09)侵蝕するバイオハザード
桐生氏が滔々と紡いだ長広舌を要約すれば、つまりはこういうことらしい。
僕が今居るこの場所は、彼の有名な自由区アミティエ。その防衛を一手に担う第三師管区総司令部——その厳しい名を冠した軍事機関の膝元なのだという。ここに所属するのが、最高機密のベールに包まれた主力部隊K-9s。そしてその実態は、隣に佇む中佐のような第一級接触禁忌種と称される生体兵器や、それに準ずる別種の生命体により構成された異端の軍勢であった。
第一・第二、そして第四から第八に至るまで、世界各地に点在する他の師管区にはこれと同形態のものは存在し得ない。この第三師管区だけに限定して置かれた、極めて歪かつ貴重な少数精鋭なのだ。一部隊三人一組、全十部隊。目の前で莞爾と笑みを浮かべる男は、世間に隠匿されたその怪物集団を【人類史上最強の歩兵部隊】と呼び、誇らしげに語ってみせるのだった。
一通りのレクチャーを終えた彼に対し、僕は意識して平静を保ちながら、頭の中で組み立てた理解を言葉にして吐き出す。
「つまり、僕はK-9sの内部調査を行う密偵として過ごす。かつ、表向きは【K-9sの保護対象という名目で彼らの下に配属される】——そういう認識で相違ないですか?」
「無事に理解できたようで何より。……さて、それじゃあ次は何を肴にしようか?」
桐生氏の懇ろな解説に「なるほど」と相槌を打つ。そんな僕の隣で、ルベルロイデ中佐は煩瑣極まる言論の応酬に、隠そうともしない嫌悪を露わにしていた。大変申し訳ないが、お次は【禍津子侵蝕者】とやらについて詳説してもらうつもりでいる。非常に残念ながら、中佐殿には十中八九長丁場となるであろうこの質疑応答の盤面に、最後の最後までおつき合い頂く必要がある、という訳だ。
先ほどの悶着で行使された暴力の代償とでも思ってくれ。僕は中佐個人の都合など一切意に介さず、次なる疑義を解き明かすべく口を開いた。
「では、次に禍津子侵蝕者について教えて頂けますか?」
「構わないさ。納得いくまで、懇切丁寧に講釈を垂れてあげよう」
桐生氏は満足げに頷くと、手元の薄型端末へ優雅に指を滑らせた。直後、室内の照明が一段階落ち、無機質な電子音と共に空間へ青白いホログラムが投影される。空中に浮かび上がったのは、かつては都市であったと思しき凄惨な廃墟の風景と、K-9sにより報告された血腥い戦闘記録の数々だった。その残酷な光景を背に、桐生氏は静かな声調で本題へと切り込んだ。
侵蝕者。昨今社会を脅かす怪死事件の裏側に蠢く、人類の敵ともいうべき超危険生命体——いわゆる厄災の使者禍津子。我々人類に絶望的な牙を剝くその正体は、何と杏病原体と呼ばれる未知のウイルスが齎す侵蝕因子だという。最も質の悪い点は、それが有機物・無機物を問わず、この世のあらゆる物質を分け隔てなく侵食する実態にあった。万物をも食い荒らし、さらには自らの支配下に置き、活動力を付与して周囲へ害を撒き散らす。
「最新鋭の頑丈な装甲車だろうが、堅牢なコンクリートで固めた難攻不落の要塞だろうが、所詮は同じこと。一度奴らの侵食を受けたが最後、ほんの数ヶ月でも放置してご覧なさい。あっと言う間に自ら意思を宿して、実に香ばしい脅威へと変貌を遂げてしまう。気づいた時には、かつてご主人様だった人間を背後からガブリってね。世の中、ままならないもんですよ」
淡々と紡がれる桐生氏の言葉を裏づけるかのように、空中の映像が切り替わる。重装甲の軍事車両が内側から異様に隆起し、張り巡らされた血管が脈打つグロテスクな怪物へとなり果てていく記録映像。その青白い光に照らされた僕は、気づけば背筋にひやりとした冷や汗を滲ませていた。風雨という外的営力が地層を削り取り、全く別の貌へ変貌させてしまうように、この世界の法則そのものを塗り替えていくのだそうだ。
