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Apricot's Brethren  作者: 七種 智弥
序章:混沌に帰す者——File 01
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File 01:昼中に墜つ白烏(07)-喪失-

 思い掛けない台詞が上手く飲み込めず、返答に間が空いてしまった。


「記憶喪失!? いやいやいや!! 何いきなり面白くもない冗談言ってんですか!?」


 記憶喪失——意表を突くには正に十分なワードだった。

 冗談半分に抜かしているのかと、(やや)食い気味に話の腰を折る。がしかし、彼の面持ちがそうではないと語っているのを見て、頬を垂れる冷や汗の感触を覚えた。


 否定的かつ断定的に論破したかった。少々物々しくないかとも思った。

 けれど、【起床前どころか就寝前の記憶全てがごっそり抜けている】という異常事態は、彼の言う通り明らかに可笑しいのである。まるで穴が開いたかのように、起きる前の記憶がない。【読書愛好家】【一和命(にのまえかずのり)作品の愛読者】などと、そんな噴飯物の情報しか脳裏に浮かばない。通常なら有り得ないのに、だ。


「お前という人物を今一度、証明できるか? 年齢でも職業でも出身地でも、何でもいい。何か一つだけでも、思い出せることはあるか?」


 様々な脳の引き出しを巡回し、自身を構築する情報のあまりの乏しさに改めて喫驚(きっきょう)する。僕という人物を証明する材料が、全く整わない。あまりにも的確に図星を指すものだから、当然彼に反論の声を上げるなどできなかった。

 一種の記憶として、「二人の兄妹がいる」と声高に宣言したかった。家族構成くらいは覚えているぞと、細やかな反抗心があった。だが、より深く思い返せば、その目顔が黒く塗り潰されたように想起できない為体(ていたらく)。彼らの人物像すら思い出せない——つまり完全に記憶が欠損している証拠だ。


 記憶として全く成立しない断片的情報に踊らされ、気抜けする僕。男は更に畳み掛ける。それは実に明確に、正確で。かつ、出会った直後から収集した材料を見せ付けるかの如く紡がれた、克明な言葉。


「常識や知識、起床後の記憶が十分残っている。ってことは、意味記憶は保持されたままエピソード記憶が障害された、【逆向性健忘】と考えるのが、(およ)そ妥当だろう。その様子じゃ、自分の名前すら思い出せないと推察するが……。もしや図星か?」


 そう、名前だ。現状僕は自分の名前すら思い出せない。自分自身が何者であるかを証明できない。そして悲しいかな手ぶら——身分証明書など持ち合わせていないときた。

 ただの迷子なら良かった、ただの夢なら良かった。こんなもの、完全な詰みというやつではないか。今正しく胸の内では、「私は誰? ここはどこ?」という、あの(わざ)とらしい記憶の欠落を生じている。


——僕は、これからどうすれば——


 お先真っ暗とは正にこのこと。不本意ながらも、住居侵入罪を犯したお尋ね者になってしまった挙句、記憶喪失で何も証言できない。こんな状況下で助けてくれる物好きな人間など、誰一人としていないだろう。気持ち的には、いっそマスメディアにでも出演したいものだ。「私が何者か、誰か教えてください」とでも、民衆全体に協力を仰ぎたいところだった。だが、抑々(そもそも)犯罪者の分際で、そんなことができるはずもない。


 絶念を前にして膝から(くずお)れる、そんな折。それを目にした男が希望をちらつかせたのは、何かの予兆だったのかもしれない。


「お前が見付けた紙、それに何か書いてあるんじゃねえのか?」


 そうか! 紙、紙だ!!

 男の示唆に首を(もた)げた直後、不意に握り締めていた紙切れの存在に目を落とす。彼から声を掛けられる直前、帯紙から取り外した四つ折りの用紙。帯紙そのものはぐちゃぐちゃになってしまったものの、小さな紙切れだけは綺麗に左手の中に収まっている。

 そうだ。見付けた当初は、これが何か重大性を秘めたものだと予測していたではないか。これが何かの足掛かりになるかもしれないと、胸躍っていたではないか。

 輝きを取り戻した眼で期待を膨らませ、少々興奮気味ながらも「中身を確認したい」と申し出る。僕の物凄い剣幕に男は若干引いているが、そんなことはお構いなしだ。


「あのこれ! この書籍の帯の裏に付いてたんですけど、貴方が仕込んだ訳じゃないですよね……?」


「確かにそりゃ俺の私物だが、そんな仕込みを入れたのは俺じゃない。……と、言うより、何だそのぐちゃぐちゃの帯はよ。その本(それ)をまだ読んでない俺に対する、新手の嫌がらせか?」


「いやいや違いますよ! これは、その、いきなり声を掛けられて手元が狂ったというか、事故なので。とにかく、許して下さい!! で、これ! これが『何故僕がこの場所に迷い込んでしまったのか』という理由に繋がるヒントになるかもしれないんです! 開けても、いいですか——?」


「分かった分かった。それ、開いてみろ」


「あっ! はい!!」


 彼の所有物の一部をぐちゃぐちゃにしてしまった罪悪感で、若干声のトーンが低くなる。それでもやはり、綺麗に折り畳まれたメモ用紙に書き込まれた内容が、当初所期した目標ではないかと。そう考えると、自然と声音は大きくなる。きっとこれは、【自分の正体を指し示すもの】や【それに準ずるもの】に違いない。

 男は、こちらの白熱した勢いに気圧されたのか、嫌味を吐いて口を尖らせていた仏頂面(ぶっちょうづら)を渋々整える。そして、次は興奮した馬を宥めるかの如く、僕に両手をどうどうと振った。

 遂に、中を開いてみる。すると、そこには——。

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