08)宣告するトラジェディ
To you, the one reading this message. It will come soon.
Don't forget. Tell your lupine brothers who follow you, ask for their help.
【A9II>G2V B4 B8 Iae>G2V】
Hurry. Before everything comes to an end.
四つ折りの紙面の裏側に滲んだ洋墨の跡。それを「To you, the one ending this mission.——今この瞬間、この任務を終わらせるであろう貴方へと告ぐ」と読み違えたのは、どうやら単なる焦燥の産物だったようだ。紙面を覆っていた真実。それは、重大な機密を予感させる冷厳な指示書と、解読を拒む暗号の羅列だった。
短いメッセージに、異彩を放つ一画がある。中央にある【A9II>G2V B4 B8 Iae>G2V】という文字列だ。それは、アルファベットと数字が不規則に混ざり合い、既存のどの言語体系にも属さない奇妙な暗号としてそこにあった。文脈から浮き上がったその記号の羅列は、単なる情報の欠落というより、理解を拒む意思そのもののように感じられた。得体の知れない不信感が、胸の内に澱のように溜まっていく。
そして読み進めるほど拭い去れぬ違和感を覚えるのは、「lupine brothers——狼のような同胞」という表現だった。それは単なる比喩なのか。それとも書き手はこう告げたいのか。読み手である誰かが、野生の獰猛さと底知れぬ貪欲さを抱えた群れの首魁であると。誰かに従い続ける狼達の真意はどこにあるのだろう。忠義、あるいは飢えを満たすための共犯関係か。言葉の裏に隠された牙を剥き出しにする野性を想起し、思考は迷宮へと入り込む。
何よりも、文章全体を支配しているのは、心臓の鼓動を早めるような圧倒的な切迫感だ。「Don't forget」という懇願に近い戒めと、「Hurry」という短く鋭い督促。それらは背後から迫りくる目に見えない影——【取り返しの付かぬ結末】がすぐそこまで来ていることを予感させる。紙の上に残された洋墨の跡から書き手の震えと焦燥が伝わってくる。総てが終わりを迎える前に動かなければならないという強迫観念が、静かな部屋の空気をじわじわと不穏な色に染め上げていく。
メッセージの内容に二人同時に首を傾げた。けれども僕の悟りは速かった。その書付が、自らの正体を解き明かすものでも、この窮状の理由を示すものでもないと理解するや否や、過度な期待を寄せていた僕はがっくりと肩を落とした。過去に纏わる記憶が一切ないまま任務を課されていたのではない、という事実にひとまず愁眉を開いたのは確かだ。しかし、誤読した幻想的な一文の方が現実よりずっと魅力的だった。単純に注意を促すだけの味気ない原文に落胆の色を隠せない。視線は足元の檳榔子黒のファーラグへと、ゆるりと落下していく。深大な色調と柔軟な毛足は、僕が投棄した心を象徴するように広がっていた。
顔を上げると、男の後ろ姿が目に映る。解読を諦めた僕を余所に、彼は往生際悪く神妙な面持ちで未だ紙面と対峙していた。黒曜石を研磨した硝子卓に身を乗り出して、備忘録を指でなぞり続ける。放擲を許さぬその背中からは、一種の狂気すら感じられた。
「随分と杜撰な走り書きじゃねえか。執筆者は余程地獄の門限に遅れそうだったと見える。だが待てよ。このクソッタレな暗号をひん剥いてやりゃあ、そいつの尻を叩いてた焦燥の正体って奴も自ずとご開帳されるって寸法か……?」
「期待外れもいいところですよ。僕の正体も、この惨状の理由も、ここには一文字だって記されてない。大山鳴動して鼠一匹——わざわざ帯紙の裏にまで忍ばせて僕を踊らせるのが目的だっていうなら、そりゃあ大成功でしょうね!」
