File 04:背理に抗う天秤(05)-酷遇-
深山家から五十メートルほど離れた場所に位置するのが、奥方二人が言う、隣人の筧家邸宅。彼女ら二人は道案内を終えると、日も傾く頃合いに気付き「夕飯の買い物があるから私達はここまでね」と立ち去って行く。黄昏時の夕日に向かって歩き出す女性二人の影が細く延びて、そしてふっと消えて行った。
現場検証に来ただけのはずが、深山家の家庭環境に関する情報を持つ女性二人との遭遇を経ただけでなく、予期せぬ隣人――筧家から新情報を得るチャンスを目前するという好機に恵まれた。問題児二人を抱える両親の素顔とは一体どういったものなのか。興味本位ではあったが、一連の事件の犠牲者に関する重大な情報が得られる機会かもしれないと、気も漫ろになる。
部隊の筆頭に立つレンさんが、筧家のインターホンを鳴らす。ピンポーンと極ありきたりな音色が反響する家の中で、奥の方から「はーい」と明るげな声が返ってくる。
ガラリと引き戸を開けて出てきたのは、四十代半ばの女性。目元に薄ら隈を拵えた女性からは、何か言い知れぬ疲れが見て取れる。前触れもなく現れた黒づくめのガスマスクを着けた四人組。それらを目前にして、当然彼女は一瞬「ヒッ」と小さな悲鳴を上げたが、レンさんが先んじて自己紹介することで女性の混乱は免れた。
「第三師管区総司令部の者です。この度は先日亡くなったお隣の深山さんの件でお話を伺いに来ました」
そう告げると、筧婦人は眉根を顰めた。まるで関わり合いになりたくないと言わんばかりの表情は、両家の間にいざこざがあったからこそのものと推測できるが、既に死亡した一家にまで根深い因縁を感じている様に、少しばかりの違和感を覚える。
人間の心情の機微に鋭敏に反応するのが得意なレンさんは、彼女の醸す不協和音に気付きながらも、らしくなく深山家について言及した。
「深山さんの家の前で、ご近所の奥方二名からお話を伺いまして。筧さんが深山さんの隣人であり、かつ筧さんのお宅のお子さんと深山家のご息女が幼馴染の関係にあると聞き及んでいます。ひいては何か深山家に関する詳細な情報など分かれば……」
「帰ってください」
突然の門前払い、レンさんは「やはりな」とでも言いたげに溜め息を吐いた。僕はレンさんが筧さんにとって何か失礼な発言をしただろうか、と言葉を振り返ってみるが、引っ掛かる点はどこにも思い当たらない。となれば、これはきっと深山家と筧家の間にある確執が原因なんだと薄ら予見し得た。
決して良好とは言い難い両者の関係を慮りつつも、相次ぐ猟奇的殺人の犯人解明に少しでも力添えできないかと、僕が横を割って申し出る。すると彼女は激昂したようにヒステリックを起こした。
「あんな奴ら、死んで当然なのよ!!」
温和だった表情が一気に鬼の形相に早変わりする。人の死を悼むでもなく、死んで当然と広言する姿勢は、正に嫌悪を体現していた。それほどまでの冷遇を、それほどまでの脅威を、あの家族から受けて来たのだろう。彼女の地雷を踏んだ――そう一瞬にして理解するほどの豹変であった。
がしかし、こちらとて貴重な情報源をみすみす逃す訳にもいかない。何とか筧さんの怒りを鎮め、落ち着いて会話ができるようなムードを取り持つことはできないかと一人画策する中、背後から現れた少女の声に、状況は一変する。
「お母さん、落ち着いて」
「波沙……!!」
少女――波沙の登場により緊迫した雰囲気が霧散する。波沙は近隣の高校の制服を纏っているものの、怪我をしているのか、ギプスをした左足を庇うようにして両脇に松葉杖を挟んでいた。ゆっくりと僕達へ近づいて来る動作は、酷く緩慢だ。
