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杏の血脈のクオ・ヴァディス  作者: 七種智弥
Act 01:混沌に帰す者/Code 01:昼中に墜つ白烏
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06)露呈するウィークネス

 釈明に耳を傾けながら、男は(しき)りに顎を撫で、もう一方の手で漆黒の(なめ)し革に打たれた銀灰色の鋲を規則的になぞっている。時折、低い声で「ふむ」「なるほど」と相槌を打ち、かすかに頷くその様は、言葉の真偽を深く吟味しているようだった。黒曜石の座卓に反射する淡い光が、思索に(ふけ)る男の機微を映し出す。こちらの言説一つ一つを精査する沈黙の中、檳榔子黒(びんろうじぐろ)のファーラグの上で二つの影が静かに溶け合った。


 突拍子もなく信憑性に欠ける話。彼はそれを遮らなかった。「有り得ない」と一蹴することも、「疑わしい」と差し出口を挟むことも、彼にとって容易なことだったはずである。にも(かかわ)らず、彼はわざわざ真摯に向き合ってくれた。沈黙を遵守し、直向(ひたむ)きに耳を傾けてくれたのだ。彼の理知的な配慮には、偏に感謝してもし切れない。


 どうせ取り合ってもらえないだろうと愛想なく(ねじ)けていた心持ちが、おもむろに解けていく。多少なりとも信用してもらえたという温情は、乾き切った土壌に降る慈雨のようであった。心臓から指先の末端まで脈々と伝わるその温かさは、凍てついた世界を融解して、僕の心を優しく揉み解していく。


 だが、もう一人の僕が囁く。そんな旨い話があるものか、と。せっかく芽生えた希望は、瞬く間に蹂躙される。不審者を容易く信じる人間などいるはずがないだろう。安易に心を開くな。安直な油断を拒絶するかのように、脳裏では警鐘がけたたましく鳴り響いていた。そうだ。錯覚してはならない。あくまでこれは腹の探り合い。彼は味方ではなく、無機質な問者として職責を全うしているに過ぎない。信頼関係など介在しない、尋問者と答弁者という事務的な構図。それこそ、今の僕達を形容するに最も相応しい言葉だ。無論、そこに新たな信頼が芽生える余地はない。尋問と回答。その機械的な連鎖こそが、二人を繋ぐ(すべ)てであるがゆえに。


 初対面の年下をあえて挑発し、刺激を煽る。それは、年齢の壁を崩すための周到な計算だったのか。今となっては判じ難いが、彼は驚くほど鮮やかにこちらの緊張を解し、接しやすい空気を作り上げている。その完璧なまでの立ち回りに、疑念を抱かない方が無理というものだろう。


 いずれにせよ、距離を詰める術に長けた男だ。恐らく彼は、極端な二面性を自在に使い(こな)している。それは多重人格のように複数人格が潜む異質さではなく、親愛と畏怖という相反する性質の共存。それらが瞬時に、かつ鮮やかに変転する。それこそが彼に潜在する本質であり、最も警戒すべき異質性なのだ。幼馴染のような親愛と、拷問吏(ごうもんり)のような冷酷。彼はその両極を使い分け、僕から情報を暴いていく。脳裏に焼き付いた獣の片鱗。それを一顧すれば、今の穏やかな振る舞いさえも恐ろしい企みの一部に見えてならなかった。


 だからこそ、安易に心を開いてはならない。出会って間もない彼を、短時間で信頼するなどもっての外。これは巧妙な印象操作かもしれないのだ。そんな疑念が渦巻く中、悠長に親交を深めている猶予などどこにもない。僕は再び理性の鎧を固め直した。


 もしかすると僕はとんでもない男を目前にしているのではないか。そんな戦慄すら胸の内を支配する。これまでの一挙一動や思考回路に関連する回答を残らず強要され、語ったもの(すべ)てを犯罪心理分析(プロファイリング)される。この窮地は、さながら断頭台に立ち刑執行の瞬間を待つ死刑囚の心地に等しかった。息苦しさに喘ぐ肺腑と、冷や汗が滴る掌。口内に広がる鉄と土の入り混じった血の味は、五臓六腑に染み渡る恐怖の蘞味(えぐみ)へと移り変わる。食道を焼くほど塩辛いその死の予感は、執拗に舌の上へと(まと)わりついた。


 拳を握り締め背を正す僕とは対照的に、男はソファに深く身を預けている。左の膝上でリズムを刻んでいた右足。それが静かに解かれると、彼は緩慢な動作で口元に人差し指を立て、沈黙を促した。僕を射抜く瞳は、真相を渇望する無垢なビー玉のようにどこまでも透き通っている。


