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杏の血脈のクオ・ヴァディス  作者: 七種智弥
Act 01:混沌に帰す者/Code 01:昼中に墜つ白烏
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03)震撼するエンカウント

「……ん?」


 十数秒。色を失い無垢に染まった思考を、わずかな時を経て今へと連れ戻す。ようやく世界を俯瞰する余裕を得た、まさにその瞬間。晴れ渡る白景色を貫く何者かの視線が肌を刺した。得体の知れない悪寒が走る。誰かに見られている。直感的にそう悟った。()れた虚空の中に潜む、薄気味悪い気配。一刻も早くその根元を断つべきだと、僕の本能が静かに告げていた。


 遮光カーテンを引くべく、僕は鉄扉から窓際へと一足飛びに駆け寄った。明窓(めいそう)から降り注ぐ燦然たる旭暉(きょっき)とは裏腹に、心の内は名状し難い夢魘(むえん)のような暗い闇に侵食されていた。広大な不安の海に飲み込まれそうになりながらも、心を乱す光源を瞬時にカーテンの裏側へと封じ込む。刹那、視神経を侵す光が消失した。それと共に、僕は辛うじて安息の領分を奪取することができたのだった。


 太陽を遮った途端、室内は濃密な影に支配される。いや、それは予期していた暗黒ではなかった。再度瞳孔が闇に慣れ始めると、完全な虚無だと思っていた暗がりに、心許ない燐光を湛えた一つの光源が浮かび上がった。


 部屋の片隅に佇む琥珀色の骨董洋燈(アンティークランプ)。窓から差し込む暴力的な旭光(きょっこう)を、数分間、貪欲に食らい続けた円筒状の火屋(ほや)が、暗転とともに蓄えた光を一気に解放し始めていたのである。火屋(ほや)そのものが蓄光性素材で作られているのだろう。火を灯した暖かな橙色の輝きと違い、冷たく青白い、それでいて執拗に視神経を刺す不思議な光であった。覚醒後に目視した際、ただの(すす)けた硝子筒だと軽視していたそれは、今や慎ましくも確かな姿に豹変していた。


 だが、火屋(ほや)が放つ淡泊な青白い光に照らされて、幽霊のように姿を現したとある家具の存在には、即座に気がついてしまった。影を強調し、物の輪郭を鋭く削り出すその特異な光源は、導きの手を伸ばすように、部屋の奥に座す巨体を真っ先に指し示したのである。


「気味が悪いったらないな。……あれは!」


 混乱が鎮まり、見えない糸に引かれるように辿々しく歩み始める。視線の先には、天井を突くほど高く(そび)え立つ、無数の書物を抱えた墨染めの巨大な書架が堂々と威容を誇っている。書痴の血が騒ぐ。わずかなときめき。遠い昔兄妹から口を揃えて【本の虫】と揶揄(やゆ)された己の業は、この極限状況下においてもまだ死んではいなかったのだ。絶対的窮地に立たされてもなお、僕を誘惑する書物に高揚を禁じ得なかった事実が何よりの証拠である。


 焦燥と恐怖が(もたら)した駆け足の余韻とは相反して、疲弊し切った足取りは鉛のように重い。だが、知の集積たる書背の(むれ)が視界に収まると、僕の神経に火が灯された。途端に足に力が戻る。その歩みは不思議なほど力強く、確かなものへと変貌を遂げていた。着々と刻まれる歩調は最早疲労の片鱗すら感じさせない。最悪の状況下、ただ知的好奇心のみで駆動する底力。己の内側に潜む打算的な本能は、哀れをも通り越して滑稽ですらあった。


 接近するほど増す垂直の威圧感に、思わず感嘆が漏れる。際限なく嘆美を捧げたい衝動に駆られるが、静謐に(そび)えるその重厚な佇まいは、まさに筆舌に尽くし難いものであった。無人の室内に、洒落た賛辞を響かせることは敵わない。ただ一糸乱れぬ書物の整列に息を呑む。見事な塩梅だ。一人静かに首を縦に振る。この完璧な秩序に対する最高の礼儀とは沈黙であり、僕の稚拙な言葉で汚すことではないのだ。


 新書が放つ刺激的で鋭い洋墨(インク)の匂いよりも、古書特有の甘く落ち着いたバニラの芳香が深く鼻腔を打つ。馴染み深いその香りを肺の奥に至るまで満たして、深呼吸と共に書架の背表紙を一つ一つ通覧していった。


 目を凝らせば、そこには晦渋(かいじゅう)な学術書が井々(せいせい)と整列していた。軍事から医療に至るまで、書棚に並ぶ典籍が網羅する領域は、驚くほど多岐に渡っている。厳格な専門書の合間には、博物学の図譜や一般書、語学の教本や単語帳といった学習書も紛れていた。高度な知性の中に、通俗的な日常の断片があちらこちらと顔を出していた。


