純情じゃなくてごめんなさい
山頂から顔を覗かせた朝日が、静かな駅のホームをオレンジ色に染めていく。駅近くの踏み切りがうるさくリズムを刻むと、準急電車がシューシューとブレーキ音を鳴らしてホームに入ってきた。
仁美は悴む手でスマホを触りながら電車に乗り込む。
軽くスカートを払って腰掛けるのは、横並びの角の席。仁美の定位置だ。
まばらに埋まった座席、扉にもたれ掛かって立っているスーツ姿の女性。金曜日だというのに、誰一人として浮かれることなく、曇った顔をしている。今日も高校入学時から変わらない、いつもの光景が広がっていた。
買ったばかりのワイヤレスイヤホンから流れるのは、友達に教えてもらったアイドルの新曲。ノリの良いアップテンポな曲だが、どうもこの曲調は少し合わないようだ。
SNSを巡回し、一曲目の終わりが近づくころ。次の駅に着いた電車が扉を開く。初夏にしてはまだ肌寒い空気がすっと入り込んだ。
乗車してきたのは、長袖のカッターシャツにえんじ色のネクタイを身につけた他校の男子。
眠たそうに目をこすり、私の向かいの角の席に腰を下ろす。スラッと伸びた長い脚を窮屈そうにまとめ、スマホを横向きに持ちゲームを始め出した。目元を隠すように伸びた前髪を払い、真剣な眼差しで指を細かく動かしていく。これもいつもの光景だ。
けれどただ一つ、変わっていくのは仁美の気持ち。毎日、この閉鎖的な空間を共にする彼のことを、何となく意識するようになった。
どんなゲームをやっているのか、自分もプレイしているのだったらいいな、なんて思いながらスマホ越しに視界に入る彼を見る。
ちなみに、仁美は電車の中でゲームはしない。プレイしたい気持ちよりも、他人に見られる恥ずかしさの方が勝ってしまうから。
彼とは当然話したことなんてないし、話しかけられたこともない。
名前も知らないし、歳も知らない。先輩だったらいいなとは思っている。同学年の男子は幼稚すぎて好きになれないから。
仁美には男友達と呼べる相手はいなかった。
厳密に言えば、幼稚園の頃は男女関係なく遊んでいたので男の子の友達はいた。
だが、あの年代は男女という分け方はせず、子供という括りで考えるのが普通だろう。
ゆえに仁美には男友達はいない。
今までも、もしかしたらこれから先も。
小学生になった頃には、もう女の子だけの輪の中にいた。
別に男の子が嫌いになったわけではないが、クラスの雰囲気に流される形で自然とそうなったのだ。
ただ、あの日出来事が、仁美に決定的な変化をもたらしたことは間違いない――
小学四年生の時のバレンタイン。喧騒の過ぎ去った放課後の教室。
香菜ちゃんが、西川君にチョコを渡した。
あの日は今日よりもずっと寒い日だった。
香菜ちゃんは仁美の所属するグループで、一番かわいい女の子。二つ結びの髪がよく似合う。
「西川くん…… これ」
みんなが見守る中、小さな手を震わせながら渡した手作りのチョコレートクランチ。西川君はそわそわと気まずそうにしながら、明後日の方向を見ている。
「俺、ブスからのチョコはいらないから」
大切に温めていた香菜ちゃんの想いは、茶化すように放たれた暴力的な言葉で粉々に砕かれた。
香菜ちゃんは自分だけ時が止まったかのように、その場で立ち尽くす。噛み締めた唇の隙間から声が漏れ出すと、まん丸とした瞳には涙の膜が張られていった。そして香菜ちゃんは、かわいくラッピングされた外装をクシャっと握りしめる。
大粒の涙が溢れ出した時には、西川君はもう目の前から姿を消していた。
「ほんと最低、ありえない」「なんなの西川のやつ」
女の子グループのみんなは怒りのまま、西川君を罵倒する。
けれど、仁美だけは別の感情を抱いていた。
もし自分がチョコを渡していたらどうなっていたのだろう?
