理由ありな旦那様は私を愛せない……でも実はお互い様です
「すまない。貴女は妻として、なに不足ない淑女だが、私は貴女を愛することができない」
家と政治と社交界の事情で、10歳歳上の辺境伯のもとに嫁いだ私に、夫は深々と詫びた。こんなに誠意に溢れた不誠実は見たことがない。
ガルド・ドゥルト様は元々、王城では偏屈で変わり者と名高い方だった。今回の縁談も端から乗り気でなく何度も辞退しようとしていらっしゃったようだ。にも関わらず周囲の関係者が無理やり話をゴリ押しした政略結婚なのである。押し付けられたミソッカスの妻としては「話が違う!」だなんて言えない。
「それでも結婚してしまったわけですし、形だけでも、妻として扱っていただくことはできないでしょうか」
「もちろん貴女の体面を傷つけたいとは思っていない」
社会的にも家の中でも完全に辺境伯夫人として振る舞ってもらって良いし、自分も全面的に支援すると、彼は生真面目に約束した。
「ただ、その……閨のことはだな」
「閨?寝室のことでしょうか」
屋敷の主寝室を使用してはいけないという話かと尋ねると、彼は一度目を瞬かせて口籠った。
「いや……新婚早々に寝室を分けたとあっては、口さがない噂が立つだろう。そういうつもりではなくだな……その……初夜のことに関してはなんと教わってきた?」
「旦那様にお任せして言われたとおりにしなさいと教わりました」
「あー…………なるほど」
国境戦において常勝無敗を誇る辺境伯殿は、腕を組むとしばし黙考した。
「わかった。私に任せておきなさい。貴女が安眠できるように全力を尽くそう」
私の旦那様になったお方は、そこはかとなく変な人だが、悪い方では無さそうなのはよくわかった。
§§§
私達の新婚生活は穏やかに日々を重ねていった。
私は任された仕事をこなしつつ、夫の協力の元、屋敷と辺境伯領に馴染んでいった。
ガルド様自身も当初のように腫れ物を扱うような素振りは薄れてきて、幾分かは気さくに話してくださるようになった。それでも彼の私への気遣いはいささか過剰にも思われた。
「王都と比べると、若い女性が興味を持てるようなことが何もないところだから退屈だろう」
そう言って、彼は私に何か気晴らしになる趣味を持ってはどうか、などと勧めてくれさえした。
「俺は社交は不得手なので、他家の宴席などにはいかぬし、招きもしていない。そこを曲げる気はないが、それでは貴女の楽しみが少なすぎる」
私自身もお愛想と嫉妬と欺瞞だらけの社交は嫌いだったので問題なかったのだが、せっかく気を遣ってくれたことだしと思い、絵を始めてみた。
ダンスは習っても機会がないし、ダンス教師と踊るのは気が進まなかった。
刺繍やレース編みは夫人同士の集まりでの嗜みという印象があって自分個人の趣味という感じはしないし、乗馬は従者や専属の教師がいないと危険だ。
その点、なんとなくの思いつきではあったが、絵は気が向いた時に一人で手軽に熱中できて気楽だった。もちろん、本格的にやろうと思えば教師が必要だったろうし、取り扱いが難しい画材もあるだろう。だが、私はド素人で、画家のように上手くなる気も、絵を他人に見せる気もなかった。
私は手紙の書き損じや木の薄板に、ごく普通のインクとペンで描くところから始めた。
画題はなんでも良かった。
最初は失敗続きだった。庭の花を一つ持ってきたら、描いているうちにしおれて形が変わってしまった。窓からの風景は、見えるままを描こうとすると対象が多すぎる上に細かすぎて、どう絵にしていいか分からなかった。
動かなくて小さな物が良いと、マントルピースの上の置物を描いてみたが、立体を平面に描くのは素人には意外と難しいということがよくわかった。
そこで私はマントルピースに描かれた紋章を模写してみた。
これも難しかったが、線を真似ればいいので、なかなかいい感じに描けた。私は昔から手先は器用な方だ。
他の”お手本”はないかと屋敷内を物色してみたが、代々の辺境伯の厳めしい肖像画は、あまり描きたいとは思えなかった。屋敷には他に絵画的な物は多くはなかった。質実剛健で装飾的なものを嫌う家風らしい。
私の絵にちょうどいいような図柄は、すぐに描ききってしまった。私が実家から持ってきたハンカチの刺繍を描き終えて、次は兜の装飾にするか、客間の絨毯の柄にするかを迷っていると、有能な家宰が1冊の本を持ってきてくれた。
それは建国神話を書いた聖典で、貴族向けの豪華な装丁の写本だった。
勇者が民に害をなす魔獣を倒して、周辺諸国を統一し、大国の姫を娶る物語。
説法臭くて、現権力者に都合が良い表現が多くて、あまり好きな話ではないが、合間の挿絵や装飾は、絵のお手本にするにはなかなか良かった。
§§§
我がマルティヤック辺境伯領は荒天が多く、冬も長い。
だが、外に出れないような日でも、絵を描くのに支障はなかった。
描いているうちにだんだんと手も慣れてきたのか、よく見知っているものならば、それなりのものが描けるようになってきた。
親切なガルド様は、私のために絵の道具を取り寄せてくださった。小さな木の板に貼った画布に、木炭や顔料を練り固めた棒状の画材で絵を描くのは楽しかった。
「欲しい色は足りているか」
「はい。色を塗ると下手でも少し上手く見えますね」
ガルド様は私の絵には興味を示さなかったが、ある日の夕食の席でその話題となった。
「見せてもらってもいいかな?」
「恥ずかしいです」
「いや……無理にとは言わない」
厳つい顔を強張らせたガルド様は、やや身を引いた。この人は私からの拒絶に敏感だ。まるで大きな軍馬が足元の小さな虫を踏まないように気をつけているみたいにぎこちなく気をつかうので、小さな虫側としては少々面白くさえある。
「いいですよ……見ても」
だから、私もつい譲歩してしまう。
「下手ですから笑わないでくださいね」
といいつつちょっと褒めてほしい気持ちもある。趣味の初心者絵描きの心は微妙だ。
夕食後に私の絵を見てガルド様は「ふむ」と難しい顔をした。気に入らないのだろうか。やっぱり下手すぎだろうか。いや、あれは普通に顔の造作が厳めしいだけに違いない。
ドキドキしながら言葉を待っていると、彼は傍らにおいてあったお手本を手に取った。
「これを描いているのか?」
