File 04:背理に抗う天秤(11)-代償-
「――お父さん……お母さん……?」
僕の背後からぺたぺたと床を鳴らして現れたのは、襤褸衣を纏った裸足の少女――三渡家の娘子であった。彼らがもう助からないことは明白であるのに、その呼び声は途切れ途切れで儚げながら、幾度となく父母を求めている。
侵蝕者は彼女の存在に気付いているのかいないのか分からないが、未だ二親の内臓を食い荒らすばかり。遺体の腹部にぎっちりと詰まっていた腸が食み出して、床一面が二人分の消化器部位で溢れ返る。噎せ返るような生々しい鮮血の臭いに、鼻が麻痺しそうだった。
近寄った末に漸く二人の死を正面から受け止めたのであろう。少女は壊れた人形の如く「お父さん、お母さん」と同じ語句を反復していく。悍ましい情景に臆することなく、両親に向けて覚束無い足取りで歩みを進める彼女の眼には、とうに侵蝕者の姿など映っていないのかもしれない。
「……お、お嬢さん。それ以上近付いちゃ危ないよ……?」
胃の内容物を吐き切ってなおも胃酸が込み上げる。ひくつく口端から垂れる唾液を拭い、息を弾ませながら僕は彼女を引き止めた。飽くまで、未だ被害者達を貪る敵手にバレないよう小さなトーンで。いつ侵蝕者が後ろを振り向き、少女に攻撃の魔手を仕掛けてくるかも分からない、そんな肝が縮む一時。彼女の行動は自殺行為そのものであった。
しかし懸命に近寄るなと説得する声すら届かないのか、少女の歩みは留まることを知らない。遂に両親を殺害した相手と肩を並べて遺体に縋り付くと、彼女は泥のような血に塗れることを厭うことなく、か弱く嘔吐いた。
異形の魔物に恐れることも、惨状を呈する光景に怖気付くこともしない少女の心は、最早壊れてしまっていたのであろう。
少女の隣で、遺体の中からブチブチと何か千切るように臓物を荒らしている侵蝕者が、不意に両手を掲げる。「何をしているんだ?」と敵対視を続けつつも半ば不思議に見遣れば、その手にあるのは彼ら両親だったものの心臓であった。胸の内を反吐が出るくらいの嫌悪感が支配すると共に、そんなもの摘出して一体何をするつもりかと疑心を抱く。すると、異形のそれは薄ぼんやりとした笑みを浮かべながら「これが君を攻撃しない本当の両親だ」と言わんばかりに少女にそれを手渡したのである。
倫理を逸脱した行為に僕は思わずカッとなるが、少女は実親の残骸とも言えるその臓器を丁寧に受け取る。健気にそれらを掻き抱く姿は、見るに忍びないものであった。
「ハチ、敵前で何をぼやっとしてる? 早く始末しろ。然もなくば対象が逃げるぞ」
いつの間にか背後に佇んでいたレンさんが色のない声で命じる。――そうだ。この悪魔の如き所業を為す人類の天敵を逸早く粛清しなければ。そう使命感のようなものに突き動かされるようにして、隠していた鉤爪を表出させる。
しかし脳の隙間に僅かな違和感が残った。いつからだ? いつからレンさんは後ろにいた? いつから彼はこの惨劇を目の当たりにしながらその悪魔的行為を黙殺していたんだ? 恐る恐る振り返りながら疑問符を浮かべる僕。その表情の真意を悟ったレンさんが無情に告げた。「奴の討伐を自分に任せろと言ったのは、誰でもなくお前自身だろう?」と。つまり、最後に手を下すのは僕の役割で、他の三人はそれを補佐することはあれど、決定打となる一撃は与えないよう意図的に動いていたということだ。
確かに思い返して見れば、僕以外の三人が、対象を仕留める隙はいくらでもあった。三人が態と止めを刺さず、最低限の補佐的な動きに留めていたのは、昨日僕の放った「止めは自分で刺す」という発言に基づいた、主力攻撃作戦だったからだ。僕の決意を配慮してのことだったのだが、しかしそれを不意にしたのは、紛れもなく僕の判断力と技量の欠如に他ならない。己の不甲斐なさに打ち拉がれる。決してこんな結末を迎える予定ではなかったのに、と。
死者を出すという屈辱感や敗北感を身を以て学ぶ。否、学ばされたのだろう。一切の疑いもなくそう考えられるのは、僕が考えるより真実というものが残酷であることをどことなく理解しているから。
討伐任務において、最優先事項は飽くまで目標の抹殺。遂行内容に人命救助は含まれず、救助活動については現場担当の者が判断する。――ルカさんの座学で耳に胼胝ができるほど教わった、軍における共通テーマ。だからこそ、敢えて新人の実地任務に、協力という名の手を貸すことなく、見す見す死者を出した。新人教育の礎として、死者が生まれることを許容したのだ。
僕の教育云々など関係なく被害者を助けてくれれば良かったのに、なんて恨み言を言える立場でもない。しかし、目の前で人の死を刮目するという経験を早いうちからさせて置いた方が良いかもしれない、という歪な優しさなんて、求めてはいなかった。教育のために被害者の命すら犠牲にするとは、倫理観の欠片もないではないか。彼らの大きく欠如した道徳心を前にして、本来あるべき道徳意識が軍隊においては不要な品なのだろうかと、思わず窮する。




