File 04:背理に抗う天秤(09)-潜伏-
日を改めた翌日の夜。
三渡家を護衛するにあたって、僕達は家を挟むように二手に別れ、各々正面玄関と裏口玄関を監視する。僕とレンさん二人で正面玄関を、ルカさんとティムさんは裏口玄関を、睨め付けるように凝視していた。
巧みに宵闇に紛れる侵蝕者を遠方の森林から木々の隙間を縫って探すのは中々骨が折れそうだが、先んじて見付けなければ三渡家に待っているのは凄惨な死と残された者の悲哀のみである。最悪の事態だけは何としても避けなければならない。その一心で僕は黒洞々たる常闇を一望する。
三渡家を訪問したあの日、父親の柊司に面詰され家を追い出されたあの日。あの後家の中から玄関戸を通り越して聞こえて来たのは、やはり軍人の前に姿を現すという失態を犯した実娘に浴びせる罵声の数々であった。二の矢三の矢を継いで娘の釈明を遮蔽した声音からは、怒髪冠を衝く父親の姿が容易に想像できる。弱々しかった娘の慟哭は着々と音色を増長し、「これからは良い子にするから、怒らないでお父さん!」と張り上げる悲痛な叫びでさえ、ついぞ父の心に届くことはなかった。張り手を噛ましたであろう破裂音が、悲鳴にも等しい娘の主張を掻き消してしまったからである。
少し離れた位置から「父親に暴力を振るわれたか」と、苦い面持ちで三渡家の門戸をじっと見詰めている僕達第一部隊の予想とは裏腹に、母親らしき女性の金切り声があっという間に玄関という空間を支配した。「どうしてそんなにお父さんの言うことが聞けないの!? いつまで経ってもあんたがそんなだから、お母さんまでお父さんに殴られる! もう勘弁して頂戴!!」と暴力夫から娘を庇い立てする訳でもなく、単に自己防衛のためにヒステリーを起こす母親の咆哮が波及していく。その様子から母性の欠片を感じることはままならない。きっと少女を叩き破裂音を引き起こした張本人も、彼女であろう。恐らく、日常茶飯事とされる暴力から逃れるための、彼女のこういった言動が、一度や二度で済まされないことも明白であった。
扉越しに聞こえてくる会話からすれば、確かに彼女自三渡柊司の被害者の一人ではあるが、実際は実の娘に手を上げた加害者でもある。今後侵蝕者の犯行対象にされて然るべき行動を取ってしまっている母親も、護衛の手が及ばなければ、その命はまず助からない。
ここまでを切り取って見れば父親たる三渡柊司だけが悪者に見えるが、彼が勤める企業内におけるその為人を調べれば、部下だった者達に地位を追い抜かれては粗雑に扱われる、万年課長と化した姿があった。自宅近隣の村人を見下すほどに高い矜持を持っている彼だからこそ、昇進が見込めない立場に置かれている状況に幾度も地団駄を踏んだことであろう。長年勤めた会社で梲の上がらない日常を送る中、蓄積された鬱憤の捌け口として向いた矛先が、家族。
言ってしまえば、彼も幾ら努力しても自己を承認されない社会における一人の被害者なのかもしれない。否、中々昇進しない彼を小馬鹿にする周囲の人間達と、彼らに爪弾きにされた社会の被害者と言える。
複雑に縺れた毛糸のように、拗れきった関係性を築く三渡一家。
実らない努力を嘲笑する社会の被害者たる父親。その気晴らしの標的となった母娘――そして自己防衛を完成させるために娘の庇護を捨て去って娘に手を上げる母親と、両親の愛情を只管に求めて全てを甘受する娘。無情にも、真の被害者たる娘を除いて、二人の被害者は命を落とす危険性に曝される。
誰も求めちゃいないド三流のシナリオ。決して完成させてはいけない一つの物語。
森の中から三渡の家屋を見渡す。眼前にある木々や葉々の輪郭すら漆黒におぼめく暗闇の中から、侵蝕者の姿を発見するだなんて、無理に等しい。無茶とは知りながらも、諦めもせずに、鉛のように重い闇夜を見詰める。ただいつもよりも夜目の効いた僕の目には、全ての骨格さえ滲んでいく黒一色の隙間から、冴え冴えとした月明かりに照らされるその姿が明確に写った。