「はい。すみません。蔵書からお借りしました……汚さないように気をつけています」
「そんなことは気にしなくてもいい」
使うあても、この先読む気もない本だから、好きにして良いと言われた。口振りから察するにガルド様は建国神話がお嫌いらしい。
「森と……鹿か。上手いものだな」
「ありがとうございます」
「真ん中の人物だけが何度も描き直されているようだが」
「人を描くのは難しいです」
「こちらの者たちは上手く描けていると思うぞ」
私は曖昧に笑った。聖典に描かれた勇者は装飾だらけの鎧を着て、仰々しい剣を持った赤毛の大男だ。他の人物よりも一回り大きく強調して描かれているので、どうにも上手く収まらない。
「”勇者”は嫌か」
ガルド様はよくわからない苦笑を浮かべた。
聖典嫌いなだけではなくて、勇者の存在自体に思うところがあるらしい。王国の高位貴族としてはあまり褒められた話ではない。偏屈で変わり者という風評もこういうところに由縁しているのだろうか。
「勇者様が嫌いというわけではないのです」
私はガルド様の傍らにゆき、彼が手にしている聖典の挿絵にそっと触れた。
「ただこの絵の勇者様の様子が、しっくりこなくて……精霊の森に鎧を着て抜き身の剣をかざして立ち入ろうとするような方ではないだろうと思うと手が止まるのです」
「たしかに、この絵を描いた画家は何もわかっていない大馬鹿者だ」
精霊の森に住むエルフ達に単身助力を請いに行くのに、金属鎧のフル武装で行くなど愚の骨頂だ。そもそも森を長時間歩く格好ではない。
「コイツはデタラメだらけだ。気に入らないなら従うことはない」
どうせこれを描いた奴も、適当に自分の描きたいように描いたのだから、あなたも自分の思ったように好きに描けばいい、とガルド様は私に言った。
「髪を赤く塗らなくても良いですか?」
「バカバカしい。こんなに真っ赤な髪の奴がいるものか。どうせ事実などとうに無視されている。好きに塗れ」
欲しい色の画材がなければ取り寄せるとまでガルド様は言ってくださった。
「俺は聖典は嫌いだが、あなたがどんな勇者を描くのかは見たい」
「私はそれほど勇者様のことに詳しいわけではありません」
「かまわんさ。正しさを求めているわけでもない」
では、何を求めているのかと尋ねるのも気が引けた。おそらくそれはガルド様にとって大事なことだ。聖典に描かれた”勇者”をじっと見ている彼の目がそう物語っている。
「描いてみます……何か聖典以外で参考にできるものがあればよいのですが」
「わかった。家宰に何か手配させよう」
§§§
それから、吟遊詩人や旅回りの芸人の一座が日を置いて何組か屋敷に呼ばれた。彼らは通常の出し物以外に、勇者の物語を一つ披露する決まりだった。
どの出し物も勇者の物語としては聖典と同程度かそれよりも荒唐無稽で、あまり参考にならなかったが、何もない冬の生活のちょっとした楽しみにはちょうどよかった。特にこれまであまりそのような芸能に触れたことのなかった私には、その荒唐無稽さも含めて良い娯楽だった。
ガルド様は毎回きちんと私に付き合って宴席に出た。しかし詩を聴く時も観劇する時も、いつも仏頂面で、ちっとも楽しそうではなかった。特に勇者の話のときはひどく不愉快そうで、呆れ、嫌悪、諦観、退屈という芸人のやる気を徹底的に削ぐ反応をすることが多かった。偏屈で有名な鬼の辺境伯に睨まれてどの芸人達もすっかり萎縮してしまうので、私は可哀想な彼らに十分に謝礼を渡し、領内で巡業する許可を与え、便宜を図ってやった。
「巡業では勇者の演目はしなくてよい」
不機嫌そうな辺境伯にそんなことを言われた芸人達は、恐縮しつつ早々に屋敷を立ち去り、領内では聖典とは関係のない娯楽作を演じていくのが常だった。
§§§
「すまない。せっかくのあなたの楽しみにいつも水を差してしまっているな。俺は」
「勇者様がお嫌いでしたら、無理をなさることはないのですよ」
「うむ……だがそれではあなたが絵を描けぬだろう。あなたが描いた勇者の絵が見たい気持ちはあるのだよ。……勇者が嫌いというわけでもないのだが、どうにもデタラメが多いのには腹が立っていかん」
私はふとある可能性に気がついた。
「もしや、ガルド様は勇者様の物語にお詳しいのでは?」
ギクリとしたその様子は肯定の返事も同然だ。私は良いことを思いついた。
「でしたら、ガルド様からお話を伺いたいですわ」
「俺は不調法だし、芸人のようなマネはせん」
「何も詩を吟じたり、芝居をしろと言っているわけではありません。ただご存じのことを少しずつお話していただければ良いだけです」
この静かな巌のような人の内側に一体何が隠されているのか知りたくて、私はいつもはしないような熱心さで話をねだった。
すげなく断られるかと思ったのに、意外にも彼のほうが折れた。薄々感じていたのだが、ガルド様自身もどこか話をしたい気持ちがあったのかもしれない。
ならば、そのうちどこかで休みを作って話をする時間を設けようというガルド様の提案を、私はそれには及ばないと断った。
「いつも夜、休む前にガルド様がお酒を召される時間にお話をしてくださいまし」
「いや、それでは……」
「毎晩、少しずつでよいのです」
これまで毎夜、ガルド様は私にベッドで先に休むように命じて、自分はベッドから離れたところに置かれた小テーブルでお酒を召されるのが習慣となっていた。彼は私が眠るまでけしてベッドに近寄ろうとはせず、朝も私が目覚めるよりも早く部屋を出ることを心がけているようだった。
ある日、夜中にふと目覚めたとき、彼が主寝室の端の寝椅子で眠っているのを発見した私は、驚いてあわてて彼をベッドに運ぼうとした。目を覚ましたガルド様は、私が彼の大きな身体をしっかり抱えて運ぼうとしているのに気づいて、ひどく狼狽した。彼は「大丈夫だから」と何度も言いながら転んで、膝かどこかをぶつけたらしく低く呻いた。前かがみになってよろよろと部屋を出ていったガルド様は、その日は結局、朝まで戻ってこなかった。
きちんと寝台で休んでいただかないと健康に障るからと説いて、以後は必ずベッドで休むように約束していただいたのだが、どうやら広いベッドの反対側の端で遠慮がちに眠っているようだ。女嫌いだか私嫌いだかは知らないが、この家の当主にこんなことをさせていてはいけない。ガルド様は頑健そうな方ではあるものの、それだけにお体は大事にしていただきたい。
