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第01話: 定時退社の魔法使いと幻のモンブラン

「十六時五十五分——」


 王国魔術師団・第三課のオフィス。自身のブースで、クロエ・ワークライフは机上の魔導端末の右下に表示された時刻を冷静に確認した。


 水晶板のように薄く輝くディスプレイには、デジタル化された古カルドニア文字で時刻が刻まれている。

 

 本日の割り当て業務、追加で依頼された資料の精査、それに基づく魔力効率改善シミュレーション、全て計画通り完了。何一つ遅延はない。


 きっちりと夜会巻きにまとめられた艶やかな黒髪は一筋の乱れもなく、その繊細な指先が軽くタッチパネルを操作し、業務日報の最終項目に「特記事項なし。定時退勤予定」と簡潔に打ち込む。


 送信ボタンを押すと同時に、端末のシャットダウンシーケンスが滑らかに起動した。今日の目的はただ一つ。


 ——十七時ジャストの退勤。


 そして十七時三十分には王都中央区の目抜き通りに店を構える、予約困難な高級パティスリー「パティスリー・グリモワール」の本日限定モンブラン『金の溜息』を確実に手に入れること。


 三週間前から個人用魔導AIにプログラムし、ようやく確保した貴重な逸品だ。このために今日の業務スケジュールは秒単位で最適化されている。


 彼女の視界の端には、未だ喧騒の残るオフィス風景が広がっていた。キーボードを叩く音、羊皮紙が擦れる音。


 そして——


「今日のノルマ、まだ半分も終わってないよ…」


「また徹夜か…」


 そんな嘆き節がパーティションの向こうから微かに漏れ聞こえてくる。この職場では残業こそが常態であり美徳であるかのような空気が滞留している。


(古カルドニアの言い伝えに

 『千の星影を読む術師も、

  己が足元の小石には気づかぬ』

 とありますが——まるでこの職場のようです。


 皆さん、高度な魔導理論を語りながら

 目の前の業務の非効率さという小石には

 気づこうともしない)


 クロエは冷ややかに心の中で呟いた。いや、心の中に留まらずこの調子なので二十代半ばにして「達観レベルがえげつない」ともっぱらの噂である。


 すると、やはり心の声が聞こえていたのか、斜め向かいのブースに座る上司・クライン課長の、粘つくような視線がじとーっと絡みついてきた。


(またあの女は…時間通りに帰るつもりか。

 他の者がこれだけ尽力しているというのに…)


 という心の声が、まるで彼の頭上に見えないフキダシとして浮かんでいるかのように、クロエには見えていた。


 もちろん、クロエはそんな無言の圧力など柳に風と受け流す。彼の管理下にある限り、この第三課の生産性が劇的に向上することはないだろう。


 「さて、と」


 クロエは小さく息をつき、凝り固まった肩をほぐすように背筋をゆっくりと伸ばす。あとは端末を使用しない業務をわずかに残すのみ。


 愛用の魔導ペンは定位置に。予備の魔力カートリッジも補充済み。


 来た時よりも美しく。立つ鳥、あとを濁さない。

 

 そう思いながらデスク周りを最終確認していた、十六時五十七分。


 クロエが本日発生したわずかなゴミを捨てるために席を立とうとしたその時、シャットダウンが完了したはずの魔導端末が、けたたましいアラート音と共に強制的に再起動した。


「まさか——」


 しかし努めて冷静にクロエは最悪の事態を想定する。画面には王国魔術師団の紋章が大きく表示され、緊急通達であることを示している。


 発信元はクライン課長からだ。ご丁寧に重要度フラグが「最上級(クリティカル)」に設定されている。


(定時三分前の駆け込み依頼とは……

 もはや様式美ですね。


 彼の非効率性は、

 学習という概念すら凌駕するようです)


 などと普段以上に辛辣な感情を抱きつつも、クロエの表情は能面のように涼しいまま。端末に表示されたのは、


「緊急! 最優先! 至急確認願ウ!

