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杏の血脈のクオ・ヴァディス  作者: 七種智弥
Act 01:混沌に帰す者/Code 01:昼中に墜つ白烏
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05)透徹するインクワイア

 意趣返しを遂げ、満悦の笑みを浮かべるはずの算段は崩れた。渾身の軽口は男の端正な(かんばせ)を揺るがすことさえできなかった。喜怒哀楽のいずれを映そうとも、彼のその目鼻立ちは醜く乱れることなく常に秀麗を保っている。どこまでも美しく、完璧な造形。感情の波を一切寄せ付けぬ鉄壁の均衡を誇る輪郭。その事実が何だか無性に癪に障った。


 だが、過度の刺激は禁物だと、本能が警鐘を鳴らしていた。吹きつける木枯らしのような寒々しい気配が、ふと胸中を横切る。それはまさに、この先に待ち受ける破滅的な予感そのものであった。行き過ぎた放言を悔やんだところで、最早口から出た言葉を戻す術はない。これ以上は取り返しのつかぬ事態を招く。さもなくば致命的な災厄に見舞われるだろうという、いわゆる【虫の知らせ】が脳裏を(よぎ)ったのである。


「見上げた度胸だ。ビビり倒してた臆病風を一体どこへ隠しやがったんだ? 途端に太々(ふてぶて)しくなりやがって、一流の詐欺師(トリックスター)でも気取ってんのかね? その変わり身の速さだけなら、地獄のオーディションで満点合格だ。だが気に食わねえな。その癪に障る(つら)の造形、少しばかり組み替えてやりたくなった。鉛弾でもブチ込んで、すぐにでも黙らせてやろうか? お前がどの(つら)下げて冥土へ行くのか、今すぐ試してやるのも一興だよなあ?」


 古くからの(ことわざ)、【触らぬ神に祟りなし】。全くよく言ったものである。古代人が残したその警句は、今この瞬間の僕にとって抗いようのない真理として君臨していた。


 戯言が口をついた瞬間、室内の空気は凝固し、並び立つ数多の書籍は一斉に息を潜めた。男の放つ凄烈な気配が(ページ)の隙間を駆け巡り、革装の表紙がわずかに反る。背表紙へと刻み込まれた文字には険悪な殺気さえ充溢(じゅういつ)し、知識の砦が今にも崩落せんとするほど切迫感が立ち込めていた。


 これ以上(いたずら)揶揄(からか)えば、彼の機嫌を致命的に損なうだろう。そんな僕の第六感は、一概に間違いではなかった。静まり返った書庫の空気が、その正しさを冷酷に証明している。


 星屑のごとき銀の鋲が(ちりば)められた、漆黒の革製カウチソファ。男の左手がその(ふち)を摑み、みしりと音を立てる。強靭な指が本革に食い込み、手の甲には青い血管が険しく浮き立つ。剥き出しの鬱憤。その指先一つ一つに、爆発寸前の衝動が凝縮されていた。


 機嫌を損なう程度では済まない。彼から立ち上る攻撃的な気配に、僕は本能的な危機感を覚えていた。男が二の句を継ごうと唇を開く度、その奥に覗く鋭い牙に身構えてしまう。肉食獣と草食獣。抗いようのない捕食関係。もし一度でも牙を剥かれれば、脆弱な僕など一息に屠られるだろう。その切迫した緊張感こそが、彼の本質的な危うさであった。


「いやいや、ちょっと落ち着きましょうよ」


 凝固した空気を溶かそうと、僕はあえておどけた調子で手を振った。引き攣った笑みを浮かべつつも、必死に言葉の盾を並べ、己の正当性を主張するための防壁構築を試みる。


「僕の言葉なんて一時(いっとき)過誤(エラー)、取るに足りない雑音(ノイズ)みたいなものです。そんなものに一々殺意を注いでいたら、それこそ人類根絶やしのディストピア一直線じゃないですか」


 しかし、男の顔に浮かぶ不快感は、僕の軽口を養分にしてさらに膨れ上がった。瞳の奥に宿る熱量が、僕の姑息な冗談を容易に焼き払う。彼は一歩、また一歩と、逃げ場のない距離まで踏み込んできた。


「さっきからよく回る舌だな。全く、反吐が出るほどのインテリ小僧だ。初対面で悠長に読書を決め込むってのも、良い度胸だぜ。他人の根城を自分のクソッタレな私有地か何かと勘違いしてやがる。その厚顔無恥なリラックス振りには、いっそ乾杯したくなるほどだ」


「うっ……。そ、れに関しては、ぐうの音も、出ない……っ!」


 正論という名の(つぶて)を浴びて、僕は喉を詰まらせた。先ほどまでの流麗な言い分は霧散し、肺腑には冷たい汗が流れ込む。男は僕の目の前で止まると、獲物の喉元を検分する肉食獣のような眼差しで僕を見下ろした。