用紙に綴られた速筆に当てを失い、焦心が流露する。事態が暗礁に乗り上げるのは全くの想定外だった。期待を裏切られたと意気阻喪する最中で、未だ思考に耽る男に苛立ちを覚えるのは正当な感懐だろう。僕は痛憤を抱え躍起になり彼の後頭部を睨みつけた。男が試みた数分の解読作業も空しく、結局暗号は沈黙を堅守したまま。迷宮の中で唯一の羅針盤を失い、袋小路に放り出されたも同然である。無二無三の頼みの綱を絶たれた僕はただ項垂れることしかできなかった。
辛気臭く俯く僕を他所に、男は刹那怪訝な態度に転じ、不穏な気配を漂わせた。卓上のメモから顔を上げ、頭を抱える僕をじろりと見遣る。眉間に刻まれたのは、先ほどまでの思案ではなく冷淡な不審の皺だ。心臓を鷲摑みにするような圧迫感が、身体の硬直を再び呼び戻した。
「このクソッタレな暗号文。まさか脳味噌がハッピーになる前のお前自身が、親切ごかしに残してくれた地獄への案内図……なんてオチじゃねえよな?」
恐らく男は、僕こそがこの肉筆を記した張本人ではないのかと疑っている。問い詰めることで記憶を呼び覚まそうとしたのだろう。だが、思い出せないものはどうしようもない。僕はその事実を、拒絶の念を込めて強く釘を刺した。
もっとも、内容を思い出せていればこの謎解きの果ゆかぬ蟠りも払拭できたであろうに。痼が食道へへばりつくような蘞味を付帯する不快感。熟れ過ぎた果実のごとき酸味と苦味が混じり合い、舌を離れぬ粘着質な厭悪が唾液に溶け出す。吐き出すことも飲み込むことも敵わぬその後味が、終始心を苛んでいた。
「過去の僕が用意したにしては、実用性に欠ける遺言だ。もっと機微に触れる核心を残せなかったのかと、自分自身に失望すらしますよ。ま、それを書いた手触りすら今の僕には欠片も残ってないんですけどね」
「おい、そこの記憶喪失さん。脳内がマシュマロになっちまってる今、このメモの書き手がお前じゃないって証拠にはならねえだろ。……もっとも、どんな手品を使ってこの密室にソレを紛れ込ませたのかは、さっぱり見当もつかねえがな」
「僕が共犯者に中身を託した、とでも言いたいんですか? なら買い被りもいいところだ。今の僕は鍵の壊れた空箱も同然です。期待したって無駄ですよ。今思い出せる記憶なんて、この空っぽの頭のどこを探したって見つかりませんからね」
「落ち着けよ相棒。まあ事態は詰むべくして詰んだって寸法さ。更地になった脳味噌相手に過去の因縁を説いて回るなんてのは、死人に説法するよりも質の悪いジョークだ。時間の無駄、弾丸の無駄。端から勝負になっちゃいねえんだよな」
僕という枯れ果てた井戸から、これ以上真実の水は汲み上げられない。男はそう悟ったのか、水面の奥底を覗き込むのを止めた。枯渇した湧泉が差し出せるものなど何一つない。彼が釣瓶を下ろすのを諦めてくれたことは、僕にとって唯一の救いだった。真相を語れぬことは大変申し訳ないが、忘却の彼方へと溶解した情報を誰より欲しているのはむしろ僕の方だ。築き上げた砂の城が波に攫われるように、事態は呆気なく振り出しへ立ち戻った。崩れ去った城の跡地に残されたものなど最早何もないのだ。
あまりの空しさに僕は髪を掻き毟る。潮で濡れそぼった砂地にできることは、無力感のまま爪を立てることだけ。己の正体すら知れぬまま、幽々たる未来にさえ鬼胎を抱かざるを得ない。肥大化する憂いは熱砂のように皮膚を焼き、内部から身体を引き裂くかのような焦げ付く感触となって僕を支配した。
「僕はこれから、どう処分されるんですか? 警察に突き出されて終わるのか、情状酌量で許してもらえるのか。このまま袋小路で朽ち果てる前に、せめて自分の賞味期限くらいは把握しておきたい」
「話は単純さ。不法侵入って不潔なカードを切った時点で、お前の目の前にはお巡り謹製のレッドカーペットが敷かれちまってる。弁護士を呼ぶ暇もありゃしない。御用だ、神に祈る時間もないぜ?」
いかにも真面目そうな男の声色が、圧倒的絶望の闇を解き放つ。その表情に落ちる影は、最早冗談では済まされないと告げていた。終焉を迎える人生を悼む鎮魂歌のように、心臓は騒々しく警笛を鳴らし続ける。喧しく脈管を叩く早鐘の音は、轟々と渦巻く血液の濤声となり、鼓膜の奥で絶え間なく悲鳴を上げている。聞くに耐えない轟音は、肉体が発する最後の警告であった。