 カルドニア王国ノ未来ヲ左右スル可能性アリ!」


 と赤く激しく点滅する、およそ品位のカケラもない扇情的なタイトル。そしてそこに添付された、見るからに膨大な量の報告書データだった。


 スクロールバーが、絶望的なほど小さくなっている。


 間もなくクラインがその巨体に似合わず、わざとらしいほど静かで、しかし威圧的な足音を立ててクロエのブースにやってきた。


 薄くなりかけた脂っぽい黒髪を七三に撫でつけ、ヨレヨレの制服に包まれた巨体からは、既に不快な圧迫感が漂っている。


 しかもその手には、先ほど端末に送りつけてきたデータとは別に、さらに数枚の分厚い羊皮紙の束が握られていた。


 なおかつ、まさかの手書き。この魔導技術全盛の時代に、まだ手書きの報告書が存在するとは——


「ワークライフ君、すまんな。

 本当に急ぎで悪いんだがこれだ。

 王宮の最上層部からの直々の指示でな。


 今日中に、この添付データと羊皮紙の内容を精査して

 問題点を洗い出し、具体的な対策案を最低でも五つ。


 優先順位をつけてまとめて、

 私が明日の朝イチの王宮の会議で

 報告できるようにしておいてくれたまえ。


 なぁに、君ならできるだろう?

 我が第三課が誇る天才魔術師だからな!」


 長ったらしい説明と共に、ドン!と羊皮紙の束がクロエの清潔なデスクの上に遠慮なく置かれる。額には脂汗が滲み、小さな瞳はクロエの反応を粘つくように窺っていた。


 もちろん彼の声には、残業を強いることへの申し訳なさなど微塵も感じられない。


 むしろ、クロエの完璧な定時退社計画を阻止できることに、サディスティックな喜びすら滲んでいるように思えた。


「承知いたしました。

 定時まで、でよろしいですね?」


 クロエは、一瞬の間も置かずに即答した。顔色一つ変えずに。


 クラインの太い眉が、これ見よがしにピクリと動く。


「いや、だから、今日中と言ったはずだが……。

 カルドニア王国の未来が 

 かかっているかもしれんのだぞ?」


「はい。ですから——

 契約で示された私の『定時』である十七時までに、

 可能な範囲で最大限、対応させていただきます。


 それが私の職務における効率性の追求です。


 王国のいかなる未来も、

 非効率な長時間労働から生まれるとは

 到底思えません」


「むぅ……まあ、いいだろう。

 できる限りで構わんよ。期待している」


 クラインは苦虫を噛み潰したような、それでいてどこか満足げな複雑な表情で自席に戻っていった。


 内心では「どうせ終わるわけがない、これで残業確定だ」と高を括っているのだろう。


 クロエは魔導端末に視線を戻す。残り時間、二分強。添付データはともかく、羊皮紙の束は物理的に目を通す必要がある。


「高速読解・要約魔法バージョン3.1.4改、起動。

 並列処理モード、キーワード抽出深度レベルMAX。


 意味ネットワーク自動構築、

 論理矛盾検出アルゴリズム、オン。

 羊皮紙情報ダイレクトスキャン開始」


 クロエの指が魔導端末の仮想キーボードを、常人には目で追えないほどの速度で踊る。


 彼女の切れ長の瞳が、淡い翠色の光を帯び、ディスプレイに表示された報告書の文字列を凄まじい速度でスキャンしていく。


 同時に、空中に浮かべた羊皮紙に向けて伸ばされた右手の指先からは、蜘蛛の糸よりも細い、不可視の魔力のフィラメントが伸び、羊皮紙の上のインクに含まれる微細な魔力痕跡に触れ、その情報を直接クロエの脳内情報処理回路へと送り込む。


 自作改良を重ねたこの複合魔法は、彼女の規格外の膨大な魔力量と、異常なまでの精密な「魔力効率」、そして強靭な精神力が揃って初めて実用に耐える代物だ。


 並の魔術師が使えば、情報過多で数秒も持たずに意識を失うだろう。


 脳内でデジタル情報とアナログ情報が瞬時に統合・解析され、複雑に絡み合った問題点が瞬時に整理、構造化されていく。


「おい、ワークライフ!