 幼少より読書家と喧伝(けんでん)されてきた身だが、自室の本棚などこの途方もない知の集積を前にすれば児戯(じぎ)に等しい。未踏の領域から雪崩れ込む膨大な情報。それはまさに、【知識の暴力】と呼ぶに相応しい奔流であった。


 百家争鳴(ひゃっかそうめい)とした書架は、見事に僕の好奇心を捉えて離さない。これほど該博な知を機械的秩序で統制している者がいるとは、いやはや恐れ入った。ここまでの蔵書を築いた家主は、僕と同等——いや、それを遥かに凌駕する知の狂信者に違いない。


 しかし、唯一の懸念点があった。それは、完璧過ぎる秩序がゆえに、逆装された背表紙を持つ一冊が、致命的な瑕疵(かし)のように際立っていたことだった。


玉桂の子(プエル・ルナエ)一和命(にのまえかずのり)の小説じゃないか!」


 逆さの一冊。一和命(にのまえかずのり)・著【玉桂の子(プエル・ルナエ)】第二巻。月面環境への適応進化を遂げた新人類である【白狼(はくろう)】の軌跡を描く、空想科学サイエンス・フィクションの長編大作だ。物語の概略を反芻(はんすう)する。舞台は狂暴化した変異微生物の跋扈により存亡の淵に立つ近未来。旧人類【赤狼(せきろう)】と、彼らを支える【白狼(はくろう)】が種を越えて手を取り合い、脅威を駆逐していく。……そう、確かそんな筋書きだったはず。


 (ページ)を繰り、記憶の輪郭をなぞるように物語を追う。(にのまえ)先生の筆致は何度読んでも倦怠を寄せつけない。彼の文体は魔術的だった。作品ごとに文体の相貌を塗り替える。その変幻自在な筆致こそ、彼が【カメレオン作家】として人口に膾炙(かいしゃ)する最大の所以(ゆえん)であり、無類無双の特異性であった。常に鮮烈な衝撃を読者に与え、その魂を繋留(けいりゅう)して離さない引力は感服に値する。ファンを逃さぬ術に長けた手腕は、ある意味一つの磁場だと呼べるのかもしれない。(にのまえ)作品中で唯一無二の長編シリーズ、【玉桂の子(プエル・ルナエ)】。現在未完結である本作は、続刊を渇望する読者の声が絶えぬほどの人気を博している。かくいう僕も、その熱狂的な列に加わる一人であった。


 ただ逆さまの一冊を手に取っただけのはずだった。だが、気づけば一冊丸ごと読了していた。近傍にある革張りの四人がけカウチソファに腰を据え、鼻歌混じりに熟読していたのだ。(にのまえ)作品と知るや否や、物語の引力に警戒を忘れ沈潜してしまう。愛読者の悲しき(さが)が招いた、あまりに無防備な失態である。弁解の余地などありもしなかった。


 背表紙を撫で、その小粋な意匠に改めて沁々(しみじみ)と感じ入る。表紙もまた、実に洒落ている。


 ふと、視界の端で頼りなく揺れる光に目が留まった。琥珀色に染まる骨董洋燈(アンティークランプ)火屋(ほや)が放出していた青白い燐光は、僕が物語の深淵に沈潜していた時の長さを物語るように、今や死にゆく灯火となって淡く減衰していた。蓄光という名の、借り物の輝きが尽きようとしている。


 室内を侵食し始めた原初の暗黒が、僕の意識を強引に現実へと引き戻す。己の失態——すなわち、手遅れなほどの時間的過失に思い至ったのは、悦楽の余韻が冷徹な静寂に塗り潰された、まさにその瞬間であった。


「——しまった! すっかり読み(ふけ)って……あれ? 何だこれ?」


 たちまち我に返り、(かぶり)を振る。その時だ。装丁の帯に触れた指先が、かすかな違和感を拾ったのは。闇が深まったことで、(かえ)って感覚が鋭敏になったのだろうか。腰巻の裏側に、何か密伏されているような確かな厚みがある。偶然の発見に過ぎぬものの、指先が捉えた異質な感触に、僕は思わず息を止めた。


 古書の甘い香りに混じって、いつの間にか鼻腔を掠める硬質な皮革と、鉄錆と硝煙にも似た激しい戦場の匂い。鉄扉が重く軋む音、絨毯を踏み締める軍靴の響き。五感が捉えた情報は(すべ)て、物語の奔流に流されていた。僕の意識が知的好奇心の充足を優先し、不要なノイズを自動的に間引いてしまったらしい。……だが、今はそれよりこの帯紙だ。