しかし、次に男が放った言葉は、失意の辺に立つ僕の背を押し、さらなる深淵へと突き落とすものであった。語られたのは、作為的な悪意さえ感じるほど複雑に絡まり合う事態。希望を求めていた僕の脳内は、その言葉によって混迷を極めていく。
「お巡りの御用になって、豚箱の中でクソみたいな飯を食うだけで済むなら、確かにお前はラッキーボーイだった。だが生憎だな。お前が踏み込んだのは、触れれば即地獄行きの第一級接触禁忌種厳重管理区域だ。そこで中の連中と顔合わせまで済ませちまった。残念だがここでは法律より先に死神が帳尻を合わせに来る。——死刑判決、それ以外に答えはねえ」
「第一級接触きん……? 何ですか、それ?」
「世間様にはお目にかけられない、イカれた連中のサファリパーク。それがここ、第一級接触禁忌種厳重管理区域だ。お前はそこで侵入禁止の看板じゃなく、中身に触れちまった。奴の薄汚い面を拝んじまった以上、お前はもう歩く情報漏洩の塊って訳だ。地獄への特等席が用意されてるぜ。お迎えが来るのをせいぜい震えて待つことだな」
「嘘だ、認めない! 僕にはまだその地獄を背負う資格も義務もない。未成年という免罪符すら通用しないなんて……。ねえ、何の冗談ですか。滑稽過ぎて反吐が出そうだ」
「嘘なんか吐いて一体何の得がある? 第一級接触禁忌種厳重管理区域ってのはな、趣味の悪い一望監視施設だ。この扇状の設計を見ろよ。中央の監視室から総てを拝める効率の権化だ。不法侵入なら数年豚箱で済むが、内部の劇物に触れたとなれば話は別だ。どこのどいつだろうが、問答無用で死体袋行きと決まってるんだよ」
「それにしたって少年法とか——」
「少年法だァ? 笑わせるな。生憎ここは更生なんていう甘っちょろい奇跡が入り込めるほど、神のご加護は厚くない。ガキの特権を振り翳す前に、自分の脳漿がブチ撒けられる音が法律で防げるかどうか試してみるか? ここじゃあ鉛玉の重さこそが唯一の正義だ」
待て、こちとらまだ十代だぞ。十六、十七、あるいは十八か? この若さで死ぬというのか? 不運? いや、不運などという言葉では到底足りない。泥濘に足を取られた直後、さらなる泥沼へと突き飛ばされるようなものだ。まるで不運という名の呪術が、二重三重に施された有り様ではないか。
外界から隔離されるほどの第一級接触禁忌種とは、一体何者なのか。何故今に至るまでその正体が語られないのか。不可思議な沈黙だった。現段階で判明しているのは、それが公衆に隠蔽された危険生物であるという一点のみ。彼との対話の中に、それ以上の核心が零れ落ちる気配は微塵もなかった。既に内部接触は果たされている。それは、かねてより第一級接触禁忌種とやらと対峙していたことを意味していた。一体どの存在がその禁忌に該当するのか。不可解な謎に苦悩するが、それがこの場に迷い込んだ当初の謎と表裏一体であるのだと、直感的に理解した。
それに加え、何故僕はこの禁足地へ迷い込んだのか。あまつさえ監視を掻い潜り、その危険生物とやらに接触できたのは何故か。これこそが最大の論点だった。そこには明白な、恣意的悪意が漂っている。けれども、だとしたら一体誰がこの状況を仕組んだというのか。正体が見えぬがゆえに、思考の連鎖が止まらない。
目覚めて以来、絶え間ない熟慮の反芻に脳を酷使し、前頭野を休める暇も碌になかった。眼前に答えを知り得る男がいる以上、直接問うのが最短の道だ。自力での解決という孤高の意思を貫徹したい自負はある。しかし、心身共に底を突いた現状でその矜持を押し通すのは現実的ではなかった。
止むを得ず、僕は決意を一つ固めた。重く停頓した思考の流れに到頭痺れを切らしたのである。半ば自暴自棄に男へ答え合わせを求めた。闇雲な決断は深淵へ向けて石を投じるに等しい行為だが、これ以上の難航には耐えられなかった。常闇の瓦礫を縫って疾駆する一縷の光を摑むため。僕は矜持を捨て、普段ならば絶対に口にしない敗北の弁を男へ投げつけた。