どうにも私に対しての遠慮や苦手意識が取れないようなのだが、少なくともこの件に関しては何とかしたいと、私は常々思っていた。
初め、ガルド様はいつものように小テーブルでお酒を召し上がりながら、話をしようとし始めた。
「聞こえません」
「そうか。ではもう少し大きな声を……」
「夜更けに大きな声で物語をなさるのは、少し気恥ずかしくお思いではないですか?」
「う……うむ……」
「ご無理なさらなくてよいのですよ。私がそちらの卓の近くに参ります」
「いや、ここは寒いから、あなたはそちらでお休みいただいた方が良い」
「では、ガルド様がこちらにいらしてください」
理性的で頭の良い方は、時としてこの手の理路整然とした誘導に引っかかる。
ガルド様はベッドの枕元の近くに椅子を持ってきて、そこに座って話をするようになった。
まるで小さな子供に寝物語をするかのように、彼は私に勇者の話を語って聞かせた。
§§§
後に勇者と呼ばれることになった男は、もともと田舎の山間の村で育ったただの田舎者だった。聖典で書かれている預言者のお告げや聖なる兆しの類はなにもなく、ただのひょろりとした若者にすぎなかった。ただ生まれつき髪の色が村の者達よりもやや明るい色合いだったので悪目立ちすることは多く、何かとつまらない目に合うことは多かった。
「と言っても聖典に描かれているほど赤い髪というわけではない。あれは誇張だ」
「黒い髪を見慣れた方は、少し茶色がかった明るい髪色を”あかい”と称されることもありますからね。あなた様から見れば私の髪色も赤く見えるのではないですか?」
黒々とした髪と目をしたガルド様は、私の茶色の髪は赤くは思えないと顔をしかめた。
「あなたの髪は優しく落ち着いた色だ。その髪を”赤い”と嗤う奴がいたら俺がぶちのめす」
「赤みがかった髪もきれいなのだから、それをすべて悪口ととらえることはないのですよ」と笑うと、ガルド様は思ってもみなかったことを言われたというような顔をした後で、いつものように「そうか」と言って苦笑した。
「勇者になった男には、そんなことを言ってくれる人はいなかった。だから、そいつは早々に村を出た」
単身での旅は気楽だったが困難も多かった。
身寄りもツテもなく、なんとなく日雇い仕事で食いつなぎながら、若者は王都を目指した。人の多いところなら、髪の色のことや顔がちょっと女顔だということぐらいでとやかくは言われないだろうと思ったのだ。
「女顔だと言われていたのですか?」
「さあな。細くてツルンとした顔で髭も目立たなかったから、そうはやされたんじゃないか」
「ガルド様とは真逆ですね。あなた様は男らしいお顔ですもの」
怖いばかりで愛想はないが、俺にはこれくらいがちょうどいいとガルド様は厳つい顎を撫でた。
ガルド様の語る勇者は、浅薄で考えなしのおっちょこちょいで、無駄に他人事に首を突っ込みたがるおせっかい……と散々な人物像だった。それでもその若者は、偶然出会った人物を幾人も助け、その縁で着々と王都で己の居場所を築いていった。
ガルド様の口からはそのようには語られないが、おそらく勇者は女性好みの容姿で、大変女にもてたのだろう。ガルド様ご自身もそういう機微には疎いようなので気づいていらっしゃらないが、明らかにその手の下心のある誘いをかけてくる人物が複数、彼の物語には登場した。
たとえば、王都に向かう途中で、野盗に襲われかけているところを助けた大商人の娘などは、明らかに勇者に一目惚れしていて、以後なにかと便宜を図ってくれていたとしか思えない。野良犬に噛まれて怪我をした弟のための薬草を勇者が用立ててやった雑貨屋の姉も、その薬を煎じた薬屋の女店主も、感謝と善意だけではない好意が、女の視点では見て取れる。
毎夜、少しずつ語られる勇者の物語は、どう考えても、田舎から出てきた純朴な青年が街の女の子にチヤホヤされながら、運に恵まれて気楽に生活している楽しい話なのだが、ガルド様の語り口は常にビターだった。
まるで世界中の人々に裏切られたことがあるかのように、ガルド様の視点は他人の善意に懐疑的で、勇者の物語に登場する人物の誰の好意も信じていない口振りなのだ。
「でも、その商人さんはきっと心から勇者様に感謝しておられたと思いますよ」
「そんなことはないだろう。結局のところ、口先一つで何でも引き受けさせられる都合のいい安い労働力に過ぎなかったのだ」
「だとしたら、そんな夜更けに馬車を用意してまで勇者様が来るのを待ってはいなかったでしょう」
「……だが………うむ。……そうだな」
理性的で頭の良い方は、筋の通った反証を感情的に否定しないところがいい。
私は少しずつ勇者の周囲の人々の行動の別の解釈の仕方を説明し、彼らに対するガルド様の偏見や思い込みを徐々に和らげていった。
ガルド様は日ごとに真剣に話をするようになり、お酒に口をつけることが減った。
時には己の罪の告解のように勇者の落ち度を語る事もあった。そういう時には私は最初から月並みな慰めは口にせず、ただしっかりとその”物語”を聴いて、いくつか質問をし、どこかに誤解や行き違いがあるのではないかと彼が自問できる機会を与えた。きっと彼が必要としているのは私の”共感”ではなく、自身の”納得”だからだ。そして彼がどうしても一人では善性を見いだせない時に初めて、私は傍らに座っている彼の手をとって、「それでも」と言葉をつなげた。
「それでも、そのときはそれが精一杯だったのでしょう。至らなかったことで存在のすべてを否定するように責めるのは公正ではありませんわ」
「そうだろうか」
「ええ。満点ではなくとも、勇者様はたしかに良いことをなさっています」
勇者はやや短慮で鈍感なところはあるものの確実に善良な青年だったので、私はいつだって反証例には困らなかった。
私はへそ曲がりで偏屈なガルド様の物語から、本当の勇者像を読み解いて、それをあらためてガルド様自身に教えるのが楽しくなった。どんどん増える(一方通行の)女性関係については、どう説明しても多分ピンとこなさそうだし煩わしいので、面倒だから単純な隣人の好意として丸めはしたものの、それ以外の人情の機微については、丁寧に話し合った。
