04)発火するコンフリクト
「——えっ、……え?」
室内を満たす葡萄柚や橙の芳香が、前触れもなく増大したような感覚へ陥る。耳馴染みのない声の登場と共に、馥郁とした柑橘の香りが肺腑一杯に吸い込まれた。
朝焼けの光芒を浴びた柚子が弾けるように清澄なトップノートは、しかし一瞬の欺瞞に過ぎなかった。澄んだ香気が鼻腔を麻痺させた直後、本質が露わになる。血腥いほど重厚で暴力的なベースノート。それは泥濘のような重層的質量と化し、僕の肺胞を埋め尽くす。乾燥した血錆と、冷却した火薬、幾多の死線を越えてきた軍靴の硬質な皮革が、獣染みた残り香を発している。
俗塵を払い除けるはずの純粋な香りは、その奥に潜む【戦場の記憶】を際立たせるための残酷な引き立て役でしかなかった。清冽を象るトップノートと破壊を象るベースノート。決して混じり合うことのない不協和は、夢と現実の狭間を漂う安息を一転させる。逃げ場のない殺気に満ちた現実へ、僕の意識を強引に繋留するには、十分過ぎるギャップだった。
「何が『え?』だ。救いようのないおめでてえ面拝ませやがって、胸糞悪いったらねえな。脳味噌に黴でも生えてんのか? ……いいか? 耳の穴かっぽじってよく聴けクソッタレ。三流映画の端役みてえな間抜け面はいいから、さっさと質問の答えを吐き出しな。お前は『どこのどいつだ?』って聞いてんだよ」
ソファから恐る恐る視線を投げた先。声の発信源に立っていたのは、六フィートを優に超すワイシャツ姿の長身漢だった。その威容を網膜に焼きつけた瞬間、語彙は消失し、喉の奥に言葉がへばりつく。僕は、咄嗟に手中にあった唯一の重み——先ほどまで耽読していた一和命の【玉桂の子】を、生命線であるかのように胸元へ抱き寄せた。革装の硬質な冷たさが、震える指先を辛うじて現実へと繋ぎ止める。
無論、不意打ちのごとく登場した男そのものに驚愕し、言葉を失ったことは確かである。だが、あまりに神々しい彼の形貌を目にしたがゆえに、呆然と魂を窃取されてしまったと表現した方がより的を射ている。耽美な容姿を前に、意識が白く空けていたのである。
「……神さま?」
まるで白子のように色素を欠いた、白金の地髪と真紅の虹彩。カーテンの隙間から差す日の目を浴びて、一際煌びやかに映えるその姿は、人ならざる異質な美を色濃く象徴していた。特殊極まる色彩は、彼が常人とはかけ離れた特別な存在だと決定づけるに十二分の説得力を備えていた。
異彩を放つその明眸は、不服を隠そうともせず辛辣に歪んでいる。強大な威圧感を纏い、彼はただ座り込む僕に無言で柳眉を逆立てていた。露悪的な不愉快さを丸出しにする態度と、神仏と見紛うほどに端正な容貌は、圧倒的乖離を見せつける。両極端な要素が一点に同居している様は、あまりにチグハグで眩暈すら覚えるほどの矛盾を与えた。
男の容姿に魅入ったか、あるいは気圧されたか。そのどちらもが判然としない。けれど、とある土着信仰に登場する神と酷似した男の姿は、直視を拒むほどに眩しかった。眼前に非現実が具現するのみならず、服を着て立っている。天上の存在を前にした時、市井人はただ口を開けて見上げる以外の術を失くすらしい。
突飛な情報の連鎖に処理が追いつかず、脳内回路はフリーズする。情報過多。処理不能。再起動を必要とするほどの機能不全に陥った思考を置き去りにして、混沌だけが脳を占拠していく。理屈はとうに死に絶え、感情の渦だけが逆巻いていた。
混迷の果てに僕が零したのは、「神様」という幻想を孕んだ呟きである。彼はその言葉を冷ややかに掬い上げ、即座に応酬を返した。それは神聖さなど微塵もない、粗野で乱暴でそして卑俗極まる下劣な一言。幻想を一瞬で粉砕するには十分な威力であった。
「——寝惚けてんのかゴミ野郎」
月長石色の前髪が揺れ、その隙間から玲瓏たる柘榴石の瞳が覗く。男は耿々と輝くその目を訝しげに細めると、人差し指でトントンと顳顬を叩いた。それはまるで、無言のままこちらの頭の調子を嘲るような、不遜で挑発的な仕種だった。