「そんなに本が恋しいなら、来世を待たず今すぐ紙魚(しみ)にでもなり下がりな。大好きな活字の洋墨(インク)を主食にして、死ぬまで(かび)臭い書庫の中でクソでも垂れ流してりゃいいさ。最高の余生だろ? ああ?」


 耳元で放たれたその恫喝は、まるで呪詛のような熱を帯びていた。暴力的なまでの秀麗さを誇る彼の横顔が、すぐ近くに迫っている。均整の取れた横顔に、見惚れる余裕は微塵もなかった。僕を支配していたのは甘い憧憬などではなく、むしろ呼吸を奪われるような強烈な圧迫感——すなわち、徹底的な威圧であった。


「……勘弁してくださいよ」


 僕は辛うじてそれだけを絞り出し、絶対的捕食者の前でただ身を竦ませるしかなかった。


 男との邂逅を思い返す。あの時の僕は確かに圧倒されていた。喉は締めつけられ、言葉は肺腑の奥底に沈殿し、舌が(もつ)れ、口籠もるしかない歯痒さに甘んじていた。ここに至るまで賢明な選択を重ねてきたからこそ、今回も賢明であるべきだった。初対面の人間から侮蔑の洗礼を浴びようとも、平然と受け流し毅然としていればよかったのだ。それができなかったのは、偏に僕の未熟ゆえ。反抗の奔流は決壊した水門から溢れ出す濁流となって、気づけば信じ難い勢いで喉を駆け抜けていた。一度火がついた爆発的な勢力を堰き止めるなど、土台無理な話だった。


 鋭利な舌鋒が男の顔を掠めた瞬間。その表情がわずかに引き攣ったのを、僕の目は確実に捉えていた。僕の饒舌が彼に突きつけたのは——。泥沼から這い上がる腐敗した濁水(だくすい)が、新鮮な空気を汚染する腐臭を放つ嫌悪。甘美な蜜を装う毒の果実が、不意打ちとばかりに苦味と酸味と渋味を残す驚駭(きょうがい)。そして皮膚を這う無数の棘が、肌を粟立たせて全身を痙攣させる余憤であった。


 複雑に絡み合う感情を持て余したのか、男は気散じとばかりに書棚に向け視線を投げた。「乳臭いガキが熱を上げるようなお伽話は、ここには一冊も置いてねえんだがな」と呟く声が、静まり返った部屋に冷たく響く。結局彼は怒りに任せた暴挙に出ることなく、眉間に縦皺(たてじわ)を刻む程度に留めてくれた。それは最悪の事態から僕を遠ざける、幸運な救済措置であった。首の皮一枚繋がった。僕はそう密かに確信した。


 実際、L字のカウチソファに沈み込む僕の心臓は、しばらく震えが止むことはなかった。だが、事なきを得た安堵を告げるかのように、小洒落た室内に満ちていた場違いな戦慄は、既に雲散霧消している。逆立っていた絨毯の毛足が枝垂れ、萎れていた観葉植物の枝葉が横溢(おういつ)した活力を取り戻す。存在しないはずの梢が囁いていた窓の外も、今では元通り寂然とした不気味さを湛えていた。


 男は険しい表情で息をつくと、未だソファに座る僕の隣へどっかと腰を下ろして長い足を組んだ。これまでの言葉遊びを尊大に、かつ鷹揚(おうよう)に清算してやる。そんな傲慢な宣言を伴って。


「まあいい。お望み通り、今回の無作法については、クソ溜めにでも流して綺麗さっぱり忘れてやるよ。だが肝に銘じておけ。これまでのお前の放言全てが免責される訳じゃない、ってことをな。一度切った領収書はいつか必ずその身で精算してもらう。たっぷりとな」


 お咎めは一旦保留された。しかし、この一連の茶番の最中にあってもなお、本筋を解き明かそうとする彼の態勢に揺るぎはない。獲物を逃すまいとするその炯眼は、まさに蛇だ。望む回答を引き出すまで決して標的を離さない、暗晦(あんかい)たる執着がそこにはあった。


 さながら【蛇に睨まれた蛙】のようだ。僕は【玉桂の子(プエル・ルナエ)】の第二巻を抱き身を竦ませた。言葉遣いを、振る舞いを、今一度改めなければ。小細工など何一つとして通用しないのだ。これからは何事も、一片の虚飾なく、誠実に彼の問いへ応じる。それ以外に道はなかった。


「一つ、取引といこうか。この安っぽい学芸会の幕を、誰の返り血も浴びず下ろしてやるための……とびきり真っ白(クリーン)な条件だ」


 それ見たことか。諧謔(かいぎゃく)を弄した清算(ツケ)はハードな条件(オプション)付きで支払わされる、ということだ。気まぐれな許しなど、(はな)から期待すべきではなかったのである。