夜毎に私達二人の間で勇者の物語は分析され、再解釈され、共有された。
「単純に切り分けてすべてを悪と断じるには、人の思いは複雑すぎると思いますわ」
「そうだろうか」
「たしかに勇者様はいささか他人を信用しすぎだし、言葉の裏を考えなさすぎる方ですけれど、だからといって言葉の裏が悪意ばかりだとは限りません」
一面の言動で人を判断すると大切なものを見逃してしまう。
「あなた様も王都では怖いお方だと噂されておりましたけれど、お心の中は恐ろしいばかりの方ではありませんでしょう?」
「どうだろうか」
「恐ろしい方は私のために毎夜お話をしてくださいません」
「……そうか」
「そうですとも。それにほら、あなたは嫌なお話をなさるときは、私が怖がらないようにこうして手を握ってくださるではないですか」
「っ! これは……そんなつもりでは」
「あなたがどんなつもりだったとしても、あなたの行いで私は救われている。そんな真実もあるのですよ」
剣の師となる老騎士との出会いを語り始めた頃は、ガルド様の表情はまだ険しかった。しかし、語り合ううちに、彼の老騎士への恐れと猜疑心は和らいでいったようだった。修行の日々には悪口雑言ばかりだったというその老騎士は、おそらく誰よりも勇者を信じていたのだろうと言う結論に私達は至った。死の床で「人間の言葉を信じすぎるな」と言い残した老騎士は、弟子のことを案じていたのだろうと話し合った晩には、ガルド様の表情はだいぶ穏やかになっていた。
§§§
もちろん勇者の周りには、悪意に満ちた者もいた。
王都で暮らす勇者は、うっかり首を突っ込んだ事件や怪異を解決することで数々の功績をあげ、いつの間にか高位の貴族に重用される存在になっていた。
そんな彼を疎ましく思ったのが、彼の一番の支援者である侯爵の政敵だった。政敵は言葉巧みに王にある話を吹き込んだ。
王は勇者に精霊の森への使者の役を命じた。
精霊の森に棲むエルフ族は人間嫌いで知られており、王国との交流は全くなかった。エルフ達は森への人間の侵入を拒んでおり、そこは人間にとっては”帰らずの森”ですらあった。その森に分け入っての使者とは、死んでこいも同然の命である。
しかし、王命とあらば受けざるを得ない。
侯爵の娘は、懇意にしている王女に頼って、搦め手から王の命令を取り下げて貰えないかと尽力してくれたが、決定は覆るものではない。逆に面白がった王女の口出しで、勇者は単身で精霊の森に向かうことになってしまった。
「下手に騎士や兵士を付ければ足手まといになり、エルフ達を警戒させるだけだと思っての配慮だったのだろう」
「それは単に王女が英雄譚への子供っぽい憧れで要らぬことを言ったのを、悪意ある奴らがこれ幸いと利用したのだと思いますわ」
「……なぜ、いつもと逆なのだ?あなたはいつも人の善性を説く側だったではないか」
「尊大な”友好”の書状一枚持たせて、何の権限もない外交の素人に単身で精霊の森に向かわせることがあまりにも非常識な判断だからです」
「……そうか…………そうだな」
「普通はあんなおとぎ話のような展開にはなりません」
そう。それはおとぎ話のような恋だった。
勇者はエルフの姫に一目惚れしたのだ。
重い重いガルド様の口をこじ開けて語らせた精霊の森での勇者の物語は、とても印象的でロマンチックだった。
私はしぶしぶポツポツと小出しに話すガルド様をせっつき、なだめすかして、よくこんな言葉がこの人からでてきたものだと感心するほど繊細な恋の逸話を引っ張り出して堪能した。
もっとも、語り手が語り手なので、聞き出しすぎるとロマンチックを通り越してしまうこともままあった。
初めて勇者がエルフの姫の姿を見たときの話はその典型だ。大きな鹿を追いかけて迷い込んだ森の奥の泉での出会いなどは大変に絵になるところなので、ぜひ描きたいからと私は詳細をせがんだのだ。
「泉に来ていた彼女の姿を見て恋に落ちたのですね」
「……うむ」
「でもエルフが気づかなかったのだから、かなり遠くから垣間見ただけでしょう?どんなところに惹かれたのですか?」
「ううむ……それは……」
「水辺に跪いて、水を水袋に入れる姿?」
「ああ……まあ…………そうだな」
「なんですか? 今の間は」
「なんでもない」
「ガルド様?」
「ううむ……」
「どうして昔の勇者の物語をするのに、ガルド様が恥ずかしがるんですか」
「いや、その、彼女は別に水を汲んでいたわけではなくてだな」
「?」
「その……少し沐浴していたところだったらしく……」
「そんなところを黙って覗いていたんですか!?」
「森の精霊だと思ったのだ。彼女はとても美しくてこの世のものとは思えなかった。俺……いや、彼はもう息をするのも忘れて、ただ呆然と見つめていたんだ」
ガルド様は言い訳がましく、だがここではないどこかを見ているような目をして、ボソボソと語った。
「別にやましい気持ちで隠れて覗きをしていたわけではない。音を立てたり姿を見せたりしたら、消えてしまって二度と会えないように思えたのだ……それは耐えられなかった」
彼は恥ずかしいのか、私と繋いでいない方の手で口元を手で覆って顔を背けた。
そしてしばらく沈黙してから、ふと真顔になってポツリと言った。
「うむ。でも改めて冷静に考えると、まごうかたなく覗きだな」
「覗きですね」
「最低だな」
「バレなくてよかったですね。そこで見つかっていたら、その場で射殺されていたかもしれませんよ、勇者様」
「う……うむ」
魔獣相手の流れ矢で怪我をするのと、覗きで矢を射掛けられるのでは、あとの扱いがかなり違うのでよかった、とガルド様はかなり真剣に安堵していた。
結局、その場に魔獣が現れたために、勇者のいささか不道徳な行いは気づかれることなくうやむやになったらしい。
彼女を助けねば! と飛び出した勇者を姫は新手の魔獣と勘違いした。エルフの姫が魔獣を射るついでに彼にも矢を放った結果、勇者は深い傷を負った。射られてなお、彼女を助けるために魔獣に立ち向かった勇者の奮闘により、魔獣は退散した。
そして、無理をしすぎてその場で昏倒した彼は、姫の恩人としてエルフの村に迎え入れられた。
私が描いた勇者の絵を、ガルド様は「とてもよく描けている」と褒めてくれたが、しっかり矢が突き立っているのには、なんとも微妙な顔をなさった。
