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杏の血脈のクオ・ヴァディス  作者: 七種智弥
序章:混沌に帰す者——File 02
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File 02:首輪に従う黒狗(05)-監査-

「少年、そして中佐——君達二人が、共に認知していないであろう核心に迫る報せが存在する。まずは、先んじてそこからことの次第を話し始めたい」


 全ての元凶となった総論叙述の皮切り。桐生(きりゅう)氏は、僕とその真隣に佇む白髪の軍人・ルベルロイデ中佐が知り得なかった情報展開として、新たな開示を申し出る。口元の前で両手を組み、厳めしく告げるそれは、ただただこちらに切迫感ばかりを強要する。


「だが少年。これから話を進めるにあたって、【君の名がない】というのは、説明における最大の妨げになる。間に合わせでも何でもいい。まずは君の仮の名を決めようじゃないか。生憎僕は名付けのセンスがないのでね、君が思い付いたものにしよう」


 確かに、これから切り出される解説において、【僕の名前がない】という問題点は、スムーズな進行に差し支えるだろう。いくら積もる話があろうとも、上手く運ばないのでは仕方がない。適切な仮名を案出することも敵わぬため、僕は嫌々ながら先ほどコールマン中尉から命名された【ハチ】という呼称を提言した。


「なるほどね。君のその秋田犬の顔隠し(仮面)から忠犬ハチ公(名犬の名前)をチョイスするとは、コールマン中尉も存外ユーモアに満ちているようだ。子犬のような坊や、君にぴったりの名じゃないか。何より呼び易いというのがいい」


 くつくつと目尻を下げながら皮肉る桐生(きりゅう)氏に対し、立腹するほどの気力は最早微塵たりとも残されていない。半ば諦めの如く、「笑いたけりゃ笑えよ」といった面持ちでいた。無論、気に入らない名前ではあるが、馬鹿や阿呆などの侮辱的乃至(ないし)は嘲弄的な渾名で弄られるよりはマシだ。何より、自身に命名の感性があるとも思えなかった。碌でもない名前を己自身で付けたことで、後になってから恥を掻くのは、もっと御免である。

 そんなこんなで、これから【ハチ】を名乗ることへの抗いを喪失した僕は、話題を摩り替えた。桐生(きりゅう)氏に対し、これまでの粗筋(あらずじ)の釈明を急かすように告げる。「それで、僕達二人が共に認知できていない核心に迫る報せとは?」と。いつの間にか僕の名前で盛り上がる少将閣下の与太話は、容赦なく()った切って。


「ああごめん、話が逸れたね。そうだな。ハチ、君の正体はね——」


 ——この第三師管区総司令部における秘密監査の実行担当者。謂わば全師管区総括を取り仕切る軍管区総司令部から派遣された、上層の監査官たるお役人だよ——


「「……は!?」」


 初めて、中佐と反応が被った。それも当然。僕も彼も、まさか【ハチ】という人間が秘密裏に用意された軍部上層の役人であることなど、知りもしなかったことなのである。しかし、己が重要な密命を担った役人だとしても、記憶喪失であることの説明が付かない。その根幹たる理由を問えば、桐生(きりゅう)氏曰く、それは、先の任務で負傷した後遺症なのだそうだ。

 思わず訳が分からないと不審が口を衝いて出た。起床時から記憶喪失のスタートを切った自分にとって、先の任務というのも知り得ないことであるからだ。徐々に疑問を紐解いてみれば。何とこちらに派遣される前に負った傷で記憶喪失を発症した僕は、先日戦線復帰したばかりの新米監査なのだという。そこから更なる記憶喪失を生じたとは誰もが想定しなかった事態である。なおかつ、何故記憶喪失のオーバーラップが生じているかについても、誰もが感知しないところにあるのだと。


 当初は桐生(きりゅう)氏自身も、【ハチ】が突如軍管区から根回しされた監査官であることを認知していなかったらしい。上からの下知を受け、即座に中佐の暴行停止合図を送り出した様子だった。今や思い出したくもない惨劇であるが、中佐から受けた不条理な暴力の終始。——あれは、隔離施設の白い窓を挟んで、全て監視官に制御されていたのかと合点がいく。


