07)崩壊するレミニセンス
思いがけない台詞が巧く飲み込めず、返答に間が空いてしまった。僕と男との二者間に、緊迫した無音が満ちる。その静けさの中で、心臓の音だけが絶えず鳴り響いていた。血潮を滾らせ全身を駆け巡る拍動は、鼓膜を震わせるほどに大きく煩わしい。
「笑えない冗談はやめてください。まさか僕を安っぽいミステリーの主人公にでも仕立て上げるつもりですか? 記憶喪失だなんて、そんな都合の良い欠落が許されるほど、僕の人生は高尚にできていない。今の僕は、情報の整理を怠った不器用な迷子に過ぎませんよ。深刻なレッテルを貼って、この滑稽な状況に意味を持たせようとするのは、いっそ残酷な冗談だ。話をそこまで大袈裟にするのはやめてもらえますか?」
記憶喪失——それは僕の意表を突くには十分過ぎるワードだった。冗談を言うなと食い気味に遮ったものの、男の厳かな面持ちが真実を物語っている。頬を伝う冷や汗は、凜冽な氷柱が肌を滑り落ちるかのように冷たかった。掌に滲む汗が心臓の鼓動に呼応して熱を帯び、指先から一筋ずつ雫が滴り落ちる。同時に背筋を駆け上がる悪寒は、脊髄を貫いて全身の毛穴を一斉に開かせた。
否定的かつ断定的に論破したかった。だが、就寝前の記憶までもが失われている異常は、彼の指摘通り明らかに可笑しい。起床前の記憶には、穴が開いたような空白が広がるのみ。脳裏を掠めるのは【読書家】【一和命の愛読者】といった噴飯物の断片的情報だけ。通常であれば、これほど徹底した欠落など有り得るはずがないのに。
脳内を巡る思考の回路は、驚くほど滑らかに稼働している。高度な語彙、論理的な推論、文明的な常識。それらは、どれもが総て完璧に整備された図書館の書架のように、整然と存在している。しかし、最も重要な【図書カード】だけが消失しているのだ。誰が、いつ、どこでその知識を僕に授けたのか。母の呼び声、父の背中、幼少期の土の匂い。人格の核となるべき湿り気のある記憶だけが、何故だかブラックホールに呑み込まれたかのように、一切の光を放たず沈黙している。無機的な知性の存命、有機的な経験の欠落。歪なまでのコントラストこそが、今の僕という存在の正体だった。
「さて、お前という【実存】を証明できるか? 年齢、肩書き、泥に塗れた出身、何でもいい。その空っぽの脳味噌から、一つでもマシな真実を絞り出してみろ。それともお前の履歴書は白紙がデフォルトか?」
僕の記憶の欠陥を明確に追求した男は、細い溜息を漏らす。長い指が額を覆い、眉間に刻まれた皺を揉み解した。男の表情は小難しく、懊悩を隠し切れない。次いで彼は口元を一文字に引き結び、沈黙を貫いた。記憶喪失を認められず僕が黙秘に甘んじる間に、数分が空費される。男はさらに深く長い息を吐き、双肩を静かに上下させる。そのまま緩慢な仕種で左右に首を振ると、煩塁を帯びた眼差しをこちらへ向けた。粛然としたその一連の所作は、僕の煮え切らない言動を深く咎める間接的な非難に他ならなかった。
脳内の引き出しを巡回する。だが、僕という存在を構築する情報は途轍もないほど空虚だった。男の推測はあまりに図星だ。反論の声を上げるなどできるはずもない。喉の奥に生煮えの苦汁がへばりつき、不快な風味が内臓を蝕む。言い訳を捨て、僕はその屈辱的な苦さをただただ飲み下した。
二人の兄妹。その記憶を盾に反抗したかった。家族構成くらいなら覚えていると声高に宣言したかった。けれども、深追いすれば肝心の彼ら二人の目顔は黒く塗り潰され、形をなさない。完全な記憶の欠損。そんな為体だ。断片的情報に踊らされていた事実に、僕は力なく気抜けする。