§§§
思わぬ脱線をすることはあったものの、精霊の森での話はおおむね良い話だった。
矢傷が癒えるまでに、勇者はエルフ達……とりわけその姫と親しくなった。
本来、使者として普通に渡していたら、無礼すぎると切り捨てられていてもおかしくない内容の”親書”は、こんなものを持たされた勇者への同情を以て、鼻で笑われた。
王国の提案は偏見と差別意識に満ち満ちた酷いものであったが、その頃、世界に増え始めていた魔獣の脅威に対抗するためには、人とエルフが友好を結ぶこと自体は悪い話ではなかったのだ。
「人の国の王とではなく、貴方との縁の故に私達は森の外の怪異の討伐に協力いたしましょう」
エルフ族の姫レリティアは、そう約束し、勇者に破魔の秘術を教えた。
§§§
「勇者がもっと賢ければ、精霊の恵みで、このような辺境の荒地も豊かな実りの地にできていたかもしれないな」
冬の領内視察のために馬車で揺られている最中に、ふとガルド様がそんな言葉を漏らした。勇者はかろうじて不完全な破魔の術は身につけたものの、そこまでしかできなかったそうだ。エルフの知る精霊の術は多様で、本来は大地を慈しみ豊かな恵みをもたらす術の方が多い。
「いくら勇者様が賢くても、精霊の力を借りる術など、そうやすやすと身につけられるものでもございますまい」
「だが、己が覚えられずとも、エルフ族と人の交流をもっと繋ぐ道も選べたのではないかと思うのだ」
「後知恵で先人を責めてはいけません」
「だが……こうして辺境の荒地を眺めていると、もっと違うあり方があったのではとどうしても考えてしまう」
「でしたら」
白茶けた荒地を眺めているガルド様に、私は中身のぎっしり入った書面入れを渡した。
「昔の勇者ができなかったことをあれこれ考えて悩むのを止めて、今、ここの領主である自分ができることを検討なさる方が建設的ですわ。そのための視察ですし」
「そうか……そうだな」
訪問先の地区の概況をまとめた書面の束を睨んで、ガルド様はしばらく眉を寄せていた。でも、素直で生真面目な性分の彼は、結局、馬車に酔うまでの間、黙々と書面を読み続けた。
§§§
「お加減はいかがですか?」
「うむ……もう大丈夫だ」
「申し訳ありません。揺れる馬車で細かい文字を読むとお加減が悪くなる体質だとは存じませんでした」
「……普通よりは丈夫な方だと思っていたのだが、根を詰めすぎたようだ」
同じものを隣で読んでいたのにあなたはなんともないのかと問われたが、特に体調に問題はないので平気だと答えた。
「揺れや過労で気分が悪くならないようにするコツがあるんです」
「それはぜひ教えてもらいたいものだ」
「よろしいですよ。では今夜にでも……」
そんなことを話しながら着いた訪問先の館でちょっとした問題が発生した。
それは本来なら何の問題もないことだった。単に……用意された客間のベッドが一般的な夫婦サイズだったのだ。
いやむしろ、身体の大きなガルド様に十分に配慮された大きめのサイズだと言っても良い。しかし、我が家の非常識幅と比べると明らかに横幅が狭かった。これでは”十分に離れて眠る”のは無理だろう。
若い妻を娶ったばかりの新婚ホヤホヤの辺境伯様向けの気遣いに溢れた内装の客用寝室で、ガルド様は途方に暮れた顔をしていた。
「出先ですもの。なんでも自分の屋敷のようには参りませんわ」
「それはそうだが」
「静かでよく整えられた清潔な寝台を用意してくれたもてなしの心を無為にしてはいけません」
「そうか」
「では、先に横になってください」
「む……しかし」
「まだ少し昼間の馬車酔いが残っていらっしゃるのでしょう?晩餐の席でそれほど食が進んでいらっしゃらないご様子でしたもの」
「少し胃もたれがするだけだ」
「横になってくださいまし」
しぶしぶガウンを脱いでベッドに横たわったガルド様の傍らに立って見下ろす。いつもと逆の視点にガルド様が若干不安そうにしているのが面白い。
「具合の悪いのはこのあたりですか?」
腹部に手を当てると、彼はわずかにビクリとした。
「いや、どうだろう……わからない」
「体の調子が悪いときには、その場所に手を当ててやるとよいのですよ」
「そうなのか?」
「ええ。特にお腹の具合が悪いときは、こうやって手のひらで温めて、ゆっくりこちら向きに円を描くように撫でてやると良いのです」
「む……うう……んん……」
「そんなに下腹に力を入れて気を張ってはダメです。もっと力を抜いて」
「いや……しかしだな」
「勇者がエルフの秘術をきちんと覚えなかったのが悪いとなじる人が、これしきの体調管理の小技すら学べないのはおかしいですよ」
「ぐぬぅう」
「はい。余計なことは考えないで頭を空っぽにして深く息を吸って……吐いて……」
「余計なことは考えない。考えない」
「ほら、黙って、自分の体の中心に集中!」
しばらく黙ってじっとしていたガルド様は「すまん! ちょっと用を足しに行ってくる」と言い残して、丸めたガウンを抱えて部屋を駆け出していった。
しまった。用足しを我慢している人の下腹を丹念に擦ってしまうとは、悪いことをした。
そう反省して、彼が戻ってきたら謝ろうと思っていたのだが、彼はなかなか戻ってこなかった。夜気に身体が冷えてきたので、私はベッドに入った。
冷たいシーツの上で身じろぐ。……ガルド様が横になっていた側の方が温かい。悪いとは思いつつ、私はそちら側に寝て上掛けに潜った。
しばらくすると、この館の使用人に案内されてガルド様が戻ってきた。
「お戻りの部屋が分からなくなったときは、いつでも館の者にお声がけください。奥におりましたら大きな声で呼んでいただいて結構ですから」
「うむ」
一礼して扉を閉めていく使用人を見送ったガルド様は、少々バツが悪そうにベッドの脇にやって来た。
「外は寒かったでしょう。どうぞお入りください」
私はガルド様に暖かくなった側を譲ることにして、上掛けの端を少し持ち上げた。
ガルド様はちょっとギョッとした様子を見せたが、それでも先ほどまでのようにソワソワはせずに、黙ってガウンを脱いでベッドに上がった。
「先に休んでしまっていて申し訳ありません」
「かまわない。寝てくれていてもよかったのだが」
「続きはよろしいですか?」