 それにしても、桐生(きりゅう)氏ほどの幹部ともあろう者。それが、監査の派遣元たる軍管区から、僕の配備情報について何も知らされないとは、不可解な話である。「(いささ)か情報共有が杜撰(ずさん)過ぎやしないか?」と考えてしまうほどに。無論、秘密警察のような役割を持つ監査任務が、大っぴらに周知される訳もないのは承知の上だ。しかし、そうだとしても、第三師管区の幹部クラスには事前告知が為されるべきだ。それをしないということ。——それは軍管区の本意が、第三師管区幹部レベルの軍属者にも、疑いの余地があると警戒を高めていることを意味する。

 この推測が正しければ、抑々(そもそも)軍管区は第三師管区全体に疑念を向けていた、と考察できなくもない。更に掘り下げると。軍管区は、第三師管区が総力を挙げて内部抗争を巻き起こす【火種】となり得る素因を持つのではないか、と憂慮を抱いていた。——そうとすら考えられなくもない。これらの説を前提とし、軍管区が第三師管区へ内密に監査役を潜り込ませていたのであれば。今回の事故が謂わば仕方ない出来事だったのだと想像が付く。何となしに、納得はした。そう。飽くまで納得しただけであって、第三師管区による突然の暴挙を免じたのではない。


「閣下。何故ハチが監査官に抜擢されたので? 何故小官の私室に居たのです?」


 中佐が声を上げる。彼は知りたいらしい。何故、片生(かたなり)の【ハチ】という人間が重要な役割を負う監査官として選定されたのか。何故、送出された先が第一級接触禁忌種厳重管理区域だったのか。

 軍管区直属の役人である僕に与えた傷害の罰則を、中佐本人が受けるべきかどうか。それ自体はどうでもいいのか、「必要とされる罰なら甘んじて受ける」といった態度を示した。しかし中佐の問い掛けに、桐生(きりゅう)氏は明確な答えを出さなかった。


「中佐。これは君のことを、既にこちら側(・・・・)と認識して教示した情報提供だ。とは言え、誰がいつ、どこで、裏切り者と内通しているかまでは僕も掴めていないからね。故に仔細は話せない(・・・・)。故意に話さないのではなく、話せない(・・・・)んだよ」


 まあ、内部抗争を危険視しているのは、何も軍管区だけではないという訳だ。第三師管区の動向を見張ろうとしている、軍管区と同じなのである。桐生(きりゅう)氏もまた、第三師管区内の不穏分子を、炙り出す画策を練っていたのだろう。

 そんな桐生(きりゅう)氏にとっての中佐とは、少なくとも造反者でないと判断するに足る人材なのだ。だが、それほどまでの信頼を寄せていても、中佐の身内までは確たる信用に値しないと切り捨てている。知らず知らずの内に、中佐から謀反を企てる一派に情報が漏れては、それこそ本末転倒だ。この第三師管区に潜む反乱分子の勢力を削ぎ、粛々と葬るのであれば。当然桐生(きりゅう)氏の言動は、入念に吟味されたものでなければならない。

 故に、彼は中佐の質問をこう受け流したのだ。「話せない(・・・・)」と。


 また、今後新たな監査役が軍管区から送られるかどうかについても、不明だと言う。軍管区が、第三師管区をマークしている可能性が濃厚。そうである以上は、監査官の派遣について情報共有が為されないのは、言わずと知れたこと。ただ、もしも軍管区から桐生(きりゅう)氏に当該の下知があったとしても。——今後それを中佐に共有するつもりがないことも、明言した。


 結果として、軍管区が望んだ第三師管区の内部調査は、計画が開始される間もなく頓挫した訳だ。何せ、実行の要となる【ハチ】が現地に召喚されたにも(かかわ)らず、任務続行が困難になるほどの記憶喪失を起こした。挙句の果てには、任務情報すら忘れてしまったのだから。

 軍の一員たるもの、任務遂行の不履行によっては、己の不甲斐なさに打ち拉がれるところなのだろうが。幸いにして何も覚えていないパッパラパーな僕の気分は、酷く平常運転である。果たしてそれがいいことなのか不明だが、精神的な健康が保たれたのだと、プラスに考えておく。

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