「驚天動地の真っ最中に悪いが、仕事だ。今の話をタイムラインの最後尾から順に逆再生して聞かせてくれ。台本の裏を読み合わせるのが俺の趣味でね。さあ巻いていこうか」


 ありのままの事象を語り終えた僕に、男は要求を突きつけた。それは(はな)から僕を疑っていた、という証跡に他ならない。温情や信頼などという幻想が微塵も存在しなかった事実を、残酷なまでに露呈させていた。白色の外界を拒む、蠟色(ろういろ)のダマスク柄の遮光カーテン。隙間から朝焼けがわずかに差し込む薄闇の中、僕の表情にはより深く暗い影が落ちていた。


 彼の中に初対面の者を信じる厚情があるのでは、という細やかな希望。警戒されつつも詳述だけは届くはずだ、という浅はかな臆見。それら(すべ)てが、今見事に打ち砕かれたのだ。


 信用し切る手前で喚起した警告が間に合った。ゆえに奈落の底まで突き落とされることはなかった。しかし、胸の奥にはどろりとした(むな)しさが居座っている。理屈では分かっていても、胸に(わだかま)る虚無感は何をもってしても埋め合わせることはできなかった。


「何だ。最初から信じるつもりなんて、ないじゃないか」


 滑稽だ。男は最初から【不信】という結論を懐に忍ばせていたのだ。これまでの対話は単なる無益な余興に過ぎなかったのだと、意図せず悲憤が滴り落ちる。宛て先のない独白。消え入りそうな嘆き。だが、男はその片言隻句すらも決して聞き逃しはしなかった。


「耳を貸すのはタダだがその先は有料だ。いいか、坊や。お前の吐く言葉が真実かどうか、俺には興味がない。俺が知りたいのは、その【真実】に俺を納得させるだけの価値があるか、それだけだ。最初から全部信じて欲しけりゃ、もっとマシな脚本を用意してくることだな」


 迷いなく真実を射抜くのは、彼にとって自明のことであった。大人しく聞き入る姿勢は、発言の真偽を見定めるための布石だった。手の込んだ罠ではない。単なる常套手段。ただそれだけのことだったのだ。


 凍てついた大地で温もりを欲する旅人のように、どこかで彼に人並みの優しさを求めていた。だが、そんな期待は無駄だった。淡い希望が砕け、僕の青息は冬の木の葉のごとく震える。甘言に釣られぬように、生半可な楽観は(すべ)て排除せねばならない。自らの甘さと決別すべく、僕は拳を固く握り締めた。


 自身の思惑を外れた彼の反応に、多少の落胆はした。しかし懸念はない。彼の望む答えは容易に出せる。その自信があった。僕は嘘をついていない。彼が疑う空音などこれまでの釈明に何一つとして含まれていないのだ。天まで届く書架が薄闇に巨大な陰影を落とし、二人のやり取りを無言のまま見下ろしている。その威容は、部屋自体が審問の場であると告げているかのようだった。静まり返る室内で、僕の吐息だけが小刻みに(おのの)いている。


 一、目覚めた時、記憶のないまま見知らぬ場所へ迷い込んでいた。

 二、脱出を試みるも、開錠不能な鍵によって幽閉されていた。

 三、書架から小説家・一和命(にのまえかずのり)の本を発見。これにより、元の世界軸との合致、及び言語の共通性を確信した。

 四、そして今、その本の装丁に仕組まれた謎を解き明かしている最中であった。


 確かに、急拵(きゅうごしら)えの作り話ならば「時系列を順序逆転せよ」との突飛な注文に襤褸(ぼろ)が出ただろう。逆唱など、嘘つきには最も酷な注文だ。けれど僕は違う。混乱の中も状況把握のため幾度となく思考を研磨し、現状を徹底的に分析してきた。事実の把握なくして、推論など成り立たない。順序逆転の供述? 結構。時系列の反転など、単なる記号の並べ替え。推論を極めてきた僕にとって、そんなものはお安い御用だった。


 脳内に展開された記憶のアーカイブを、末尾から順にソートする。感情という不純物を排し、事象を無機質な項として羅列していく作業。それは僕にとって、呼吸よりも馴染み深い思考のプロトコルだった。 「……四、装丁に仕組まれた謎の解明手前。三、書架にて一和命(にのまえかずのり)の著作を確認。二、施錠された扉による物理的な隔離。一、見知らぬ空間での覚醒。零——」。淀みなく逆順に。僕は己の記憶を情報として解体し、再構築してみせる。そこに一切の矛盾は許されない。論理こそ、この不条理な空間において僕を形作る唯一の拠りどころなのだから。


「これほど淀みなく逆唱を並べ立てられるってこたァ、二つに一つだろうな。神に誓った【真実(ホンモノ)】か、あるいは入念に調整された【虚偽(デタラメ)】か。だがお前の(つら)を拝んでた限りじゃあ、表情筋の引き攣りも、視線の泳ぎも、耳障りな声の上擦りも、一切ナシだ。心臓のドラムもまるでお昼寝中みたいに静かにしてやがる。この状況でこれだけ真っ白(クリーン)だっていうなら、嘘をついてる公算は……限りなくゼロに近い。そうだろ相棒?」