こちらに背を向けて横になっていたガルド様は、私が腰の後ろ辺りを触ると一瞬身を震わせた。
「それはまたの機会に……というか、あなたの手はどうしていつもそのように冷えているのだ?」
ぐるりと寝返りを打った彼は、上掛けの中で私の手を捕まえて握った。
「普通ですよ。ガルド様が温かいのです」
「なんで外にいた俺よりも冷たい?足もか」
「この部屋は暖炉の火が落ちていますから」
女は寒い部屋では、そうそう自分の体温だけで暖まれないのだと説明すると、ガルド様は不機嫌そうに喉奥で唸った。
「もう少し足をこちらに出せ。俺の脛に乗せてもいい」
「ありがとうございます……ふふ、あなたは温かいですね。こうして隣にいてくださるとぐっすり眠れそうです」
「その方がよく眠れるのなら……そうすればよい」
その日は勇者の物語を聞くことなく、私はガルド様に寄り添って眠った。
そして、その後も視察の間中、私達はそうして夜を過ごした。
§§§
開墾地の進捗を確認したり、新しい用水や堤の計画地の下見をしたり、鉱山の採掘状況をチェックして翌年の坑道の計画を承認したり、地味だが必要な仕事をしながら、私達は領内を回った。
今回の視察は、嫁いできたばかりの私の領民への顔合わせという意図もあったからか、ガルド様はどこへ行くときも私を同行させ、現地の関係者にきちんと紹介してくださった。
どこの領民も皆、歓迎してくれ、ガルド様と私の婚姻を温かく祝ってくれた。
実はガルド様のご意向で、華やかな式典や豪華な祝いは控えるように言い渡されていたらしい。それでも皆、何か別の式典だの祭りだのにかこつけて祝いの席を用意してくれた。この領の人々は本当にガルド様のことをよく思っているのだろう。
ガルド様は相変わらず無骨で愛想のない様子で、結婚の祝賀の挨拶もひどく居心地悪げに受けていたが、それでもずっと私の傍できちんと夫として振る舞ってくださった。
視察の帰りの道中、私はガルド様から「レリティアの絵を描いてほしい」と頼まれた。
「良いですけれど、どんな風に描いてほしいという要望はお有りですか?」
「特にはない。そうだな。横顔ではなくこちらを見ている姿が良い」
「あなたの思うとおりの姿は描けないと思いますよ」
「かまわない」
「では、屋敷に戻るまでの間、エルフの姫君の話を聞かせてください」
「わかった」
彼は馬車に揺られながら、どこか遠くを見て話し始めた。
レリティアはエルフ族の支配階級の娘だった。勇者と出会ったときに、長寿族の彼女が何歳だったのかはわからないが、見た目は今の私と同じくらいだったらしい。エルフらしくほっそりした体型の彼女は、ともすると少年のようにも見えたが、長い髪に器用に花を編み込んだ姿は女らしく美しかったそうだ。
「彼女の髪は若い麦の穂の花のような色だった」
「麦の花?ですか」
「見たことないか?」
麦畑を思い返してみる。青い麦の穂は思い浮かぶが、花の印象は全くない。
「あまり女性の美を例えるのに使われるのを聞いたことがありません」
「バラのように花弁が美しいというものでもないからな」
「もう少し他の例えはないのですか?」
「ううむ。俺は詩人ではないので良い表現が浮かばん」
ただ彼女を例えるなら、艶やかなばかりで実を残さないバラではなく、命の実りをもたらす麦の花の方がふさわしいなと思ったのだ、と彼は呟いた。
ガルド様は勇者とレリティアの話を意外に丹念に語った。
傷が癒えた勇者は精霊の森に出現する厄介な魔獣をエルフ達と協力して退治した。その後、勇者が精霊の森を発つ時に、レリティアは同行を申し出た。彼女は行く先々の土地で勇者とともに勇敢に魔を払い、傷ついた人々を癒した。
「素晴らしい人だった」
「とても大切な方だったんですね」
「ああそうだ」
彼はとても愛おしそうに遠い眼差しでそう答えたが、耐えきれぬように両手で目を覆って顔を伏せた。
「でも、どうしても顔が思い出せないんだ」
私はそっと彼の黒い髪を撫でた。
「ガルド様が会ったこともない昔の方です。顔など分からないのが当たり前ですよ」
「違うんだ……彼女は……忘れてはいけないのに」
「何があったのか教えていただけますか?」
「俺は……レリティアに命を貰ったんだ。だからけして彼女のことを忘れてはいけないのに……顔が思い出せない」
マルティヤック辺境伯領にエルフはいない。それどころか現在、王国のどこでもエルフの姿を見ることはない。ガルド様は生まれてから今まで一度もエルフに会ったことはないはずだから、エルフの顔が思い出せないのは当たり前だと説いても、彼の表情は晴れなかった。
「違うんだ。生まれてからではない。もっと前の話なんだ」
気が狂っていると思われても仕方がないが、と前置きして、ガルド様は自分が勇者の生まれ変わりであると語った。
「妄想だの思い込みだのと笑われて当然の話だが、本当なんだ」
私は否定はせずにただ頷いた。
それでも彼は口を引き結んで、泣きそうな顔をしたまま、頭を抱えてしまった。それは己が狂人であると突きつけられるのを恐れているようにも、己自身の真実すら証明できない無力に震えているようにも見えた。
「お話しください。聖典には書かれていないことを」
彼は馬車の揺れる音に紛れそうなくらいに低い声で、ポツポツと語った。
§§§
聖典では、勇者はエルフ族を部下として精霊の森から帰還し、王国の聖騎士隊とともに各地の魔獣を退治したと記されている。
しかし実際に、勇者やレリティアとともに転戦してくれたのは国や神殿の騎士団ではなく、姫のためについてきたエルフの有志と、各地でそれぞれ魔獣対策に苦労していた地元の腕自慢達だった。
中には「この個人の力押し頼みのバカ集団には纏め役がいないとどうにもならんだろ」と、地元の警備隊の隊長職を辞してまで同行してくれた者や、気に入らぬ家から相続した遺産を全部使い込むと豪語した放蕩息子までいた。
苦難は大きかったが、彼らはついに魔獣が生まれる原因となっていた世界の歪みの根源を見つけ、その浄化に成功した。
ただし、その最後の淀みから生まれた魔獣との戦いで勇者は倒れた。
「俺の油断だった。いや、俺自身の実力が全然足りていなかった」
「ろくに国からの支援もない中での連戦で、気力も体力も限界だったのでしょう?それはあなただけの落ち度ではないわ」