そして、その理不尽な侵食を食い止め、討伐するために編制された特異部隊こそが、彼らK-9sなのだ。桐生氏が淀みなく語る中、思い出すのは中佐の私室で発見した報告書。あそこにも該当変異体討伐完了の文言があった。あれは間違いなく侵蝕者殲滅戦の記録だ。パズルのピースが嚙み合うような納得感が、胸の内に広がっていった。
「ああ、それとハチ。一つだけ、忘れないうちに忠告しておかなければならない」
桐生氏は思い出したかのように人差し指を立てる。宙に浮かぶ凄惨なホログラムを掻き消すと、その穏やかな笑みにわずかな厳しさを混ぜ込んでみせた。
「今、君の問いに応じている内容は、世間はおろか大半の軍兵にすら秘匿された最高機密に値する。軍の公式文書にも記されないレベルで、徹底した箝口令が敷かれている貴重な情報だ。例え相手が同じ制服を着た仲間内であろうと——不用意に口にすれば、それだけで相応の処分を免れない。その点だけは、重々承知しておいて欲しい」
要するに、K-9sが果たす真の機能も世界を蝕む侵蝕者の実在も、民衆や末端の兵士達には一切伏せられた禁忌の領域なのだ。桐生氏は婉曲に、けれども明確な脅迫を孕んでそう告げているのだろう。表社会において、K-9sという部隊名自体は【卓越した特殊精鋭】として広く周知されているらしい。だが、人々が知るのはあらかじめ取り繕われた華々しい看板に過ぎない。彼らの本質が【侵蝕者殲滅作戦への絶対的貢献】という陰惨な泥沼にあることなど、誰も与り知らぬことなのだ。
これほどまで徹底した情報統制を敷く真意——それは、社会の崩壊と軍内部の士気暴落を未然に回避するための、冷徹な防衛策に他ならない。万物を等しく侵食する侵蝕者の前では、人類が築き上げた近代兵器は一切無力化される。人が対抗し得る物理的手段が皆無となることに加え、杏病原体に一度感染すれば、待っているのは即死、さもなくば人間性を奪われた異形へと変態するのみ。侵蝕者の存在そのものが、理性を踏み躙るパニックの導火線以外の何物でもなかった。
密かに蔓延るこの生物災害の実存を、公的機関が安易に認めてしまおうものならば——大衆のみならず、秩序を守るべき軍兵すらも集団的な狂気に呑まれ、あらゆる統制が壊滅することは目に見えている。軍の上層部としては、何を犠牲にしても絶対に避けねばならぬ破滅のシナリオであろう。
絶望の淵に立たされた人類ではあったが、しかし完全に逃げ道を断たれたという訳ではなかった。理不尽な侵食を阻む唯一無二の対抗策——それこそがK-9sと称される異端の集まりである。
第一級接触禁忌種の血液を媒体とし、間合いを問わず叩き込む直接攻撃。あらゆる既存兵器を無力化する侵蝕者を沈黙せしめる術は、この世において彼らの血肉を利用した強襲以外に存在しない。毒をもって毒を制すがごとき逆転の解法が確立されるや、K-9sの軍事的価値は絶大なものへと跳ね上がった。そして、真相を掌握する第三師管区の上層部にとって、彼らは何としても手元に囲い込むべき至高の兵器となったのだ。
そんな至高の兵器の張本人たる中佐はといえば、とっくのとうに会話の輪から離脱していた。軍用端末の薄型スクリーンを億劫そうにフリックし、意味もなくホログラムのログを更新し続けている。こちらの真剣な分析など端から知ったことではないと言わんばかりの、露骨な無関心であった。