 逆唱を完遂した僕に、男は満足げな笑みを浮かべた。彼は心理学の専門知を備えているのか、僕の一挙手一投足を余さず分析している。安定した言動が身を救ったのだと理解はしたが、一点不可解なのは心拍の把握だ。直接脈を取られた覚えはない。まさか超聴覚で聞き取っているのか、と考えたところで僕はその馬鹿げた推測を一刀両断に切り捨てた。


「嘘じゃない、と叫ぶのは容易いことです。だけど、今の僕に信を置く合理的理由なんてどこにもない。語れば語るほど自分の言葉が嘘に聞こえてくる。滑稽な話ですよ。こんな奇天烈な供述、信じる方がどうかしてるでしょ?」


 誰がこの信憑性のない与太話を信じてくれるというのか。甘い期待など最早捨て去っていた。僕は諦めに似た口調で、ただただ事実を言い捨てる。


 すると男は口角を吊り上げ、にんまりと北叟笑(ほくそえ)んだ。伏せられた瞼が緩慢に持ち上がると、白百合の睫毛がかすかに震え、紅蓮の双眼が露わになる。その強烈な眼光は、緊張に揺れ動く僕の瞳を絡め取って離さない。蜘蛛の巣にかかった蝶のごとく、視線から逃れることは敵わなかった。瑰麗(かいれい)な男はじっと僕を見澄ました後に、僕の吹っ切れた態度にいかにも得心した様子で言葉を継いだ。


「ほう。この短時間で(ケツ)(まく)ることなく、事態を合理的に咀嚼してみせるとはな。優等生様のお手本のような立ち回りだ。いいだろう。お前のその【お伽話】とやらが真実という前提で、このクソッタレなダンスを続けてやろうじゃないか」


 何が彼の信用に足る要素となったのか。満足な理解には至らないが、どうにかこの場は収めてもらえたらしい。少なくとも男の顔色から攻撃性が消え失せたことに内心安堵する。暴風雨の後に漂う安息の匂い。それは一時的な安全を告げ、僕の全身を弛緩させる。白状すれば気が気ではなかった。つい先ほどまで、彼の瞳には獲物を仕留めんと息を潜める獣の害意が宿っていたのだから。


「ま、主旨は飲み込んだ。お前が自分の吐いた言葉に薄ら寒い違和感を覚えてるって点もな。だがそのご立派な証言には、吐き気がするほどデカい穴が開いてるぜ。目覚めてから今に至るまでの経緯はなるほど精密機械みたいに完璧だ。だがよ、それ以前の履歴が綺麗さっぱり抜け落ちてやがる。その【真っ白な過去】こそが、お前という存在が抱えた最大の欠陥だ。違うか?」


「どういう、意味です……?」


「ああ、確かに俺が注文したのは【お前がここに突っ立ってる理屈の全容】だよ。だがな、俺が本当に知りたかったのは別の階層の話だ。何だってお前の脳味噌はそうも派手に短絡(ショート)しちまってるのか、何だって自己同一性(アイデンティティ)という名の履歴書すらまともに音読できねえのか。そのクソみてえな根本的原因が知りたかったのさ」


「説明を省いた訳じゃない……。僕は、起きたことの全てを話しましたよ」


「ああそうだろうな。お前のその【完璧なリストアップ】には、確かに嘘偽りも意図的な省略もねえ。だが致命的な違和感に気づかなかったか? お前の逆唱は、いつだって【一、見知らぬ空間での覚醒】で急停止してやがる。その前段階、物語の起点となる()に関しては影も形も見当たらねえのさ」


「それは、目覚めてからの経緯を話せと言われたからで……」


 反論を試みる。しかし、その言葉が喉の奥で氷のように固まった。逆唱のタイムラインをさらに一歩、過去へと遡ろうとする。しかし、僕の精緻な論理回路が参照すべき起点はどこを探しても見当たらない。目覚める一秒前。昨日。そのさらに前。僕が僕として存在していたはずの膨大なログが、まるで最初から書き込まれていない空白のハードディスクのように空虚な静寂を保っている。


「お前の言う【合理的な状況把握】とやらは、土台のねえ砂上の楼閣って訳だ。目覚める前の記憶が()()()()()()()()()なんてレベルじゃねえ。お前の理知的な脳味噌は、あえてその暗黒面(ダークサイド)から目を逸らし続けてやがったのさ。お前自身狸寝入りを決め込めるほど器用でもなく、隠し事ができるほど狡猾でもねえってことは、ここまで見てりゃ分かることだ。となると答えは一つに絞られる」


 課題を完遂した安堵も束の間。男の口から飛び出したあまりに突飛な単語は、流石の僕も予想だにしないものであった。


「——脳味噌が空っぽなんだろ、記憶喪失さんよ?」

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