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記憶   作者: 楠木夢路
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後編

 それから一週間が経って、僕は退院することになった。確かにリハビリは順調だったから、これ以上、病院にいる理由はない。でも、僕は憂鬱だった。

 結婚を機に新居に引っ越したことは、ゆかりが話してくれたから知っている。でも知っていることと、それを現実だと受け入れることとでは、わけが違う。

 ゆかりは家に帰れば、僕の記憶が戻ると信じているようだった。でも、僕は家に帰って、それでも何も思い出せなかったら、と思うと怖かった。

 自分の顔にも相変わらず、しっくりこないままだった。

 ゆかりが運転する車に揺られながら、僕は窓の外を見ていた。窓の外を流れる風景は、実感を伴わない映画の場面みたいで、僕の記憶を呼び覚ますことはなかった。このままずっと家に着かなければいいのに、と僕は心から願った。

 新興住宅街の中の細い路地を抜けた先、小さな一軒家の前でゆかりは車を停めた。期待を込めたゆかりの視線に気がつかないふりをして、僕は車を降りた。

 玄関の前に立つと、不意に安堵感を覚えた。可愛らしい書体の表札には見覚えがある気がする。ゆかりが玄関の扉を大きく開いた。この扉の向こうには、きっと幸せな未来が待っているはずだ。

「お帰りなさい」

 ゆかりが僕の手を引いて家の中へと導いてくれる。僕はゆかりの手をぎゅっと握り返した。

「ただいま」

 僕は自分自身に言い聞かせるように呟いた。


 自宅での生活は、思ったよりもずっと快適だった。

 僕の体はこの家をちゃんと知っているようだった。たとえ目をつぶっていても、僕は家の中を動き回ることができた。家の間取りも家具の配置も、僕の体は間違いなく覚えている。それなのに、記憶はあやふやなままで、日が経つにつれて、不安は大きくなるばかりだった。

 僕は誰だ。誰なんだ。

 夜中にふと目が覚めることもたびたびだった。夢の中では、確かに僕は『僕』なのに、目が覚めた途端、わからなくなってしまう。叫びだしたい衝動に何度も駆られた。それでも正気を保っていられたのは、ゆかりがいたからだった。

 ゆかりと一緒に生活することは楽しかった。食べるものも、見たいテレビ番組も、読みたい本も僕たちの好みはよく似ていた。もしかすると、ゆかりは僕の好みをよく知っていて、合わせくれているかもしれない。

 結婚生活はきっとうまく行っていたのだろう。

 時々、何気ない会話の中で「あなたはこっちの方が好みでしょう?」とゆかりは言った。僕の記憶を呼び覚まそうとしているゆかりの気持ちは嬉しいが、何となく洗脳されているみたいで、僕はそう言われるのが嫌だった。

 ゆかりには悪意なんてない。頭でわかっていても、深読みしてしまう。

 今の状況のせいで、こんなに疑い深い性格なのか、それとも、もともと僕の性格がねじ曲がっているのかは、やっぱりわからなかった。

「気晴らしに出かけましょうか」

 ゆかりはそう言って、毎日のように僕を買い物に誘った。僕たちは近くにある大型ショッピングモールに出かけることが多かった。ここには何でも揃っているし、散歩するにはちょうどいい距離だった。

 ゆかりは料理が好きらしく、生鮮食品を選ぶときはいつもより楽しそうだった。

「何が食べたい?」

 ゆかりがそう言うと、僕はいつも同じ返事をした。

「何でもいいよ」

 ゆかりの作る料理はどれもおいしかったし、そもそも僕は食べ物にはあまり好き嫌いがないらしい。僕がそう答えるたびに、ゆかりはころころと小気味の良い笑い声を立てた。

「そう言うところはちっとも変わらないのね」

 何気ない会話が心地いい。

「僕はずっと変わらないさ」

 心にもないことを言いながら歩いていた僕は、ふと花売り場で足を止めた。

「どうしたの?」

 僕の視線の先には中年の女性がいた。

「知っているんだ、あの人。そんな気がする」

 気のせいかもしれない。でも何かが引っかかっていた。

「私はあんな人、見たことないわ。気のせい……じゃないの?」

「わからない。でも……」

 どこかで……そう、記憶の濁流の中で、あの背中を見た覚えがある気がした。

「誰かはわからない。会ったこともないかもしれない。でも、知っている気がするんだ」

 言っていることが支離滅裂だってことは自分でもわかっていたが、うまく言葉にしてゆかりに伝えることができない。気がつけば、僕はその人のすぐそばに立っていた。その人は白い菊の花を手に取ると、小さな声で呟いた。