「聖母も呆れるほどの不法侵入だ。おめでとう。この禁域に足跡を残した栄誉ある第一号として、お前には特別な権利をやろう。そう、説明の義務だ。俺が知りたいのは、単純な論理(ロジック)さ。一体どんな神の気まぐれが、お前をこの場所へと導いたのか。その詳細な【因果関係】を話してもらいたい」


 十全な警備の布陣に余程の自信があるらしい。僕の存在を理解の範疇を超えた異常事象と捉えながらも、男はただ冷静につぶさな状況説明を求める。まるで堅牢な要塞を統べる城主が、不埒な賊を眺めるあの傲慢な視線。それと酷似している。焦燥もなく、ただ興味深げにこちらの動機を値踏みする。しかし、玻璃のごとく透徹した柘榴石の瞳だけは騙せない。そこには全面に押し出された不審の念が色濃く沈殿していた。


 ただ、事の次第を把握するのは容易だった。彼は家主、僕は不審者。十中八九その認識で間違いない。事情を知らない彼から見れば、僕は不法侵入を侵した不審人物でしか有り得なかった。言い訳の余地などどこにも存在しない。思考の終着点はあまりにシンプルで救いがなかった。


 邂逅の直後から、男は強大な猜疑と些少な憤懣を宿した眼光を放っていた。不審者相手に獣のごとく威嚇するのは当然だが、これほどの余裕は一体どこから来るのか。その疑問は、右腿のレッグホルスターに収まる黒い拳銃を見た瞬間氷解した。自身の腕への絶対的自信。問いを完結するにはそれで十分だった。男の自信が本物なら僕の身も危ういのだが、今はその懸念を思考の隅へ押しやっておく。これは世辞にも好ましいとは言えない最悪のエンカウントだ。長きに渡り封じられていた地獄の窯。その錆びついた(ふた)が重々しく軋みながら開く瞬間に等しかった。


 男の内に燃え盛る疑いの炎を消し去るには、真実という名の冷水を即座に注がねばならない。今すぐ、一刻の猶予もなく。僕に課せられた唯一の回答。それは、この異常な状況に対する説明義務を一片の滞りなく果たすことであった。


「弁明に先立って、一つだけ合意を得ておきたいんですけど……。幸か不幸か、僕の精神は()()()()()で、論理も()()()()()しています。……これから語る【事実】をただの狂言として切り捨てないための前提として、まずはそれを受け入れて頂けますか?」


「笑わせんな。最高にキマった(つら)で『神様』なんて電波飛ばしてきたガキが、今さらどの口で抜かしてやがる。お前の脳内お花畑じゃ、整合性って言葉は辞書に載ってねえのか?」


「あの『神様』って台詞、記憶から抹消してくれませんか? あれは脳のバグ、あるいは不可避な詐欺の(たぐい)ですよ。あんな審美的な不意打ちを食らったんだ。僕の方こそ被害者(づら)したい気分なんですからね」


「どこのどいつが被害者だって? ま、お前の妄想につき合うくらいは構わない。出鱈目な嘘八百じゃなけりゃ、耳の穴かっぽじって聞いてやるさ。詳細は細かければ細かいほど良い。解像度百パーセントの真実ってやつを、俺に配達してくれよ? な?」


 背凭(せもた)れから上体を起こし、膝の上で手を組む。(いささ)傲岸(ごうがん)な男のその構えは、しかし対話に応じる意思の現れであった。僕を射抜く彼の眼差しには、真剣な色が宿っている。


 ただし、その真摯な仮面は仮初(かりそ)めに過ぎない。仮面の裏から覗く研ぎ澄まされた視線は、深淵へと沈み込み、瞳孔をかすかに散開させる。(まなじり)は鋭く吊り上がり、瞼はわずかに吊り下がる。瞼の奥、眼窩(がんか)の暗がりには、峻厳な訓戒と冷酷な脅威が渾然一体となり渦巻いていた。獲物を捉える猛禽のごとき威圧。一縷の光も見えぬ閉塞感が、重く、冷たく、伸しかかる。男の唇は不敵な弧を描き、戦慄を誘う笑みを湛えていた。だが、そこにあるのは欺瞞(ぎまん)を許さぬ無慈悲な宣告だ。くだらぬ嘘は死を意味する。言外の恫喝が鋭い刃となって僕を追い詰めていた。


 拳銃を一瞥する。下手を打てば殺される、という事態を想定に組み入れた。僕は、順序立てて事の顛末を弁疏(べんそ)し始める。語るべき発端は一時間前。ベッドの上で目覚めた、あの刺激的な瞬間から——。

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