第17話: 偶然の発見と、親友を失くした記憶
クロエが自宅ラボで「黄昏の秘文字」に関する情報分析に没頭していた翌日の午後。
彼女の家の呼び鈴が、珍しく訪問者を告げた。モニターに映し出されたのは、大きな紙袋を両手に抱えた、クライン課長の姿だった。もちろん、アポイントメントなどない。
「ワークライフ君。
謹慎中とはいえ、暇を持て余している
だろうと思ってな。
君の反省と、そして社会貢献の一環として、
これらの書類の電子化と要約作業を頼みたい。
なに、君のその優秀な頭脳と
効率的な魔法をもってすれば、
造作もないことだろう?
期限は…まあ、急ぎではないが、
なるべく早く頼むよ」
クラインは、玄関ドアを開けたクロエ(もちろん、警戒して防御魔法を展開した状態だ)に、有無を言わさず紙袋を押し付け、そそくさと立ち去っていった。
紙袋の中には、羊皮紙や古ぼけた紙に手書きで記された魔術師団の過去数十年にわたる雑多な会計記録や、既に誰も参照しなくなったような備品管理台帳、果ては過去のイベントの反省文らしきものまで、ありとあらゆる種類の「紙のゴミ」が、無秩序に詰め込まれていた。
明らかに、クロエに対する嫌がらせであり無意味な業務の押し付けだ。出るとこに出れば勝てる「ハラスメントの類」かもしれない。
「……やれやれ。
彼の非効率な思考回路と、陰湿な性格には
深い味わいがありますね。ですが……」
クロエは、巨大な紙袋の山を前にして、ふと、ある可能性に思い至った。
「年代物の情報の中には、時に、
思わぬ発見が隠されているものです。
『古井戸の底の泥水も、月影宿せば玉手箱』
と言うではないですか。
特に、意図的にアーカイブから
削除されたり、改竄されたりする
前の「生の記録」というのは、
貴重な一次情報源となり得る。
まあ、
この紙の山から有益な情報が見つかる確率は、
隕石に二度当たるよりも低いでしょうが、
ゼロではありません」
クロエは、このクラインによる非効率な嫌がらせ業務を、むしろ自身の情報収集の好機と捉え、自室に設置した大型の自動スキャン魔導装置をフル稼働させていた。
彼女の超人的な集中力と処理能力をもってしても、その「紙のゴミの山」は膨大であり、数時間が経過しても、ようやく半分ほどがデジタル化されたに過ぎなかった。
その時、スキャンデータの中に、クロエの注意を強く引くキーワードが赤くフラグ表示された。
それは、一枚の古く黄ばんだ会計記録の断片に走り書きのように記された「王立先進魔導研究所」という組織名と、その責任者として記された「ヴァロワール」という署名だった。
その記録は、その研究所に対して王宮から使途不明の多額の研究資金が、極秘裏に、かつ異例の速さで承認・提供されていたことを生々しく示していた。
「王立先進魔導研究所……ヴァロワール——!」
その二つの名を認識した瞬間、クロエの全身を、まるで強力な魔法の衝撃を受けたかのような戦慄が貫いた。
心の奥底に封印していた記憶の扉が、何の予告もなく暴力的にこじ開けられたのだ。
目の前のディスプレイが歪み、耳鳴りが頭蓋を劈く。フラッシュバック。あの日の、炎と悲鳴、絶望と無力感。
研究所の白い廊下が赤く染まり、信頼する同僚であり、かけがえのない友人・アステルが目の前で——!
「うっ……くっ……!」
クロエは思わず胸を押さえ、激しく咳き込んだ。呼吸が浅く速くなり、冷や汗がその白い額に滲む。
(違う……!
これは、過去のデータです……!
私は、今、ここにいます……!)
数秒間、あるいは体感としては数分間、クロエは激しい精神的混乱と戦ったが、何とか冷静さを取り戻し、震える指で魔導端末を操作して関連情報をリファレンスし始めた。
その翠色の瞳の奥には、もはや冷静さだけではない、深い悲しみと、そしてそれを上回るほどの、静かで冷徹な怒りの炎が宿っていた。
次々と表示される情報が、彼女の最悪の直感を裏付けていく——。
「王立先進魔導研究所」は間違いなく、彼女が学生時代に短期間だけ所属し、そしてかけがえのない友人・アステルを失った、あの悲劇の場所だ。
そしてヴァロワールは、当時その研究所の若き所長として、次世代の魔導技術開発という名目の裏で、密かに禁断の古代魔法と、それを利用した大規模破壊兵器の研究を、王宮の一部勢力の黙認、あるいは積極的な支援の下に進めていた。
アステルが巻き込まれた事故もまた、公式には「未知の古代魔法の暴走」とされていたが、それはヴァロワールの危険な実験が引き起こした人災か―—あるいは、彼の計画に反対し始めたアステルを「処理」するための、巧妙に仕組まれた「排除」であった可能性すら、今回の資料からは否定できない。
さらにその研究所が、過去に「黄昏の秘文字」の思想——古代魔法による世界の革新と、非効率な既存秩序の破壊——と酷似した過激な研究グループの温床となっていたことも、複数の証言記録の断片から明らかになった。
「……そうだったのですね…
アステル……。あなたは……!
そしてヴァロワール……
あなたという男は……!」
全ての点と点が、クロエの中で血塗られた一本の線として繋がった。彼女のかけがえのない友人・アステルの死の真相——そして、現在進行形で王国を脅かしている「黄昏の秘文字」とヴァロワールの陰謀。
その全てが、この「王立先進魔導研究所」という名の闇の坩堝から生まれていたのだ。
「……クライン課長の、
この非効率極まりない嫌がらせが、
結果として、
このような『真実』への扉を開くことになるとは……
皮肉にも程がありますね。
ですが、もはや感傷に浸っている時間はありません」
クロエの表情から、先ほどの動揺は完全に消え失せていた。代わりに宿っていたのは氷のような冷徹さと、全てを焼き尽くすかのような静かな怒り。
何よりも、この長年にわたる非効率な悲劇の連鎖を、自らの手で完全に断ち切るという、揺るぎない決意だった。
「ヴァロワール……
そして、黄昏の秘文字……。
あなたたちのその非効率な存在と、
それによって生み出される全ての悲劇は、
私が、この手で完全に、
そして効率的に、排除します。
それがアステルへの……
そして、私の失われたアフターファイブへの、
唯一の償いですから」
クロエは、残りの書類の山を、もはや以前のような淡々とした作業としてではなく、宿敵の正体とその罪状を暴き出すための、執念に満ちた捜査として、鬼気迫る集中力で処理し始めた。
彼女の「定時退社」という個人的な信条は、今、過去の清算と未来の守護という、より大きな意味を帯びて、彼女を突き動かそうとしていた。
数時間後、全ての書類の電子化と要約を完了させたクロエは、その完璧なデータを、丁寧な礼状(もちろん皮肉たっぷりだが、クラインには理解できないだろう)と共にクライン課長の端末に送信した。
『クライン課長。
ご指示いただきました書類の電子化及び要約作業、
完了いたしました。
詳細データは添付の通りです。
なお、作業中に、
いくつか非常に興味深い歴史的記録を
発見いたしましたので、
別途、詳細な分析レポートを作成し、
後日提出させていただく所存です
ただし、その内容と提出時期については、
私の判断に委ねさせていただきます。
この度は、貴重な研究機会を与えていただき、
誠にありがとうございました』
彼女の戦いは、新たな局面を迎えようとしていた。それは、過去の亡霊との対決でもあった。