第101話: アステルからの贈り物
賢者ヴァイスクとの戦いが終わり、数週間。クロエは魔術師団第三課の自席で、山と積まれた報告書の最後のページを処理していた。
窓の外では、復興の槌音が穏やかな午後の日差しに溶けている。
(ああ……
ヘキサグラマトンの脅威は、本当に去ったのですね)
クロエはふと、机の隅に置いてある古い写真立てに目をやった。以前はデスクの引き出しの奥底に仕舞っていた、アステルと共に撮った写真。
「…………」
クロエは今、穏やかな指先でそっと触れることができた。心の傷はもはや彼女を苛む呪いではなく、未来へと進むための道標となっていた。
◇
そんなある日クロエの元に、かつて「王立先進魔導研究所」で古代魔法の倫理規定や、その暴走リスク管理をしていた、あのエリオット・グレイワンドから一通の古風な手紙が届いた。
『クロエ君。
今回のヘキサグラマトンの騒動。
私の耳にも届いている。
あの日——王立先進魔導研究所で
あまりにもふさぎ込む君に
渡せなかったものを送ろう。
これはアステル君が恐らく事故の直前に
君に残したデータクリスタルだ。
今の君ならロックを解除できるのではないか』
手紙には、小さなデータクリスタルが同封されていた。
「——!」
データクリスタルを手に取るとひんやりとした感触が、あの日の記憶を呼び覚ます。クロエは一瞬だけ、その過去と向き合うことに躊躇いを覚えた。
だが静かに目を閉じ、深呼吸を一つすると、自身の魔力に、アステルの優しかった記憶、共に笑い合った日々の温もりを重ね合わせるように、祈りを込めてシンクロさせた。
するとクリスタルは、応えるかのように淡い光を放ち、ゆっくりと封印を解いた。
「アス……テル!」
壁に映し出されたのは、膨大な量の基礎データと未発表の論文だった。クロエの知らないアステルのもう一つの研究。
「アステル……あなたはこんな研究を……?」
クロエの瞳が、信じられないものを見るかのように大きく見開かれた。そこに記されていたのは、アステルがよく話していたこと——即ち、効率と結果の追求とは全く異なる、生命そのものへの深い愛情に満ちた理論だった。
「やっぱりあなたにも
こんな一面があったのですね……」
その理論はヘキサグラマトンのような強大な力で世界を強制的に書き換えるのではなく、むしろこの世界の自然なエネルギー循環や生命の持つ自己修復能力を魔法的に補助し、それらの調和を優しく促すことで、破壊された自然環境を回復させたり人々の心の傷を癒したりする可能性を秘めた、まさに希望に満ちた魔法だった。
論文の最後はアステルによる、クロエへのメッセージで締めくられていた。
『クロエ。
もしクロエがこれを読んでいるのなら
私はもうこの世界にいないのかもしれない。
私たちの研究は
あまりにも危険な領域に踏み込みすぎた。
私たちの求める「効率」は
時に大切なものを見失わせる——』
「……」
『でも、クロエ。
クロエの、誰よりも効率的で
誰よりも優しい「力」なら
きっとこの魔法を世界のために
正しく使うことができるはず。
私の夢の続きを——』
「……」
『クロエに託します』
メッセージを読み終えたクロエの頬を、涙が静かに伝った。それは悲しみの涙ではなかった。失われた親友の真の想いに触れ、その遺志を継ぐ覚悟を決めた、温かい涙だった。
(——アステル、ええ、アステル。
分かりましたよ……)
ようやく、本当の意味でアステルに別れを告げ、そして再び出会えたような、そんな不思議な感覚だった。
◇
その日の夜、クロエはまず、リリィを一人アジトに呼んだ。アステルの研究データを表示しながら、静かに語りかけた。
「リリィさん。
あなたも、これまで深く苦しんできた。
だからこそ分かるはずです。
この『再生の魔法』の本当の意味が」
「先輩……!」
「これは——アステルが遺した最後の宿題です。
私たちが、この世界で未来のためにできる
最も“効率的”な仕事なのかもしれません」
「……はい、先輩!
ぜひ私にも手伝わせてください!」
リリィは力強く頷いた。知識と力で誰かを助けたいという強い意志をクロエもしかと受け止めるのだった。
翌朝。クロエは他の仲間たちにも研究のことを打ち明けた。バーンズは「難しいことは分からねえが、お前がやるってんなら手伝うぜ!」と快く協力し、アランも「その技術は、世界の安定に大きく貢献する可能性があるな」と、その価値を即座に理解した。
こうしてクロエと仲間たちは、アステルが遺した「再生の魔法」の研究を開始するのだった。
過去の悲劇を乗り越え、新たな希望を彼ら自身の手でこの世界に育んでいくための、静かだが力強い第一歩だった。
しかし、未来に向けた気持ちを不意に現実に引き戻したのはバーンズの一言だった。
「ところでクロエ。
王宮からの例の申し出には
どう答えるつもりなんだ?」