表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
杏の血脈のクオ・ヴァディス  作者: 七種智弥
序章:混沌に帰す者——File 03
36/56

File 03:練兵に倣う灰滅(09)-諦念-

 人間相手の征伐行為も許容された社会に、大分陰鬱な気分になる。桐生(きりゅう)氏から下命を拝した瞬間を思い返すと、退路を塞がれたまま、殺人を強要される立場に置かれたも同然だった。故に、心は暗い海の底へと泥む。単純に僕の無知が裏目に出ただけではあるものの、それにしてもあの好々爺の面の下にとんでもない悪魔のような冷血漢が潜んでいるとは誰も思うまい。やはり記憶を喪失した素人同然の一般兵をも無駄にしない思考は、軍部上層に腰を据えるだけの豪胆さと冷徹さがある。


 一度整えた覚悟が虚構であったことに気付き、発言を即時撤回したとて、その言動自体がマイナスに働く可能性も否めなかった。折角築き上げた大尉二名との信頼関係が壊れてしまうかもしれない。「言動が二転三転する【頼りない人間】」という認識を与えてしまったかもしれない。ただ、そう思われたとしても悔いはなかった。本心を胸の奥底に(ひた)隠しにしたまま、只管与えられた任務を全うしていては、いつか必ず精神の限界を迎えていただろうから。僕は誰よりも僕自信に正直でありたかったのだ。


「ハチ。性根の優しい君だからこそ、利他的行動を尊び、利己的行動を厭う。これは当然の帰結です。だってそれが君に根差す【本能】なんですから」


「俺達はお前のその【本能】から来る性質を否定したりはしない。それがハチ自身を形作るための重要な因子であるなら、今正にお前の存在を迎え入れようとする俺達が、全面的に拒む訳にはいかないだろう?」


 この二人はどこまで優しいのだろう。情に満ちた毛布で包み込むような労りを受け、僕は思わず泣いてしまいたくなった。記憶を失くして間もなく、突然「お前は軍人だ」と告げられ激戦区に放り込まれる――そんな絶望しかない環境で、一世一代の覚悟を決めるなど生易しいはずもなかった。縋り付ける相手もいない中、唯一僅かばかりの信頼を寄せてくれた二人の大尉に、藁をも掴む思いで本音を吐いたとしても、冷静に(あしら)われるのがオチだろうとさえ踏んでいた。そう諦観していたはずなのに、ルカさんとティムさんはこともなげに手を差し伸べたのである。

 けれど、同時に分かっていた。どんなに優しい彼らでも、軍部上層に座す桐生(きりゅう)少将閣下が下した辞令を覆すことは敵わない。どんなに僕が腹を括るのを拒んだとしても、発行された任務からは逃れられない。鯔の詰まり、無理にでも覚悟を決める他、道は残されていないのである。


「ルカさん、ティムさん。僕、腹を決めます。『己が危険な目に遭うことは看過できても、他人の生殺与奪の権利まで握りたくない』だなんて、そんな我儘は通用しない。殺るか殺られるかの世界に私情を持ち込めば、きっと最初に殺られるのは間違いなく僕だ。失った記憶の手掛かりを得られないまま死ぬのだけは御免です。だから……」


 ――僕は、僕が生きて目的を果たすためなら、人を殺めることも厭わない――


 自らに与えられた使命を胸に刻み、前を強く見据える。仕方ないんだ、どうしようもないんだと、嫌がる身体を言い聞かせた。万能でない己に、他者を気に掛ける余裕などない。僕は僕のことだけを考えていればいい。否、それしかできないのだから。


 綺麗事を捨てた。綺麗事は僕を生かしてはくれないからだ。

 自分が死なないように足掻いて、生き残るスキルを身に付けるための死に物狂いの努力は承諾していた。頑張り次第で生存確率が上がるなら、何だってしてやるとさえ思っていた。だが、己が生き残る上で、他者を殺める側に回ってしまうかもしれないという可能性に躊躇してはいけない。軍人として生き抜くのならば、道を阻む全てを蹴散らす勢いで敵地を突破せねばならない。


 善悪についての議論を捨てた。善悪は立場により変化する不確定なものだからだ。

 無論、自分の行い全てが正しいものとも限らない。しかしそれは、軍人であろうと一般人であろうと変わりはない。殺傷を下地とした善悪がどちらに傾くか?――これも傷害した側を一概に悪と決めつけるのは筋違いであり、状況を精査すればするほど立場により変容する見方の違いが浮き彫りになる。では軍の執行する善悪と、一人が為す善悪に違いがあるか?――その答えは「規模の違いしかない」である。軍人なら世界の英雄や仇敵になり得るが、一人なら誰かの英雄や仇敵になり得る。結局はそれだけの違いに過ぎない。人生を歩む中で、誰かの助けになったり恨みを買ったりすることなど屡々あるものだ。そう考えれば、善悪など考えるだけ無駄なのである。


 そして、元を辿れば僕も軍人の端くれ。かつて人を殺めてしまうかもしれない覚悟を持ってこの世界に足を踏み入れているのならば、今更殺傷の技術を会得することにまごつくのは不毛だ。記憶を喪失するよりも前に、既にこの手を血に染めている場合、人を殺めたことのない潔白な身とも無事無縁ということになる。とうの昔に軍の命令に基づく殺人自体を犯しているか否かを差し引いたとしても、今後それを行わざるを得ない状況に置かれている点を踏まえれば、これから他者を死に追いやる技術を学ぶ自分の両手は、最早綺麗なものでも何でもない。


「そろそろ、軍事学を、始めましょうか」


 今一度覚悟を決めて、全てを征すべき知識を学ぶべく、僕は二人の講師に目を遣る。僕は軍人、軍に仇為す者は全て排除する。それが侵蝕者(イローダー)であっても、人間であっても。そう心に留めて姿勢を整えると、僕は用意された座席に着席した。

 二人は僕の目付きが確固たる意志を宿したのを見て、首を縦に振る。「この三日間で使用する教材を持ってきます」と一言残してルカさんは姿を消すと、部屋に残ったティムさんがガシガシと僕の頭を掻い撫でた。


「自らの災難を嘆く訳でもなく、無情な道を歩むことを選んだお前に、改めて敬意を」


 暗澹が蜷局(とぐろ)を巻く胸の内を空くように、ティムさんの笑顔から伝わる温もりがじんと染み渡る。言葉では「自分の境遇を受け入れた」だなんていくらでも嘯ける。だが、やはり殺人に加担することを避けたいと叫ぶ心を無視し切れない身体は、少しだけ涙を滲ませた。歔欷(すすりな)きで滲出した水滴を、ばれないように乱暴に拭う。


 暫くして、執務室に戻って来たルカさんが僕の机の上にどさりと夥しい量の資料を乗せた。かなりの重量があったであろう資料達を持ち出したにも拘らず、息一つ乱さないのは日頃の行いの違いだろうか。「これらを三日で習得しますよ」と息巻く姿を見て、「いやいや三日で学ぶ量として常識的じゃないだろう」と僕は内心突っ込むが、上官や先輩の出した課題をそう簡単に断れる訳もなく。持ってきた資料を第一部隊の二人で仕分けていくのを目にして、一日で習得すべき資料の分厚さに思わず鼻白む。

 資料の多さに辟易(たじ)ろぐ僕を物ともせず、ルカさんは机の前にホワイトボードを用意して「早速始めます」とばかりに侵蝕者(イローダー)講義を始めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