気遣わしげな表情が、却って神経を逆撫でする。前言撤回。こいつが神である訳がない。真の神が、初対面を相手に挨拶もなく突然「ゴミ野郎」と痛罵を吐き捨てたりするものか。そんな低俗な真似、崇高な神の振る舞いとして断じてあってはならぬ。浮世離れした容姿から、低劣な徒輩のごとき言辞が飛び出すとは。その貌と中身の齟齬は、最早悪質な詐欺の類と言っても過言ではない。
確かに、呆気に取られた末の僕の失言は、脈絡を欠いた不真面目な冗談に聞こえたかもしれない。男に誤解されても首肯せざるを得ないだろう。だが、だからといって罵倒して良い理由にはならない。初対面で「ゴミ野郎」と謗られるいわれは毛頭ないのだ。従って僕は決めた。彼に対する期待を即刻破棄すべきだと。神にあるまじき野蛮な言葉を吐く者に、敬意を払う必要など万に一つもない。
男の威圧に辟易ろぎ、弱腰に平謝りを繰り返す。しかし、降り注ぐ罵詈雑言の嵐に額の青筋は隠しようなく浮き上がっていた。沸騰せんばかりの血液が脈管を叩き、その激しい脈動は内側から皮膚を引き裂かんとするほどの圧迫感を伴っている。怒気から生じる震えが、指先から掌へ伝播し、さらには胸へと遡上する。全身が痙攣を来したかのような錯覚。僕はそれを露呈させぬよう、内に荒れ狂う昂りを強引に捩じ伏せた。
「開口一番が神様とは、とんだハッピーセット野郎だ。頭ん中に花畑を飼うのは勝手だが、そいつを公道に撒き散らすのはよしてくれ。三流の薬物をキメた中毒者の世迷い言を聞かされるのは、残念ながら俺の不運リストに入っちゃいない。現世に意識を繋ぎ止める回路さえ焼き切れた異常者の介護は、俺の専門外って訳だ。他を当たりな」
男の皮肉は露骨に毒を増し、その双眸は深山に棲まう山神が下界を睥睨するかのごとく凍てついている。眼差しが雄弁に語るのは、僕の立ち入りを一切許さぬ分厚い氷壁のような拒絶的意思である。
日頃は温厚な人種を自認している。しかし、見ず知らずの男に真正面から慢罵を浴びせられては、その自負も容易に剥落するらしい。腹の奥底に確かな不快感が熱を帯びていく。物言いは不遜。振る舞いは挑発的。度重なる無礼に理性が限界を告げる。僕は脊髄反射で気色ばんでいた。抑え込んだはずの憤怒が、熱を持って頬を染め上げる。
愚弄された屈辱は喉を焼く苦汁へと変容し、味蕾の上で泥と錆の味を撒き散らす。食い縛る歯列が軋む度、赫怒という名の劇物が唾液に溶け出し、内臓をゆっくり蝕んでいった。
心外だ。何故僕が薬物中毒者扱いされなければならないのか。実際、開口一番に「神様」と漏らした行為は正直正気を欠いていた。それは認めよう。だがそこまでだ。連中と混同されるほど、頓珍漢な放言を重ねた覚えはない。中毒者のレッテルはあまりにも不当だと言えた。
蔑まれる理由など心当たりがない。男はただ、溜まった毒を吐き出す場所を求めているだけではないか。突発的な侮辱。それは、彼自身の精神的鬱屈が招いた八つ当たりに過ぎぬのではないか。突拍子のない罵倒の根源を、そう分析せずにはいられなかった。
とは言え、僕とて彼の罵声の嵐を一身に甘受し続ける、打ち捨てられた防波堤ではない。身を砕かんと打ち寄せる荒波を、寛容に受け入れる義理などどこにある? 黙って耐えるなど性に合わない。一方的な侮辱には相応の報いが必要だ。これまでの非礼を存分に叩き返させてもらおうじゃないか。僕は密かに反撃の道を選んだのであった。
寂寥たる帳は剝がれ、無遠慮な男が吐き捨てた言葉の残滓が烈火となって壁を這い回る。足元の絨毯に転がるのは、燃え尽きた激情の煤などではない。赤々と燃え盛る憤怒の蝋燭そのものだ。床板の軋みさえも、今は対立の序曲に聞こえる。僕と彼の間に横たわるのは、今か今かと発火する時を待つ、内なる業火の静かな胎動なのだ。
固く引き結んだ唇を解く。私憤は既に臨界点だった。ここは一つ、意趣晴らしといこう。僕は迷いを捨て、一息に気炎を揚げた。反撃の狼煙は、今ここに上がった。