「せめて今くらいの力と体力があれば、もっとどうにでもできたのだ」
そう言って大きな拳を握りしめる巌のような男の姿は、鍛えてなお優男だった勇者のかくありたいという理想だったのかもしれない。
「俺が至らなかったせいで、レリティアは死ぬことになった」
「あなたのせいではない」という言葉を私は飲み込んだ。今、私からそう言われてもこの人は納得できないだろう。私はただ伝わっている話を改めて示すだけにした。
「エルフの姫は勇者のために喜んでその身命を賭して快癒の祈りを捧げたと聖典にはありましたよ」
「あれは快癒の祈りなどというような穏当なものではない。術者の寿命を譲り渡すエルフの禁呪だ」
「エルフの寿命ならさぞかし長かったでしょうね」
聖典は、その戦いの功績を以て勇者は王女を娶ったと伝えている。勇者によって魔獣の被害から救われた周辺諸国が集ってできたのが現在の我が国で、勇者と王女の子孫が現王家だ。
「もしもそれが確実に己の命を削る禁呪だったとしても、それで勇者様が平和になった世で末永く幸福に生きられたのならば、本望だったでしょう」
「何も知りもしないくせに、知ったような口を利かないでくれ!」
ガルド様は苛立ち紛れに拳で馬車の金具を叩いた。大きな音がして馬車が揺れる。
驚いた御者は馬車の行き足を緩めた。
「旦那様、どうかなさいましたか?」
「いや、なんでもない」
「直にお屋敷に到着いたします」
「わかった」
御者とのやりとりを終えると、ガルド様はすっかり心を閉ざしてしまい、屋敷に着くまで一言も口を利かなかった。
物思いにふけるガルド様の黒い瞳は光もなく夜の闇に沈んでしまってとてもつらそうだった。
§§§
「ガルド様は今日は少々お疲れのようですから、特別に急ぎの案件以外は明日以降に回してちょうだい。急ぎのうちでも私でもわかるものであればこちらに」
「旦那様と奥様がご不在の間、取り立てて問題はございませんでした。本日はお二人ともごゆるりとお休みくださいませ」
私は有能な家宰に、今夜はガルド様にあまりお酒をお出しせずに早めにお休みいただくように計らうよう伝え、自分は少し絵が描きたいからと言って、画材を別室に用意させた。
白い画布の貼られた画板を前に、私は深呼吸した。
馬車が屋敷に着いた時、ガルド様は馬車から降りる私の手を取って「先ほどは大きな声を上げて済まなかった」と詫びた。
そして、使用人たちが荷物を降ろしている最中に、私の手を引いて屋敷に向かいながらほとんど独り言のようにこう告げた。
勇者は幸せに長生きはしなかった。
想い人が別にいた王女は、その男と共謀して勇者を謀殺した。後に王座に就いたという王女の息子は勇者の子ではない……と。
「俺は命をくれたレリティアの誠意に応えることすらできなかった。故にせめてこの生は、彼女に捧げたいと思っているのだ」
だから……と、暗い眼差しで前を向いたまま、彼は私に言った。
「俺はあなたを愛することはできない」
よくもまあ、あんな顔でそんなことを言えたものだ。
上等だ。目にもの見せてやろうじゃないか。
私は一心に絵を描き始めた。
§§§
「おはようございます! ガルド様」
早朝から淑女にあるまじき勢いで寝室に突撃した私の声で、まだベッドの中にいたガルド様は目をしょぼしょぼさせながら起きた。
「ご要望の絵が描き上がりました」
私は相手に有無を言う隙を与えず、出入り口に待機していた使用人二人に画架を運び込ませた。
「いかがですか」
置かれた絵を見て、彼は目を見開いた。
それは、エルフの娘の肖像画だった。
「レリティア……」
「そこそこ似ているでしょう?」
しばし呆然としていた彼はがばりとベッドから降りて、絵の前に駆け寄った。
私は使用人を寝室から下がらせた。
「レリティアだ……この髪の複雑な結い方も、なんだかむやみに飾り紐が通った服も、ああ、この首飾りは俺が彼女に贈ったものだ。たしかにこんな感じだった。しかし、なぜ?」
「なぜ周りばかり詳細で、顔がそれほど似ていないかですか?」
「いや、そういうつもりではなくてだな」
絵の前に跪いて狼狽えている彼に向かって私は言ってやった。
「そんなもの、自分の顔なんてそうそう見る機会がなかったからですよ」
意味がわからなかったのかポカンとしている相手に、私は鏡というのは人間の貴族向けの贅沢品であって顔の特徴がはっきり映る大きな良い鏡なんて、当時のエルフは使う習慣がないのだということをきっちり説明した。
「そうか」
「そうです」
「なるほど……ではなくてだな」
「なんですか。まだ何か聞きたいことが?」
「……レリティア?」
恐る恐る尋ねてきた相手を見下ろしながら、私はため息をついた。
「”はい”であり、”いいえ”です。相変わらず察しが悪いですね。人生2回目ならもうちょっと要領よくお成りなさい。学びのない男は大成できませんよ」
「うわあぁ……レリティアだ」
「なんですか?」
「いいえ、なんでもありません」
「よろしい」
その場にへたり込んでしまった彼の頭を私は撫でてやった。
「察しが悪くて、勘が鈍くて、物覚えの悪い不出来なあなたのために説明してあげましょう」
「はい。よろしくお願いします」
レリティアが死にかけ……というかほぼ死んだも同然の勇者に対して使った禁呪というのは、”二世の誓い”と呼ばれる、誓約の来世までの履行を条件に命を相手に譲る呪法だ。強い強制力を持つ高度な術で、発動時に条件にされた誓いが果たされなかった場合、その履行は術の対象者の次の生にまで持ち越される。
「幸せになってねってお願いしたのに、あなた約束を守らなかったでしょう。だから術者の私まで術の強制力に巻き込まれたのよ」
「はあ?」
理解が追いつかずに目を白黒させる彼を私は問い詰めた。
「あなたが自分が勇者だって気づいたのはいつ?」
「どうだろう。十歳ぐらいだったと思うが」
「やっぱり。それがきっかけで私の生まれ変わりが起きたから、私達こんなに年が離れているのだわ。遅いわよ。もっと早く気づきなさいよ。鈍いわね」
こんなに年齢が違って生まれ変わってると思わないから、最初にあなたとの結婚の話が来た時に、これはどうしたものかと思ったと告げると、彼は冷や汗をかいた。
「どうもされなくてよかった」