レンさんが彼女に改めて自らが軍の者であることと深山家について近隣住民に事情聴取中であることを伝えると、少女は諦観した瞳で「ああ」と静かに頷いた。
「――私は深山紫の幼馴染、筧波沙。紫との関係性は良好とは言えない。見ての通り、先週階段の踊り場から突き落とされてこの有り様だからね。紫は校内一有名な虐めの主犯格で、私は彼女に虐められてる側の人間って訳」
淡々と語る波沙という少女は、壮絶な虐めに傷付くことすら諦めた仄暗い眼をしていた。教科書を切り裂かれることも、体操着を泥水の中に沈められることも、上靴の中に大量の画鋲を仕込まれることも、どれもこれもいつものことだと。トイレの個室でバケツの水を打ち撒けられるなんてまだ優しい方だ。男子の前で下着姿になるよう脅され、四方八方からカメラで撮影される――なんて陵辱的な辱しめを受けることもざらにあったらしい。
ただ、心配性の母親にバレたくない一心で、只管被害の痕跡を隠してはいたものの、段々とエスカレートするそれを隠し切れる訳もなく。遂に母親に問い質された間際に、波沙は全てを吐露することとなった。無論激怒した母は、波沙を連れて深山家の両親に直接抗議したが、そこで繰り広げられる光景は目を背けたくなるほど醜悪な、深山夫妻の一面であった。
『紫! 来い!!』
深山の父親はそう怒鳴りながら実娘を呼び付けると、何と姿を現した彼女の顔面を突然拳で殴り付けたのだった。へたり込む紫を他所に、頭髪を鷲掴みにして『玄関に座れ!』と引き摺り指示した後は、彼女の後頭部を掴んで床に額を叩きつける始末。
『この度はお宅の大事な娘さんを傷付けてしまい、大変申し訳ございませんでした! ほら、お前も謝るんだよ!!』
ガツンガツンと何度も床に顔面を叩き付けられ、凄まじい勢いで鼻血を噴き出している紫は最早失神寸前だ。微かに謝罪の一声を上げる頃には、息も絶え絶えであった。虐待――それがこの家で行われている日常なのだと、筧親子は瞬時に理解した。
『そ、そこまでしなくても、謝罪の一言と今後同じことを繰り返さないという反省をして頂く約束だけで、私達は十分ですから……!!』
眼前で予期せず展開された暴行に辟易ろぐ筧婦人は、これ以上痛め付けられる紫を直視していられなかったと言う。相手は実娘を容赦なく痛め付けた他人の娘であるというのに、それにも拘らず目の前で繰り広げられる一方的な暴力を制止するよう声を荒げない訳にはいかなかった。
漸く父親の腕から解放された紫は、逃げるようにその場を立ち去ろうとする。だが、先刻までの惨たらしい暴行を横目にしていた母親が、紫の進路を立ち塞ぐようにして、ダァンと大きな音を響かせながら壁に手を着く。『夕飯の用意と洗濯は、……忘れてないわよね? 昨日出し損ねたゴミも、来週中にきちんと出せなかったら承知しないからね?』と追撃する様は、まるで家事の全てを実子である紫に押し付けているかのような発言だ。掠れ切った声音で『分かってる』と了承の返事を口にする紫の後ろ姿に、いつも波沙を甚振る虐めっ子らしさはない。寧ろ両親に従順に従う奴隷のような立ち居振る舞いに、虐められている身の上である波沙でさえ、紫に同情心が芽生えた。父親は暴力、母親はネグレクト。それが深山夫妻の本性を表した姿であった。
筧婦人が彼らを嫌悪する理由そのものは、単純に実娘を痛め付けられた憤怒と共に、平然と自らの実子を傷付ける両親に人間性を感じさせない恐怖を感じたことが原因であろう。故に口から飛び出たのが「あんな奴ら、死んで当然なのよ!!」なのだ。自身とは掛け離れた価値観を持つ家族に、まるで人間ではない者を前にしたような怖さを、彼女は犇々と感じていたに違いない。話を聞いている身の僕ですら、信じられない話にゾッとしたのだから。