「そんな訳ないじゃないですか。あーあ、僕の一時の気の迷いでした。この世界にこんな口汚い神様が居るはずなかった。貴方のような野蛮人を、貴重な語彙力を使ってまで神格化しようとした自分自身を呪いたい気分ですよ。全く、本物が知ったら『そんな下劣な輩と一緒にするな!』って叱られちゃうなあ。少なくとも、僕の知る限り、神様というお方は貴方よりもずーっと上品でしたからね、ええ! 『ゴミ野郎』なんていう下劣な語彙は、神の辞書には一頁たりとて存在するはずがないんですよ!!」
確かに会遇当初は、男の放つ峻烈な空気に怯むばかりだった。だが、面識のない相手にここまで蹂躙され続け、平身低頭を貫けるほど、僕の堪忍袋の緒も丈夫ではない。息つく暇も与えず、胸中の総てを叩きつけてやった。
「大体、神様と間違われたことに対して、何故『ゴミ野郎』だなんて酷く罵倒する必要性があるのか。それすら僕には理解できませんけどね。もし初対面の人間がちょっと螺旋の外れた発言をしたのなら、普通は心配の声をかけるなりするのが知性ある生物の振る舞いじゃないですか? 僕自身、自分の発言がちょっと可笑しかったことに気づいていない訳ではないんですよ? ないんですけど、まさかこんな憎まれ口を叩かれるだなんて思いもしないじゃないですか。良かったですね。中身の薄汚さが表に漏れ出さなくて。お陰様でその作り物の神々しさだけは維持できているようですよ?」
「おいおい、流石に聞き捨てならねえな。これは哲学的な論争じゃなくて、もっと原始的な【お誘い】って解釈でいいか? 素手喧嘩で骨の数でも数え合おうって? なるほどね、いいぜ。その安っぽい挑発、纏めて買い取ってやるよ。お釣りはお前の悲鳴で十分だ」
男の提案は素手喧嘩。圧倒的な体格差を背景にした、逃げ場のない武力行使である。彼にとって盤石の優位を約束するその条件は、あまりに一方的な蹂躙宣告に等しかった。拳が掌で爆ぜ、凶暴な音が響き渡る。怪しい笑みを浮かべた威嚇に、室内の空気が一変する。
常識的に考えれば、僕は即座に身を竦ませ慈悲を乞うべきだったのだろう。だが、僕の意識は恐怖よりも男が垂れ流す無礼への反発によって加熱し切っていた。
「先に言葉という武器で暴力を振り翳してきたのはそちらなのに、最早本物の暴力で物事を解決しようとするだなんて。そんな低俗な真似、神様の風上にも置けないですね。ええ、ええ、認めましょう! 貴方は神様などではない。ただの、容姿だけが無駄に整った粗野な暴漢だ! おっと、そうムキにならないでくださいよ。相手はただの若者、貴方は偉大なる空想の産物。格が違い過ぎるというものです。ここは一つ、神様らしい寛大さを演出して総てをザーッと綺麗に清算してくださいな。存在しないはずの神罰を下すよりは賢明なはずでしょう? ささっ、ザーッと——!」
だが、脅しなど通用しない。反論の勢いは増すばかりだ。言葉が言葉を呼び、スラスラと喉を滑り落ちる。ああ言えばこう言う。自分でも驚くほど立て板に水の口振りだ。意思とは無関係に、口が勝手に踊っている。そんな錯覚さえ覚えるほどの痛快な独壇場だった。
抱き締めた【玉桂の子】を盾のように突き出してはいるものの、舌先だけは白い死神を完膚なきまでに論破せんと捲し立てるほど滑らかだ。達者な口振りは、彼の紅い瞳に殺気とも困惑ともつかぬ複雑な光の揺らぎを与えた。
男が忌々しげに舌打ちを漏らす。饒舌になった僕を黙らせるために、彼は一歩前へ足を踏み出そうとした。だが、その強靭な体躯が、まるで目に見えぬ粘着質な空気の壁に阻害されたかのようにわずかな淀みを見せる。ほんの一瞬。けれども彼自身の意思とは裏腹に、肉体が不可視の何かに押し止められるかのごとく動きを鈍らせる。男は少しばかり表情を強張らせ、奇妙な居心地の悪さに眉を寄せた。僕の声が紡ぐ言葉の一節一節が、まるで彼の耳を突き、本能の最深部へ強引に楔を打ち込んでいるかのようだった。
あからさまな苛立ちを露わにしながらも、彼は何故だか僕の言葉を最後まで聞き届けた。男が妙な猶予を僕に与えた理由は、彼自身の寛容などではない。僕の放つ不可解な言論の圧に、彼が反射的な金縛りに遭っていただけだと、後に彼本人の口から聞くことになるのであった。