そう考えるだけで呼吸が徐々に荒くなる。仁美は気持ちを落ち着かせようと、自身の上腕を抱くように握りしめた。
誰よりもかわいい香菜ちゃんでさえ拒絶されるのだ。
もし自分だったら……
足早に家へと帰った仁美はキッチンへ向かった。冷蔵庫の中には、ピンクのリボンで封をしたカップチョコが並んでいる。男子の分もと作ってみたが、渡すのが小っ恥ずかしくなり持って行くのを躊躇ったものだ。
仁美はチョコの入った包みを乱雑にかき集め、迷うことなくゴミ箱へ叩きつけた。
あの日以来、仁美は意識的に男子と関わるのを避けるようになった。
ふと回想にふけっていたところ、ギューンと激しいギターのアウトロが仁美の意識を呼び戻す。
目の前には、変わらずゲームに熱中する彼。仁美はゆっくりと息を吐きだし、胸を撫で下ろす。
こうして気になる男子を、ただ眺めている分にはいい。
だって自分が傷つくことはないのだから。
同じ空間を共有しているという事実だけで、今の仁美には充分だった。
そして三曲目。バラード調のイントロが流れたところで駅に着く。
二つの路線が交わる小さなターミナル駅。
扉の向こうには、きっちりと二列に並んだ人々。扉が開くのを合図に、腰の曲がった中年が規則正しい並びを乱して、我先にと椅子取りゲームを始める。
押し寄せる人の波で、向かいの彼は次第に見えなくっていった。電車はスピードを上げ、選ばれなかった吊り革が、自分の存在をアピールするようにふらふらと揺れている。
スマホに集中しているところで五曲目が始まり駅に着く。流れたのは仁美の好きな失恋ソング。今日のシャッフルの選曲はとても良い。
乗客が慌ただしくホームへと降りていく。人混みが消えて広がる視界。
十分ほど見えなかった正面の彼は、スマホを両手で抱えながらウトウトと首を揺らしていた。次が降りる駅ですよと、仁美は心の中で彼に伝える。もちろんその声が届くわけなんてなくて。
溶けるようなピアノの音色で曲が終わると同時に、電車の扉が開いた。
正面の彼はいつものようにギリギリのところで飛び起き、スクールバッグを肩にかける。
慌ただしく電車を降りようとした、その時……
撓んだバッグの口から、ストンと落ちる紺色のハンカチ。仁美は考えるよりも早く身を乗り出し、鼠色の床に落ちたハンカチを拾った。
「あの――」
咄嗟に開かなかった喉からは、かすれた声が漏れるだけだった。
顔を上げた頃には彼の姿はなく、無情にも閉まる扉が仁美の言葉尻をかき消していく。
周囲の視線を気にしながら仁美は後退り。元いた席へと着席しながら、何事もなかったかのように前髪を整える。
一つ呼吸を置き、どうしたものかと右手に握ったハンカチを見つめると、仁美の心は小さく揺らいだ。
ハンカチに刺繍されていたのは、帽子を被ったキャッチーな猫。仁美の好きな癒し系のキャラクターだ。グッズも幾つか持っている。
だからこそ仁美は気づいた。
この帽子の猫は、頭にリボンを結んだ猫のキャラクターのボーイフレンドなのだ。どのグッズも大抵セット売りされていることが多い。
この紺色のハンカチも、二枚セットで売られているものの片割れ。リボンの猫のは確かピンク色だったか。では、そのもう一方のありかはと、仁美は考え始めた。
状況を理解していくごとに、仁美の心はざわついていく。さっきまで楽しめていた音楽が、意識から遠のき雑音へと変わっていった。
黒髪の毛先をいじりながら、「実は家族から貰ったんじゃないか」なんて言い訳じみたことを思いつきもした。
でもきっとそうじゃないと、仁美は隠すようにそっとハンカチを鞄に入れる。
今日の授業はどうにも頭に入りそうにない。
◇◇