「いた……」
侵蝕者である。紛うことなく、月光をその身に纏った侵蝕者が、ありありと水晶体に焼き付いた。その後ろ姿を見失うまいと。矯めつ眇めつ眺めんとばかりに、当該者に向けてじりじりと上下左右に身体を動かす。僕に発見されているとも知らないその異形は、立ち歩いているのかすら怪しい骨格で、ゆらりゆらりと目的の場所へと躙り寄っていく。犯行現場に何かを引き摺った轍があったのは、侵蝕者が体を引き摺って行動していた形跡なのだと合点がいった。
咄嗟に口をついて出た小さな言葉にレンさんは鋭敏に反応する。「方位は」と単調に尋ねるレンさんに「ここから北北東、でしょうか? えと、あっち、あっちです!」と指を指して、宵闇の中を蠢く人類の宿敵の居場所を示す。僕の示した方向を向いて「お手柄だ」と鼻を鳴らすレンさんは、侵蝕者討伐に向けて動き出す準備を整えた。
「ティム。俺が出すレーザーポインターを追え。その先に奴がいる」
「……ちょ、え?」
思わずレンさんの居る後方を振り返る。レーザーポインターなんてそんな至極明晰な方法で相手の位置を明示したら、相手側も照準を絞られていることに勘付いて悪い方向にことが運んでしまうではないか。当然の懸案事項が先立ち、懐に無線を仕舞いながらポインターを出したレンさんの行動を制止しようとするが――。
「あれ、――見え、ない……?」
そう。ポインターの光線が一筋も見えないのだ。通常ならば赤なり緑なりの斑点が浮き出るように目に入るはずのそれが、全く以て見えない。レンさんともあろう人間が、誤って電池切れの器具を用意するという線は薄い。電力不足による光源の弱化が根元にあれば、点滅した光が顕著に現れるはず。故に、その類いが原因とも考え難い。ならば、何を根拠にポインターを追えと彼は部下達に指示したのか。
そんな疑問を払拭すべく、もう一度目を凝らして薄らと見えたのは、仄暗い黒にも似た微かな赤い一閃。「何だこれは?」と光の筋の先を追い駆ければ、その先には先ほど見付けた侵蝕者の姿がある。これがレンさんの言っているポインターの光なのだとしたら、随分と見えにくい代物を準備したものだ。ある意味関心していると、レンさんは光の正体を解説してくれた。
「通常緑色レーザー光が532ナノメートル、赤色レーザー光が635或いは650ナノメートルの波長を示す。555ナノメートルが最も人間の目が捉えやすい波長とされているものの、どれも可視光のため人間の視覚に捕捉される光線に違いはない。だが、今俺が発しているポインターの波長は約800ナノメートルでな。一般に【赤外線】と呼ばれるもので、一般人の可視光線である波長の380~780ナノメートルから逸脱したものであるが故に、通常人には視覚的な捕捉は難しいものとなる」
「つまり、視力が秀でた人種にしか見えない光……ってことですか」
「その通り。現状視覚情報に特化した人種は俺とティムの二人。二人を分断して正面と裏口それぞれの玄関を見張るよう配置すれば、位置情報の共有は滞りなく済むってことだ」
赤外線――人間の目では補足できぬ光。にも拘らず、僕の目には確とそれが写っている。何故かは不明だが、この目は通常の人間と異なる世界を見ているらしい。
一般人と比較して大幅に増強された治癒能力に加えて、視覚の特化が見られている。それは正しく、自分が人間という枠組みから外れた存在として確立されていくような、そんな感覚があった。
「その赤外線とやらがどうやら僕にも見えるみたいなんですけど、これって一体どういうことなんでしょうか? 薄暗く赤い微かな光線が、レンさんの手元から侵蝕者を結び付けている一筋が、正に赤外線、ってことで間違いないですよね……?」
「――は?」
レンさんが絶句すると共に僕に振り向く。然も「何故お前にそんな能力があるんだ」と言いたげな緊迫感であったが、僕としても「何故自分にこんな能力が備わっているのか」と声高に尋ねたいところであった。