 帯を外し、その内側に視線を落とす。やはり。予想は見事的中した。折り畳まれた一片のメモが、マスキングテープで厳重に固定されている。几帳面な四点留め。執拗な隠し方をされた秘密が剥き出しになった今、メモを握り締める掌の中に湿った緊張感が滲んだ。


 読書に耽溺した代償に、得られた情報はあまりに少ない。一つ、ここが一和命(にのまえかずのり)の著作が存在する世界線であること。二つ、僕の母語とこの地の言語体系が幸いにも整合していること。それ以外は依然として闇の中だ。


 既知の書物の存在が示した【()()()()との共通項】は、差し当たって安易な異世界説を退けてはくれた。だが、時間遡行の可能性は? 空間移動は? あるいは無数に分岐する並行世界のいずれかへの転移か? ありとあらゆる蓋然性(がいぜんせい)が潰えることなく、宙に浮いたままだった。解決すべき謎は、むしろ山積し続けている。


 けれども、偶然獲得したこの紙片には、必ずや重大な示唆が隠されているはずだ。未知の絶海で溺れかける中摑んだ、細く脆い一筋の藁。それが既知へと繋がる道標(みちしるべ)であることを、切に願う。さもなくば、何一つ手がかりのない暗夜を、ただ一人あてどなく彷徨(さまよ)う他ないのだから。出口のない迷路。必敗のチェス。そんな愚かな遊戯に付き合う暇などない。ゆえに、完璧な書棚の一冊をあえて逆装し、伝言を託す手の込んだ遣り口に、僕は真相へ至る鍵が隠されていると確信したのである。根拠はない。だがそう直感した。


 正体不明の誰かが残したメッセージ。時を越えて流れ着いた漂流瓶(ボトルレター)か、あるいは禁断の秘密文書か。その封を解けば、そこには真実が綴られているのだろうか。(はや)る高揚を抑え切れず、紙を広げる間も惜しんで、裏側に滲んだ文字の断片を追いかける。意識を強烈に縛りつけるほどに暗示的な一節を拾い上げた途端、僕の心臓は飛び跳ねた。


 反転した洋墨(インク)。鏡文字のように裏返った配列は、僕の脳内で瞬時に組み替えられ、一つの言語を形作った。英語か? いや、単なる僕の誤読だろうか。滲む一節を、馴染み深い他国語の構文へと無意識に当て嵌めていく。 「To you, the one ending this mission.」 ——今この瞬間、この任務を終わらせるであろう貴方へと告ぐ。 そんな馬鹿げた意訳が、何故か確信を持って胸に突き刺さった。


「これ……って、僕に宛てたもの、なのか?」


 この境遇が、何者かによって仕組まれた任務であることを宣告するように。あまりにも現状と符合し過ぎた一節が、メモの裏面にじわりと浮上している。不気味なほどの照応は、否応なしに好奇心を昂らせる。ワインのコルクを抜くがごとく、慎重に帯紙を剥離させる。僕の心は、既に未知なる海図への期待に波打っていた。紙片が(もたら)すであろう未知の感興を予感して。


 あと少し、あと少しで真相に近付ける——。


「なあ、お前一体誰だ?」


「——っ!?」


 施錠された扉が開く音も、第三者が歩み寄る足音も。秘められたメッセージに没頭するあまり、ついぞ鼓膜に届くことはなかった。いや、違う。五感は確かに誰かの侵入を察知していた。察知していたはずなのに、無意識に発揮された周囲を忘却させるほどの驚異的集中力が仇となった。それが正確な答えだった。没入感が麻痺させた感覚は、背後からの接近を許す致命的な隙を生んだのである。


 カウチソファの背凭(せもた)れ越しに、漆黒の影が僕を覆った。忽然と現れた男に、喉の奥深くで悲鳴が凍りつく。頭上から降ってきたのは、全く聞き覚えのない男の声音だ。その低く冷ややかな響きは、隠し切れぬ不機嫌さと鋭く張り詰めた殺気のような緊張を孕んでいた。一方の僕は、虚を突かれた驚きにより指先が躍り、紙の裂ける不吉な音色を響かせていた。重要なヒントが破断するショックに、短い悲鳴を漏らす。眉を(ひそ)めることしかしなかった僕の反応は、皮肉にも男の不興を買った様子であった。沈黙を拒絶と受け取ったであろう男が、間髪容れず「聞いているのか」と冷酷に追撃を放つ。


 相次ぐ動揺に指先の制御は失われ、帯紙も小さな伝言も最早無残な姿になり果てていた。(しわ)くちゃになった二つの紙片を握り締め、身を縮めて怖々(おずおず)と彼を見上げる。その圧倒的な存在感を前にした僕には、それ以外の術が残されていなかった。

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