土日を挟んだ月曜日。仁美はいつもの車両、いつもの席に腰掛けていた。
一つだけ違うのは、スマホの代わりに紺色のハンカチを握っているということ。
ワイヤレスイヤホンから流れるのは、仁美の好きなバラード。
だけど、今の仁美には音楽を楽しむ余裕などなかった。
近づいてくる次の駅。彼の最寄り駅。速度を増す車両と比例するように鼓動が高鳴っていく。
手汗がじわっと滲み出るのを感じ、仁美は膝上に乗せたスクールバックの上にハンカチを置いた。
準急電車は減速しながらホームに入る。流れる景色の中に、仁美は彼の姿を探した。だけど、今日はどこにも見当たらない。
そのまま電車はゆっくりと停車。プシューというブレーキ音の後、扉が開く。
「もう、ギリギリだったじゃん」
「ごめんって、でも間に合ったんだからいいだろ」
言い合いながら男女が駆け込んでくる。二人が着ているのは、シワのないカッターシャツに同じ柄のネクタイ。男性の方は、いつもの彼だ。
初めて聞いた正面の彼の声。思っていたより、丸みを帯びた優しい声をしている。
二人は慌ただしく仁美の向かいの席に腰を下ろした。
女の子は文句を言いながらも、彼の腕にぴったりとくっついている。彼の方も満更ではないようで、いつもより頬が緩んでいるのが見て取れた。
友達よりも近い距離で彼に接する、セミロングの女の子。
仁美よりもかわいい女の子。
仁美は胸に広がるモヤモヤとした気持ちを押し込めるように、ハンカチをバッグに仕舞おうとした。
「あっ!」
まだ人の疎らな車両に響く声。思わず仁美の肩に力が入る。
目線を上げると、セミロングの女の子が身を乗り出し仁美の前に立っていた。仁美はイヤホンを引き抜いて彼女の動向を注意深く伺う。
「すみません。それと同じハンカチをここで落としちゃったみたいで。もしかしたら拾ってくれたのかな? なんて……」
「美月。落としたのは金曜日なんだし、この車両に残ってるわけないだろ」
「だよねー。ごめんなさい」
美月は申し訳なさそうにペコリと頭を下げると、いそいそと元いた席に戻った。正面の彼も軽く頭を下げながら「すみません」と小さく呟く。
不意打ちを食らった仁美は、反射的に「すみません」と同じ言葉を返した。
席に付いた二人は、何事もなかったように学校の話を始めだす。電車の車両という空間の中に、二人だけの世界が作られていく。
「数学の課題の提出明日までなのに全然終わらなくてさー」
「美月。絶対終わらないんじゃなくて、そもそも手を付けてないんだろ?」
「あっ、バレた? だって三角関数とか生きるのに必要なくない?」
「そうかもしれないけど、課題はちゃんとやらないとな。放課後手伝ってやるから」
「本当!? ありがとう。約束だよ」
美月はまるで子どものように無邪気に笑い、彼の体にそっともたれ掛かった。彼はそれを拒む事なく、やれやれと言った具合に白い歯を覗かせる。
そんなふうに笑うんだ、と仁美は心の中で呟いた。
今までスマホに熱中する姿と、無防備に眠りこける姿しか仁美は彼の表情を知らなかった。それがたったこの数分で、どれだけ変化したのだろう。
はにかんだ笑顔。少しいじわるを言うときの吊り上げた眉。話を聞くときの真剣な眼差し。
そのどれもが仁美にとっては新鮮で、眩しくて。けれど新しい顔を見るたびに、胸の奥がどんどん締め付けられていく。このまま耐え続けることはできそうになかった。
仁美は二人の世界に割って入るように、話を切り込む。
「このハンカチは、金曜日にここで拾ったんです」
相手に目線を合わせることなく、仁美はできる限りの声量で話す。
彼と美月は話を止めて、目を丸くしながら仁美を見つめた。流れる一瞬の沈黙。ガタガタと電車が揺れる。