 まだ仕事が残っているなら俺も手伝うぞ!」


 熱血漢で知られる同僚、バーンズ・ゲイルが、彼のトレードマークである、ツンツンと短く整えられた赤毛を揺らしながら近づいてきたが、クロエは彼の方を見ることなく左手を軽く上げて制した。


「私の担当業務は、本日分完了しております。


 この追加業務も

 定時までに可能な限り対応いたしますので

 ご心配には及びません。


 バーンズさんもまだお仕事がおありのようですし、

 どうぞ残業を……心ゆくまで」


 最後の一言にほんの少し皮肉を込めて。バーンズは「ぐっ…!」と呻き、立ち尽くしている。


 カチリ、とオフィスの壁にかけられた古風な魔導時計の長針が、正時を示した。


 十七時ジャスト。


 クロエは、最後の一文——


「結論。

 現時点での情報のみでは原因特定は困難。


 しかし、考えうる最悪のシナリオを想定し、

 即時対応可能なcontingency plan B-3 及び C-1 の

 準備を推奨。

 

 詳細は添付別紙参照のこと。

  ※クロエ註:contingency plan=緊急時の行動指針」


 ——を打ち込み、魔導端末のエンターキーを、静かに、しかし確信を持って押し込んだ。


 作成された報告書の詳細な要約。五つの具体的対策案、すなわち——


 ・それぞれのメリット・デメリット

 ・必要リソース試算

 ・初期対応手順

 ・問題点リスト

 ・優先度別評価


 加えて、追加調査項目と担当部署提案も付したものが、不可視の魔力回線を通じてクライン課長の端末へと瞬時に送信される。


 受信時刻は「17:00:00」。一秒の狂いもない。


 その報告書の内容は、先日クロエが個人的に懸念していた、王都における魔力インフラの異常に関するものだった。


 しかも、ただの小規模事故の報告ではない。より深刻なレベルのシステムダウンが、複数の基幹ノードでほぼ同時に発生している兆候を、データが生々しく示唆している。


(これは……放置すれば王都機能が麻痺するレベルの

 大規模障害に発展しかねませんね。


 非常に面倒なことにならなければ良いのですが。


 私の完璧なアフターファイブプランが

 台無しになるのは、断固として避けたいところです)


 同時に、彼女の足元で待機していた白金色の円盤型清掃魔法ゴーレム「ダスト・イーターMarkⅢ(クロエ・カスタム)」が静かに動き出し、デスク周りの微細な塵を的確に吸い込み始めた。


「業務完了。お先に失礼します」


 クロエは静かに立ち上がり、ブースのパーテーションに掛けていた私物の、仕立ての良い濃紺のコートを優雅に羽織る。

 

 コートの深い色が、彼女の白い肌を一層際立たせ——そしてその声は、騒がしかったオフィス内に凛と響き渡るのだった。


 クラインは、自身の端末に怒涛のように送りつけられてきたレポートの、常軌を逸したボリュームと、その中身の恐ろしいまでの的確さ、そして何よりもその異常な作成速度に、言葉を失って唖然とし、ただ口をパクパクさせている。