男はさらに畳みかける。それは邂逅からのわずかな時間で収集された、あまりに克明な言葉の羅列だった。現実から目を背ける僕の胸中を見透かしたその声は重い玄翁と化して、僕が抱いていた脆い幻想を尽く打ち砕いていく。
「常識や知恵、目覚めてからの短い記憶。神はお前に最低限の道具箱だけを残して、肝心の物語を総て焼き払っちまったらしい。学者的な言い方をすりゃ典型的な【逆行性健忘】ってやつだ。自分の名前すら霧の中って訳か。とんだ傑作じゃねえか。鏡に映った自分が誰だか分からねえってのは、一体どんな気分だ? ……おいおい、そんな面すんじゃねえ。まるで図星って面じゃねえか、相棒?」
名前すら分からない。身分を証明する手段もない。文字通りの手ぶら。迷子ならばまだしも、これは完全な【詰み】だ。僕の脳内では「私は誰? ここはどこ?」という、使い古された芝居染みたフレーズが、無情にも現実として反響している。
彼は僕の狼狽振りを、まるで顕微鏡で未知の微生物を覗き込むような、冷徹な好奇心を湛えた目で見詰めていた。彼の視線は僕の顔を通り越し、僕の語彙、呼吸の乱れ、あるいは指先の微細な痙攣から、僕という個体の素性を抽出しているように見えた。彼にとって僕の混乱は悲劇ではなく、単なる観測データに過ぎない。理知的な眼差しに射竦められる度、自分が剥製師の手元で解体されるのを待つ標本になったような錯覚に陥った。
「氏名、年齢、社会的な役割にルーツまで……。公的な記号が総て消失している。皮肉な話ですね。自己証明の手段すら持たないなんて、幽霊と何ら大差ないじゃないか。あーあ、可笑しいな。論理的に考えれば詰みだ。僕はこれからどこへ向かえばいい? 僕に、僕にこれからどうしろって言うんだ……っ?」
前途多難どころか、お先真っ暗だ。住居侵入の咎を背負い、記憶すらも失ったお尋ね者。証言の術はどこにもない。こんな救いようのない人間に、救いの手を差し伸べる物好きな人間など、どこを探してもいるはずがなかった。公開捜索でも仰ぎたい気分だ。けれども、犯罪者の分際でそんな真似ができるはずもない。最初の一頁から過去も未来も綴られない、総ての物語が白紙と化した真新な日記帳。空虚な書物となり果てた圧倒的空白を前にして、僕は呆気なく膝から頽れるのだった。
檳榔子黒のファーラグに埋もれる膝は、重力に抗う術もなくその重みに身を委ねている。木理の縺れ合う杉綾模様に組まれた床板の冷たさが、膝頭から全身へ伝播していく。だが、その冷感すら今の僕には最早どうでもよかった。
黒曜石を磨き上げた硝子天板は、何も映さず虚無を湛えている。それは記憶を失った僕の脳そのもののようだった。二進も三進もいかない状況下で、僕は「どうすればいいんだ」と思わず何度も頭を掻き乱す。
男は溜息混じりに呟いた。「お通夜は終わりだ。腐りかけの脳味噌回して、逆転の糸口を絞り出せ」と。 巨浪に飲まれ、海底へ沈む船のように地べたに跪く。そんな僕を一瞥し、男は水平線に幻の陸地をちらつかせた。それは希望を偽る蜃気楼か、絶望を照らす虹の橋か。暗い海に揺蕩う漂流者を導く灯台の炎は、いずれにせよ僕の行く末を左右する唯一の標に違いはなかった。
「お前が拾った紙切れ。そいつにお前の面を拝むより価値のある何かが書き連ねてあるんじゃねえのか?」
「え、……あ。……あっ!!」
そうか! 紙、紙だ!!