美月はぱあっと眩しい笑顔を作り、また仁美の前に立ち上がった。
「やっぱりそうなんですね。拾ってくれてありがとうございます」
言いながら美月は手を差し伸べた。仁美は仕舞いかけたハンカチを静かに差し出す。丁寧に畳んだハンカチを握る手は震えていた。
「あれ?」
ハンカチを受け取った美月は、彼に見えるようにぱさっと広げる。
「こんなに綺麗だったっけ?」
彼は「さぁ?」と首を傾げるだけで、あまり気にするような素振りを見せない。
「あの…… ついでだったんで洗濯しておいたんです。余計な事をしていたらすみません」
「えっ、わざわざ洗ってくれたの? ありがとうございます。ほんと新品みたいで」
美月は驚きながらハンカチをひらひらと動かし、表と裏を確認する。そして彼に、訴えかけるような視線を送った。
「優斗もお礼言いなって。自分のハンカチでしょ」
「あぁ、ごめん。ちょっとびっくりして」
後頭部をかきながら優斗は立ち上がり、仁美の前に立つ。斜めに分けられた前髪から覗く大きな瞳が、仁美の目をしっかりと捉えている。
「ありがとうございます。大事な物なので助かりました」
「いえいえ、とんでもないです……」
仁美は耐えられず目を伏せてしまう。優斗は軽く会釈をすると、美月と共に元の席へと戻った。
そして電車は小さなターミナル駅に到着。押し寄せる人の波が仁美の前に壁を作り、優斗と美月の姿を隠した。だけど、二人の楽しげな掛け合いは意識せずとも仁美の耳に入ってくる。
仁美は黒髪を耳の後ろに押しやり、イヤホンを着けた。流れてきたのは、優しいピアノの音色が特徴的な懐メロ。仁美が小学生の時に流行っていたものだ。
そのまま白いイヤホンの表面をタップし、音量を上げる。次第に電車の走行音は消えていき、自分だけの世界が作られていく。
仁美は小さく息を吐きだし、スクールバックの中へと手を伸ばした。誰にも見えないように注意しながら、一枚のハンカチを握りしめる。
帽子を被った猫が刺繍された紺色のハンカチを。
仁美が優斗に返したハンカチは、電車で拾ったものではない。昨日、家族とショッピングモールに出かけた際に仁美が購入したものだ。
今、仁美がぎゅっと握りしめているハンカチこそが優斗のものなのだ。
仁美はもう片方の手で、ポケットにしまっていたピンク色のハンカチを取り出す。購入した紺色のハンカチと、セットになっていたものの片割れだ。そのまま二つのハンカチを、仁美はスクールバックの中で重ね合わせた。
客観的に見ても気持ちの悪いことをしているのは理解している。優斗には彼女がいるのに。彼氏のために行動できる立派な彼女が。それに比べて自分はと、仁美は自己嫌悪に陥りそうになる。
それでも仁美が優斗に嘘をついたのは、優斗に彼女がいる事実を知った時に、心が酷く痛んだからだ。自分にそんな感情がまだ残っているなんて思いもしなかった。
今でも確かに感じる、胸を締め付けるこの痛み。頭の中では、『恋愛なんて』と冷めた風に装っていたが、蓋を開ければ仁美も普通の女子高生だった。ただ優斗を眺めているだけでは、心は満たされなかった。
仁美は背中越しに窓の外を眺めた。いつもと変わらない街並みが高速で過ぎ去っていく。
この狭い空間で仁美の気持ちは変化し続ける。決して純情とは言えない心の奥底を見つめ、仁美はにやりと頬を緩ませた。歪んだ欲望ではあるけれど、前に進むことができたと感じたからだ。そう思うと、視界に入ってくる世界が、ほんの少しだけ色づいていくように見えてくる。決してきらきらと輝いているわけではないが。
仁美は紺色のハンカチを、スクールバックの奥底へと沈める。
今度はちゃんと誰かを好きになれる日が来るのだろうか。