 バーンズは、信じられないものを見るような目でクロエを見つめ、やがて諦めたように盛大な溜息をついた。


「……化け物か、あいつは」


 という呟きが、クロエの優れた聴覚にはっきりと届いたが、もちろん無視する。他の残業組の同僚たちも一様に仕事の手を止め、クロエの一挙手一投足に視線を送っている。


 羨望、嫉妬、呆れ、そしてほんの少しの恐怖。クロエはそんな視線を一顧だにせず、風のようにオフィスを後にした。


 魔導エレベーターホールへと向かう彼女の頭の中は、既にモンブランと、それを味わうための完璧なシチュエーションのことでいっぱいだった。



 王都中央区は、夕暮れ時の喧騒と活気に満ちている。クロエは人混みを巧みにかき分け、目的のスイーツ店「パティスリー・グリモワール」へと足を速めた。


 品格のあるアイアンワークの看板が目印のその店は、いつ見ても行列が絶えない人気店だ。


 約束の十七時三十分。魔導ドアが静かに開くと、甘く香ばしい、洗練された香りがクロエを迎えた。


 予約票を提示して目的の品を告げると、白い制服に身を包んだ初老のパティシエールは、にこやかに奥の専用保冷庫から、銀色に輝く特製の保冷バッグを取り出してきた。


「ワークライフ様。

 いつもありがとうございます。

 本日の『金の溜息』も最高の出来でございますよ」


「こちらこそ、いつも素晴らしいお菓子を

 ありがとうございます。楽しみにいただきますわ」


 丁寧な礼と共に支払を済ませてバッグを受け取り、クロエは満足げに店を後にする。


 そのまま王宮御用達として知られる、緑豊かな「月の雫公園」へと向かい、園内でもとりわけ静かで、美しい噴水を望めるお気に入りのベンチに腰を下ろした。


 この時間帯は人通りも少なく、まさに都会のオアシスだ。


 クロエはゆっくりと保冷バッグを開き、丁寧に純白の箱を取り出す。リボンを解き、そっと蓋を開けると、ふわりと筆舌に尽くしがたいほど甘美な香りが鼻腔をくすぐった。


 焙煎された栗の香ばしさ、微かに薫る高級ラム酒のエレガントな芳香、新鮮な生クリームの優しい香り。それらが絶妙なバランスで調和し、期待感を極限まで高める。


 そして、ついにその姿を現した『金の溜息』。まさに芸術品と呼ぶにふさわしいモンブランが、まるで小さな王冠のように誇らしげに鎮座していた。


 幾重にも繊細なレース編みのように絞られた隣国産高級栗のペーストは、まるで光沢のある絹糸のようで、その頂には、朝露のように金箔が上品にあしらわれている。


 その下には、雪のように真っ白で軽やかな口溶けが約束された特製生クリームのドーム。


 そして、それら全てを支える土台となっているのは、見るからにサクサクとしていそうな、完璧な黄金色に輝く、厚みのあるメレンゲ。


「……完璧です。

 今日もまた、非の打ち所がありませんね」


 クロエはうっとりと呟き、白銀に輝く専用のフォークを手に取る。躊躇いながらも大胆にフォークをケーキにそっと入れる。


 最初の一口を、ゆっくりと、全ての感覚を集中させて含む。


 まず、芳醇でありながら決して主張しすぎないラム酒の香りが鼻腔を優しく通り抜け、次いで、丁寧に裏ごしされた栗本来の、濃厚でありながら後味は驚くほどすっきりとした自然な甘みが舌の上でとろけるように広がる。


 生クリームは、口に入れた瞬間に淡雪のように消え去り、栗の芳醇な風味をより一層引き立てる。


 最後に訪れるのは、メレンゲのサクサクとした小気味よい食感と、微かに感じる香ばしいアーモンドの風味。


 甘味、苦味、酸味、香り、食感、そして温度。その全てが、計算され尽くしたバランスの上に成り立っている、まさに味覚のフルオーケストラ。


 溜息が出るほど美味しい、とはまさにこのことだろう。


 クロエはしばし目を閉じ、その至福の幸福感を全身で深く味わう。これがあるから、日々の非効率な会議や理不尽な人間関係にも耐えられるのだ。この一口の幸福のために定時退社を死守する。その信念は揺るがない。


 夕焼けが西の空を茜色から薔薇色へと染め上げ、公園の木々を優しい光で包み込んでいた。


「これだから、定時退社はやめられません」


 クロエはもう一口、至福のモンブランを頬張りながら、心の底から満足げに微笑んだ。その瞬間、普段は冷静な切れ長の瞳が、夕陽を受けて微かに翠色の輝きを増したように見えた。


 明日もまた完璧なアフターファイブのために、いかなる業務も超効率的にこなし、あらゆる障害を排除するだけだ。


 彼女の華麗なる、そして誰にも邪魔させない、完璧に計画された日常はこうして続いていく。


 たとえ、カルドニア王国の足元で、何やら不穏な、そしてクロエの専門分野と深く関わるかもしれない影が、ゆっくりと、しかし確実に(うごめ)き始めていたとしても、それはまだクロエの知るところではなかった。


 今はただ、この完璧なモンブランと、完璧なアフターファイブの余韻に浸っていたい。それだけだった。

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