彼が手にしているその端末に表示されている情報すらも、恐らくは限られた人間にしか閲覧を許されない代物なのだろう。それほどまでに、この生体兵器の血液を用いた研究や実験の権限は、極めて厳格に制限されているのだ。機密閲覧を許された極一部の文民研究者のみが、禁忌の生態解明に携わることを許可されるに過ぎない。大半の軍兵や一般市民に至っては、その実体に触れることはおろか、恐怖の根源が何たるかを知ることすら敵わない。彼らは何も知らぬまま、ただあらかじめ用意された平穏を無自覚に費やしているのである。
禁忌種の血を媒介として苛烈な斬撃を繰り出す、鉤爪状の軍器血晶刃。そして、侵蝕者が撒き散らす杏病原体の体内侵入を阻む、防護用ガスマスク虚飾面。これら専用の武具を完成させたのも、軍の庇護下に身を置き知恵と技術を惜しみなく提供した文民研究者達の功績であった。
しかし、血液運用によって生み出されたこれら特殊装備の実戦投入において、無知なる一般兵が抜擢される機会など最初から存在しない。血晶刃も虚飾面も、既に実戦での実証を経た完成された兵器ではある。だが第一級接触禁忌種の血液を実戦で使用する、という運用の本質に鑑みれば、一般兵の介在は致命的な情報漏洩の発端になりかねない。ましてや、不完全な扱いによって杏病原体の二次感染者を無用に拡大させる、二次被害のリスクまで孕むとなれば——軍部が敷く過剰なまでの情報制限も、慎重な軍事的合理性に基づく不可欠な措置と言わざるを得なかった。
真実を覆い隠されたまま虚構の平穏を貪る民と兵——見ようによっては、彼らはあまりに哀れで無垢な存在と言えた。けれど、対抗する術すら持たぬ人々に絶望的な真実を晒し、制御不能の恐慌を引き起こすことだけは、何としても避けねばならない。無知という名の狂気で暴走するくらいなら、闇に潜むK-9sが粛々と脅威を追跡し、世の裏で処断していく方が選択肢として遥かに理に適っている。軍部が選択した情報制限という地固めには、言下に退けることのできない妥当性が存在していた。
K-9s——それは、滅びへと傾ぐ人類が侵蝕者対抗戦のために保持する、唯一にして最後の切り札。軍の都合により構築された無知を、何の疑いもなく享受する人々。そんな人工的な安寧の陰で、欺瞞の平穏を繋ぎ止めるべく駆り出された彼らは、今日も粛として世界の闇を切り裂き続けている。
人類存亡を一身に背負う異端部隊——そんな崇高な使命を担う組織への配属など、高潔な志を抱く軍人であれば、万難を排して歓喜する千載一遇の栄転に違いない。だが、過去の記憶を根刮ぎ失い、実体は無力な民間人も同然の身である僕にとって、そこに狂喜する余地など微塵も残されていなかった。触れれば一命の保証も許されない致死性ウイルスと背中合わせの殲滅戦。そんな狂気の現場へ突入を命じられるなど、質の悪い悪夢どころか悪意に満ち満ちた処刑宣告に等しい。
世界が破滅へ向かっているという絶望的真実を突如として突きつけられ、冷や汗が背筋を伝うほどの戦慄と焦燥に苛まれる。だが、それらの根源的な恐怖以上に、直面した己の歪な立ち位置こそが、吐き気を催すほどの現実的な眩暈を僕に齎していた。
それと同時に、過剰なまでに緻密な説明を叩き込まれたからこそ、払拭し得ぬ異和感が胸の奥で重く燻っていた。侵蝕者の殲滅戦において、一般兵すら排除される徹底的な情報統制が敷かれているというのなら。記憶を失い、戦力としても未知数な不確定要素をその渦中へ送り込むこと自体、決定的な論理破綻を来している。
仕組まれた破綻か、または配属の裏に隠された別の意図か。深く呼気を吐き出し、胸中で練り上げた疑問の楔を叩きつけるべく、僕はゆっくりと桐生氏の眼差しへ視線を戻した。
「——一つ、確認してもよろしいでしょうか」
「許可しよう」