「圭介……」

 その声を聞いた時、僕の中に不思議な感情が生まれた。僕はその声を確かに知っている。そして、なぜか懐かしさを感じたのだ。僕は眩暈がして、その場に崩れ落ちた。

「貴志? 大丈夫?」

 ゆかりの声ではっとして周りを見ると、もうあの人の姿はなかった。

「あの人はどこ? 追いかけなくっちゃ」

 自分でもよくわからなかった。でも、このまま見失ってはいけない気がした。

「あそこよ」

 ゆかりの指差した先にその人はいた。両手で白菊の花束を大事そうに抱えて、店を出ようとしている。

「仏壇にでも供えるのかしらね。ねえ、ついて行ってみましょうよ」

 ゆかりに言われなくても、そのつもりだった。僕らは少し距離を置いて、その人の後を追いかけた。

 その人はどこにでもいるような普通の中年のおばさんだった。少し丸くなりかけた背中が、年齢を感じさせる。わずかに右足を引きずるようにしながら、その人は駐車場を横切り、店の敷地を出た。そのまま真直ぐに、僕らの家とは反対の方向に歩いてゆく。

 この先は田畑が多い。僕たちが住んでいる新興住宅地と違って、田んぼの中に古い農家が点在している。田んぼのあぜ道を抜けると、おばさんは舗装されていない道を登り始めた。その先の丘は林になっている。

「この先に家なんて、あったのかしら?」

 ゆかりは首を傾げた。そんなことを聞かれても、僕にはわからない。

「さあ、どうだろうね。どうする? まだついていく?」

 本当のところ僕は自分の行動を馬鹿げていると思い始めていた。こっそり後をつけることに後ろめたさも感じていたし、自分の感覚にも自信がない。期待したってがっかりするに決まっている。

ゆかりも迷っているようだった。僕らが追いかけていることなど、まったく気がつかない様子で、その人は林の中に砂利道をゆっくりと上っていく。そのうち斜面を上り切って見えなくなってしまった。

「せっかくここまで来たんだから、行ってみましょうよ。いつもと違う散歩道もいいんじゃない」

 ゆかりの言葉に励まされて、僕らも丘を登ってみることにした。

 まだ昼下がりだというのに、林の中に入った途端、空気がひんやりと冷たくなったのを感じる。薄暗い林の中をさらに登ると木々の間から見えたのは墓石だった。

「ここって……お墓?」

「みたいだね。あの人はどこに行ったんだろう?」

 幾つも並んでいる墓石の一つにその人は立っていた。

 白菊を供えて線香に火を灯すと、その人は墓前にかがみこんだ。手を合わせる横顔には深い悲しみが滲んでいた。きっと大切な人が眠っているのだろう。

 その人は墓石を見つめたまま何かを語りかけているようだった。それに応えるかのように、風に吹かれた葉擦れがさやさやと囁きのような音を立てている。遠目からでもその人が泣いているのがわかった。

見てはいけないものを見てしまった。ゆかりも同じ思いなのか、僕らは無言のまま木の影に身を潜めていた。

 その人が立ち去ったのを確かめてから、僕たちはその人がいた墓の前に立った。

 ゆかりが墓石の脇にある墓碑を見て、「あっ」と声を上げた。墓碑には、「圭介 享年二十歳 平成二十七年七月二十六日没」と刻まれていた。墓碑の文字がまだ新しい。

 あの人は確かに「圭介」と言っていた。若くして亡くなった息子の面影を僕に重ねていたのだろうか。でも、ゆかりが気になったのは彼の歳ではなかったらしい。

「見て。亡くなったのは、あなたが手術を受けた日だわ。こんな偶然って……」

 ゆかりは偶然と言ったけど、たぶん、そうじゃない。心臓が早鐘のように鼓動を打っている。僕は確信していた。僕の体の中で脈打つ心臓。

 これはきっと彼のものだ。

 僕は幽霊なんてこれっぽっちも信じていない。インチキ霊能者なら「彼の霊魂がここに導いた」とでも言ったかもしれない。でも僕はそうは思わない。

 ただ僕の中で鼓動しているこの心臓がもし本当に彼のものなのだとしたら、彼の記憶がこの心臓のどこかに刻まれているのかもしれない。医師は荒唐無稽だと言っていたが、溢れ出す記憶の中に紛れ込んだ見知らぬ人や風景はもしかすると、彼の記憶かもしれない。

