんと、
少しお話しする機会がありまして…」
「シオン・アークライト、ですか。
彼が何か?」
クロエの眉が、僅かに動いた。
「はい。シオンさん、とても博識な方で
……古代魔法のこととか、異次元のこととか、
色々教えてくださったんですけど……
その時に、こんなことをおっしゃっていたんです。
『クロエ・ワークライフさんのような、
徹底した効率主義と合理性も素晴らしいけれど、
それだけでは割り切れないのが、
人の心の機微というものだよ。
時には非効率に見える感情や、
論理では説明できない直感こそが、
真実への扉を開く鍵になることもある』って…」
リリィは、シオンの言葉を思い出しながら、真剣な表情でそう語った。
「それにシオンさんも、
最近頻発している魔力インフラの異常や、
オリジンコアセクターのゴーレム事件について、
独自に色々と調査をされているみたいなんです。
何か、私たちとは違うアプローチで、
事件の核心に迫ろうとしているような……
そんな雰囲気を感じました」
クロエは、リリィの報告を黙って聞いていた。シオン・アークライト…あの掴みどころのない天才が、やはりこの事件に深く関わろうとしているのか。
そして彼の言う「人の心の機微」や「非効率に見える感情」という言葉。それは、クロエが最も重視しない、むしろ排除しようと努めてきた要素だ。
しかし、ヴァロワールの過去の片鱗に触れ、彼が「効率」という名の下に歪んだ狂気に囚われていった可能性を考えると、シオンの言葉はどこかクロエの心の琴線に触れるものがあった。
(人の心……感情……直感……
確かに、それらは論理や効率では測れない、
不確定要素の塊です。
ですが、もしヴァロワールを、
そしてこの事件の元凶を理解し、
それを止めるために、
それらの要素が本当に必要だとしたら…?
非効率ですが、無視できない変数かもしれませんね)
クロエは、ほんの少しだけ、自身の凝り固まった思考様式に、小さな疑問符が浮かぶのを感じていた。それは、彼女にとって、大きな変化の兆しとなるのかもしれない。
「リリィさん、ありがとうございます。
それは、非常に有益な情報です。
シオン・アークライトの動向に
ついては、引き続き注意を払う必要があるでしょう」
クロエは、素直にリリィに礼を言った。彼女の情報収集能力は、やはり侮れない。その純粋さと、人懐っこさが、相手の警戒心を解き、重要な情報を引き出すのかもしれない。
「それにしてもあなたも、
あの日から少しは成長したようですね。
物事を多角的に捉えようとする姿勢が見られます。
——いい傾向です」
「えへへ……
ありがとうございます、先輩!
先輩にそう言っていただけると、嬉しいです!」
リリィは照れくさそうに、しかし満面の笑みを浮かべた。
「では、せっかくですから、
あなたにも簡単な情報分析の課題を出しましょうか。
私が今追っている『黄昏の秘文字』という結社に関する
断片的な情報をいくつか渡します。
あなたの専門である古代文献学の知識を駆使して、
これらの情報から、
結社の思想的背景や、
彼らが重視している可能性のある古代のシンボル、
あるいは儀式などについて、
レポートとしてまとめて提出してください。
期限は……そうですね、明日の定時まで。
もちろん、無理のない範囲で結構ですよ」
クロエは、リリィの能力を試す意味と、そして純粋に彼女の知識を借りたいという思いから「指導」という名の情報整理依頼を行った。
「は、はい!
私にできることなら何でもやります!
頑張ります!」
リリィは、目を輝かせて力強く頷いた。彼女にとって、クロエに頼りにされることは、何よりの喜びであり、モチベーションなのだ。
リリィが持ってきてくれたクッキー(素朴だが心のこもった味で、意外と美味しかった)をつまみながら、クロエは、リリィの成長と、彼女がもたらしたシオン・アークライトという新たな変数について、静かに思考を巡らせていた。
この事件は、クロエが当初想定していたよりも、遥かに複雑で、そして人間臭い要素を多く含んでいるのかもしれない。
そして、それを解決するためには、彼女自身の「効率」の定義すらも、見直す必要が出てくるのかもしれない、と。
そんな予感が、クロエの胸を微かに過ぎった、ある午後の出来事だった。