男の示唆に首を擡げた直後、不意に左手の中にある紙切れに目を落とした。彼から声をかけられる前、帯紙から抜き取った四つ折りの用紙。帯紙は無残に潰れてしまったものの、小さな紙切れだけは、多少の皺を除けば奇跡のように綺麗なまま掌に収まっていた。そうだ。この紙切れを見つけた当初、僕はその重大性を予感していたはず。何らかの足がかりになると、胸を躍らせていた記憶が鮮明に蘇る。
輝きを取り戻した瞳で期待を募らせ、僕は「中身を確認したい」と高揚気味に申し出た。頽れた膝を立て直す余裕すら惜しみ、僕は床を這うような無様な格好のまま、彼の方へと膝で行を進めた。檳榔子黒のファーラグを膝頭で乱し、男の方へ向けズリズリと這い寄る。その姿は、端から見れば正体不明の不審者が獲物に縋りつこうとする怪異そのものだったであろう。充足感に突き動かされるまま無意識に躙り寄ると、男は嫌悪を露わにしながら気圧されたように一歩後退りした。
「あの、これを見て頂けますか。装丁の帯の裏に、こんな付随物が忍ばせてあったんですけど……。まさか、貴方のような合理的思考の持ち主が、僕の浅はかな洞察を試すために小細工を施した、なんて悪趣味な冗談ではないですよね?」
拳から取り出したメモと帯紙を見せると、男は鋭利な眼差しを僕の顔から手元へ滑らせ、不愉快そうに眉根を寄せた。忌々しげな舌打ちを一つ吐き、皺が寄り不格好に歪んだ帯紙を指差す。
「確かにそれは俺の蔵書だ。だが、そんな三流の細工で読者を驚かせる趣味は生憎と持ち合わせてない。……それより見ろよ、帯の無惨に荒れ果てた様を。未読の俺に、真っ先にゴミを拝ませようって寸法か? だとしたら最高に気が利いてるぜ、クソッタレ」
男はそこまで吐き捨てると、不意に言葉を切り、剥き出しの殺意に近い純粋な熱量を瞳に宿した。彼の視線は、僕の指先が触れているメモの端へと突き刺さる。
「それだけじゃねえ。俺が不愉快なのは、紙切れそのものだ。俺の部屋、俺の蔵書、俺の未踏の聖域に、どこの馬の骨とも知れねえ奴が指を差し入れ、汚らわしい栞を挟み込んだ。その事実に反吐が出る。お前か? それともお前をここに送り込んだ別の野郎か? 俺の所有物に断りもなく毒を盛りやがったのは、どこのどいつだって聞いてるんだ」
彼の返事を聞き終えるや否や、僕は慌てて両手を広げ、誤解を解こうと言葉を費やした。その時の僕の眼は、獰猛な獣の前に晒された仔鹿のように必死に命乞いの色を映していただろう。
「心外です! 僕がこれっぽっちの悪意を抱くために、どれほど無駄なコストを支払うと思っているんですか? これはいきなり声をかけられたことによる、手元の演算ミス……いわば不運なアクシデントです。それにメモの存在だって、当初僕は認識していなかった。そんな冷ややかな視線はよしてくださいよ。……それよりも見てほしいんです、これです! 僕がこの不条理な空間に迷い込んだ謎を解く、唯一の鍵かもしれない。……開けてもいいですよね? いえ、開けさせてください!」
僕の切実な訴えに男は黙止し、しばし思案に耽った。その面差しには、諦念と苛立ちが綯い交ぜになった、複雑な色が浮かんでいた。やがて、男は観念したかのように深く嘆息し、わずかに顎をしゃくった。言葉を交わすことすら億劫だと言わんばかりの所作。僕はその無言の承諾に安堵し、震える手で備忘録をそっと撫でた。
「あっ、はい! じゃあ、開けますよ!!」
男の所有物を損ねた罪悪感から、声のトーンが沈む。しかし、この端正に折り畳まれたメモこそが、当初所期した目標ではないのか。そう確信した瞬間、期待に突き動かされるように声音が自然と上擦った。きっとこれは僕の正体、あるいはそれに連なる真実を指し示すものに違いない。その確信が鼻腔を満たした。古紙と洋墨の匂いは、欠落した記憶と融合し、甘く懐かしい香りと化す。それは遠い過去の情景を呼び覚ます予兆のようだった。
男はこちらの白熱した勢いに気合負けしたのか、不満げな仏頂面を渋々ながらも整える。そして次は、昂ぶる馬を宥めるかのように両手を低く翳して僕を制した。
指先に触れる紙の感触は、驚くほど無機質で、それでいてひどく重々しい。四つ折りにされたその境界線には、僕の全存在を定義し直す劇薬が封じ込められている——不確かな妄想が、指先の震えを一層加速させる。カサリ、と乾いた音色が静寂を裂いた。耳を劈く鼓動の合間に響く摩擦音は、まるで僕の運命が軋む音のようでもあった。薄い障壁を一枚捲るごとに、僕は【何者でもない空虚】から【何者か】へと変貌を遂げてしまう。そんな不可逆的変化に対する根源的恐怖が、期待という名の甘い毒に混じり、喉の奥を熱く焼き焦がした。
息を凝らし、ついにメモを開く。潘朶羅の箱を開けるかのように心拍が直走る。脂汗に滲む指先で紙の端を摘んだ。視線がその内側へ滑り込んだ瞬間、そこに記されていたものは——。