 不思議な感情だった。でも不安も焦燥感も消えていた。思い出せなかったわけじゃなかった。むしろ知らない記憶が増えていたんじゃないか。そう思うと、何だかすっきりとした気分だった。

 すべては僕の思い過ごしかもしれない。

 彼がどうして亡くなったのか、僕にはわからない。本当に臓器提供をしたのか、僕の心臓が彼からもらったものなのか、確かめるすべはない。

 それでも一つだけ確かなことがある。

 もしも見知らぬ誰かの死がなければ、その誰かが僕に心臓をくれなければ、僕は今ごろ土の下に埋もれて長い眠りについていたことだろう。

 僕は無言のまま彼の墓に手を合わせた。

 ゆかりも僕の横で静かに手を合わせている。

 帰り道、黙り込んで歩いていた僕の手をゆかりがそっと握った。僕は力を込めて強くゆかりの手を握り返した。

「何を考えてるの?」

「色々とね」

「もしかして、あの子に悪いことをしたなんて思ってないわよね? だったら……」

「いや、そうじゃないよ」

 僕の目をのぞき込んだゆかりは、今にも泣きそうな表情を浮かべている。僕はゆかりの肩に手をのせた。

「ほんとにそうじゃないんだ」

 それでもゆかりは不安そうだった。僕はゆかりの手を引いて歩き出した。今の感情をゆかりにうまく説明する自信はなかった。

「手術の前と後、僕は変わってしまったと思う?」

「わからないわ。でも、あなたはあなたなんだもの。私にとってはそれだけよ」

「不安にならないの?」

 僕の質問にゆかりは立ち止まって、大きく頭を振った。

「不安じゃないわ。もし手術を受けなければ、記憶は失くさなかったかもしれないけど、今こうして一緒にいられたかどうかはわからなかった。私ね、あなたが手術を受けるまでは、いつも怖かったの。急にあなたがいなくなるんじゃないかって……。その頃の不安と比べたら、今はずっと幸せ」

 彼女の言う通りだ。それでも聞かずにいられなかった。

「今の僕は、ゆかりの好きだった僕じゃないかもしれない。それでもいいの?」

 返事に困るだろうと思っていた僕の予想は見事に裏切られた。ゆかりは困るどころか、くすくすっと笑い出した。

「当然じゃない。記憶があっても、人は変わるもの。これからうんと歳をとれば、見た目だって変わるし、考え方だってきっと変わる。そんなことくらいで、あなたを嫌いになるようなら、最初から結婚なんてしてないわ」

「よぼよぼのおじいさんでもいいってことか」

「もちろん。その頃には、きっと私もよぼよぼのおばあさんだけどね」

 楽しげに笑っている彼女の横顔を僕はそっと盗み見た。彼女はなんて強いんだろう。それに比べて、僕は弱虫だ。過去の自分を見つけなくては躍起になっていたのは、僕が僕じゃなくなることが怖かったのだ。でも今はもう、そんなことはどうでもいい。

 切れ切れの記憶の残滓の中に、僕自身は登場しない。でも考えてみれば、それは当然なのかもしれない。浮かんでくる光景が、僕の目を通してみた記憶なら、僕自身はいつも撮影者なのだから。そして、その記憶の中に何が見えようとも、僕は『僕』だ。

 この先も僕の過去の記憶はとっ散らかったままなのかもしれない。でも、過去に囚われる必要なんてない。僕が今ここに確かに生きている、それが僕の現実だ。今の僕ができることは目の前の現実を受け入れて、精一杯生きていくことだけだ。

 僕の命を繋いでくれた見知らぬ誰かも分も、今を生きる。

 今を生きれば、新しい過去が生まれる。

 過去の記憶がどうだったとしても、この先ちゃんと生きていくことがきっと大切なのだと僕は心から思っていた。

 僕に心臓をくれた誰か。その人だってきっと、もっと生きていたかったはずだ。僕の中に残る記憶の残滓はきっとその誰かが生きた証なのだろう。

「帰ろうか。僕たちの家に」

 僕はもう一度、ゆかりの手をぎゅっと握りしめた。丘の下には僕らが住む街並が広がっている。僕はゆかりと手をつないだまま歩き出した。

 この先の未来を創るため、まっすぐに前を向いて歩いていくんだ。

 僕はそう心に誓った。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 興味深く前後編ともに拝読させていただきました。 心臓を移植されたけれども、故人のなにかが主人公に流れ重なったのかもしれませんね。 不思議な導きで故人の母らしき方に出会って、心臓の持ち主を意…
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