File 03:練兵に倣う灰滅(08)-撤回-
――ぴちょん。濡れた髪の毛先から、一滴の雫が滴った。あまりに澄み切ったその音色が、僕の途切れた声を掻き消していく。気付きたくない事実に気付いてしまった瞬間、「どれほど過酷な戦場であろうと生き抜いてやる」と先ほど芯を立てたばかりの覚悟が脆くも崩れ落ちた。ガラガラと音を立てて瓦解していく様は、何とも無様で滑稽だ。
「馬鹿だな、僕は。身の危険を享受することだけが軍人の覚悟な訳ないじゃないか」
くしゃりと前髪を掻き上げて、自嘲する。対人戦の学習と耳にして、真っ先に結び付いたのは戦争や内戦で役立つ人間相手の戦闘スキル習得。てっきり侵蝕者討伐任務に備えた座学が中心になると誤解していただけあって、K-9sの本質を失念していた。そう、K-9sとは飽くまで特殊精鋭部隊であり、侵蝕者討伐専門部隊ではない。様々な戦場に赴く他の軍兵達と同様、戦争や内戦などの紛争地帯で革新的活躍を期待される立場である。言うなれば、人殺し。任務遂行過程における殺人行為。その行為が上官により許容され、強要される場合もあるということなのだ。
――ああ、何で戦場なんて関わりたくもなかった場所に身を任す羽目になっているのか。僕は己の記憶喪失を心底恨んだ。
先まで確固たる地盤に不動の直立を果たしていた覚悟は、途端に儚く風化していく。生き抜くための術を学ぶべく、知識の沼へ足を踏み入れる――これから幕が上がろうとしていた授業に、威勢良く意気込んでいた活気さえも不意に消散していった。
二人の大尉に向けて「戦地に身を置く覚悟はできている」なんて啖呵を切った手前、「やはり覚悟が不十分だった」と即訂正するのも格好が付かない。けれど、胸の内を巣食う愁苦をそのままにしておけるほど、有耶無耶な心境から目を逸らし続けることもできはしない。どっち付かずで中途半端な空転状態に蹴りを付けるべく、僕は一時の恥と心得て本心を吐露した。
「勘違いを、していました……。軍人に必要とされる覚悟が、危険な戦場に身を置くことを受容する寛容な心構えだと。そして僕自身、己の境遇を納得し受け入れていると。……勘違い、していたんです」
ルカさんとティムさんは、急に一変した態度でぽつぽつと言葉を紡ぐ僕を、心配の色を示しながら見守っている。恐る恐る「……ハチ?」と声を掛けてくるルカさんに、濡れた前髪の隙間を縫ってゆっくり視線を移すと、僕は自らの浅はかさを自供する。
「短絡的に物事を考えるあまり、本質を見失っていたんです。今そのことに気付いて、覚悟なんてできていなかったことを思い知らされた。軍人の覚悟というものの表面的な部分しか見えていなかった。実際はもっと複雑だって言うのに……」
真に伝えたい本心には触れぬまま、迷走しながらも思いの丈を綴っていく。それはまるで要領を得ない言葉なのだが、消えかける決心の炎を絶やさぬよう、必至に繋ぎ止めんと足掻きながら燃え盛る蝋に似ていた。だからこそティムさんは容易く無碍にできなかったのだろう。簡単に理解はできずとも、理解しようとする努力を擲つ理由にはならない。だからこそ「ハチ、何を言いたいのか教えてくれ」と歩み寄ったのだ。
「僕はまだ覚悟できていないんです……。自らが危険に曝されることは許容できても、危険から脱するために他の誰かに危害を与えることは許容できない。さっき一丁前に覚悟できているだなんて豪語しましたけど、結局自分の手を汚すことに耐えられない。軍人としての覚悟って、戦地で危険に曝される恐怖を受容することだけじゃなくって、戦地で敵対する者を手に掛ける恐怖をも受容することが求められているはずなんです。僕には、そんな覚悟……ありません!!」
ここに来るまできちんと認識できていなかったが、これは、如何なる上官命令にも従うという【暗黙の了解に倣うことができるか】を試すための登竜門なのだ。軍に身を置く僕に課せられた、最初の務めであり、そして今後も末永く続く責務。身の安全を脅かされるという表面の恐怖に曝されるだけでなく、殺人を経て自らの手を汚すという裏面の恐怖に侵される。一軍人として要求される本質をそう理解した途端、僕は急に怖じ気付いてしまったのである。
任務における絶対的命令に対して、一縷の拒絶も許されない身。それを受け止めるということは、有り体に言えば、【人を殺めるという倫理を逸脱した道】を歩むことに準拠するに他ならない。求められている役割に思わず苦悶するのは、一人の軍人として生きていく覚悟が、僕にまだ足りなかった証であろう。
些細な矜持をかなぐり捨ててでも、人道から逸れることを「無理だ」「できない」と主張せざるを得なかった。例え意思が受け入れられずとも、誰かに叫んで訴えたい気持ちを押さえ付けることなど、僕には到底できはしなかったのだ。