「少なくとも一年ぐらいは様子を見ようと思ったの」
「それで一年経ったら?」
「それはまあそれなりに?」
「よかった。打ち明けて本当によかった」
「バカね。私はあなたほど鈍くないから、とうにあなたが元勇者だってことぐらいはわかってたわよ」
「そうなのか」
「あれだけ勇者本人視点でしかありえない話をしておいて何言ってるの」
私以外が聞いたら、勇者妄想が激しすぎて自己投影しきった勇者の夢物語を創作して語る痛い人だと思うから、絶対に止めなさいよと念を押すと、彼は床に崩れ落ちた。
「ということは……俺は君本人に君の話をあんな風に語っていたのか」
「とても有意義だったわ」
床に潜れる隙間があったら、めり込みたいと思っているような声で、彼は呻いた。
私は彼の傍らに座って、優しくその背中を撫でた。
「ほら、しっかりして。あなたは鬼の辺境伯ガルド・ドゥルトでしょう?へっぽこ勇者みたいに床とお友達になってちゃダメよ」
「少し時間をくれ。頭の中がぐちゃぐちゃだ」
「しょうがないわね。だったら少なくとも椅子かベッドに座りましょう。いい貴族が床なんかに座っちゃダメ」
「レリティアに床に座るなと言われるとは」
「まだわかってないのね。私は元レリティアなだけで、今は王国貴族の家庭できちんとした教育を受けた令嬢で辺境伯爵夫人なの」
私は両手で彼の頭を抱えて顔を覗き込んだ。
「今、レリティアのような口調で話していたのは、あなたにわかっていただくためで、本来の今の私はいつもどおりのあなたの妻ディアナですわ」
「ディアナ……俺の妻……」
ガルド様は私の顔をじっと見つめて、ごくりと一つ息を呑んだ。
「わかりますか?あなたが大きく強い黒髪の男になりたかったように、私は茶色い髪をした優しくてお淑やかな普通の人間の女の子になりたかったんです」
あなたと似合いのお嫁さんになりたくて。
「普通の……というには君の実家は高位貴族だと思うが」
「人間社会で資産と身分は初手であるに越したことはありません」
「なるほど」
「玉の輿より降嫁のが楽です。と、精霊には要求しました」
「意外に要望が細かく通るんだな。精霊の禁呪」
「大変いい仕事をしてくれました」
麦の花色の髪の姫君でなくなってしまってごめんなさいと謝ると、ガルド様は身を起こして私に向かい合うようにして、遠慮がちに私の髪に手を触れた。
「今の君の髪は豊穣の麦の穂の色だな。豊かな実りの色……そして、それを焼いたパンの色だ」
「ふふっ、やっぱり女の髪の色を褒めるのには使わない例えですね」
「俺にとっては命の糧だ」
彼は私の頭にそっと口付けた。
「……このまま君をベッドに運んでしまっても良いだろうか」
「そういう時に一言断りを入れてしまうところ、勇者様の頃から変わりませんね」
「まさか……あの時のことも覚えているのか?」
「あれほど手際が悪くて印象的な経験は生まれ変わってもなかなか忘れられるものではありません」
「忘れろ! いや、上書きする!!」
彼は私を抱えあげると、すぐ脇の寝台に直行した。
優秀な家宰は、長い視察旅行から帰った領主夫妻が、その日は昼過ぎまで寝室にいたのを咎めなかった。
§§§
「さて、来春からの領地開発についてなんですが」
「あれだけの仮眠で元気だな」
「あなたより若いので」
「嬉しそうに強調するな……それで?」
私は視察のときの資料を夫の執務机の上に広げた。
「この開墾地の一角と隣接する森林を入植地にしていただきたいのです」
「入植地? 誰の」
「エルフです」
「はあっ!? 王国統合の初期に精霊の森が焼かれてから、エルフ族は人間の国から姿を消したんだぞ」
「表向きはそうですね」
「うぇ」
「霞でもあるまいし長寿のエルフ族がそうそう消えるわけがないでしょう。どこにも森はありますし、人間とエルフなんて大して容貌は変わらないので都市部でも地下活動は比較的楽なんですよ」
ガルド様の顔色が青ざめた。
記憶アリで転生して結婚するまで、私がなにもしてこなかったわけではないということに気づいたらしい。理性的で頭の良い方は、こういうとき全部口に出さなくても良いから楽だ。魔獣退治時代に散々仕込んだ甲斐があったというものだ。ガルド様は男女の心の機微には察しが悪い方だが、政治に関してはけして鈍くない。
「どこまで伏せて進めたいかによるな。入植の規模によっては資金が全く足りないぞ。開墾地は最初のまともな収穫が得られるまでにとても時間が掛かる。見てきてわかったと思うが、我が領は肥沃な地ではない」
「それはご心配なく。精霊の術による大地の回復。お望みでしたでしょう?堤と用水ができれば、あの辺りは水の恵みも良くなりますから」
ガルド様は領主の顔でしばし黙考してから、慎重に口を開いた。
「たしかに、それはありがたい。それでもある程度まとまった初期費用が必要なのは変わらんぞ」
「それはアレを使っちゃいましょう」
「アレ?」
「放蕩息子あらため豪商の隠し資産」
「なんだそれは!?」
「まぁ、あの人、あなたにはいざという時の軍資金の予備の話をしていなかったんですの?慎重というかなんというか、流石、うなるほどの財を無駄遣いした挙句、さらに増やした男は違いますわね」
「世話になった故人を悪くいう気はないが、どうにも腹が立つな、あのキザ野郎。で、さらに増やしたってなんだ。聞いてないぞそんなこと」
「それも教えてもらってなかったんですか?隊長さんの入れ知恵かしら」
「クソ親父め……」
どのみち昔のことだから、笑って許して、資金は遠慮なく使ってしまいましょうとなだめると、彼は厳つい顔をさらにしかめた。でもその表情はどこかしらあのちょっと子供っぽい勇者様の表情を思わせた。
あれこれと計画を立てながら、私はこれからこの愛しい人とあらためて歩んでいく未来を考えてワクワクした。
勇者様がほとんど使わずに亡くなってしまったせいで私達二人に引き継がれたエルフの姫であるレリティアの寿命は、人間としてはいささか過剰なほど十分にある。それに、私が禁呪で古代精霊に願ってしまったのは、我が想い人が善き王として幸せになることなのだ。
さあ、いっちょがんばるか!
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