File 02:首輪に従う黒狗(04)-要求-
ざわり——胸騒ぎがしたと同時、脳の片隅に刺激が走ったのは、ほんの一瞬のことだった。一度頭を強く打ち付けられているため、「その後遺症か?」とも考えはした。が、弱い電流が走るようなピリピリとした痛みが、果たしてそうなのかと問われると、生憎と自信や確証は持てない。
一説によれば、脳挫傷・硬膜下血腫・くも膜下出血の類で起こる頭痛は、かなりの苦痛だという。ズキズキとした疼痛が徐に悪化したり、嘔吐を繰り返したりするものと、耳にしたことがあった。現在生じている頭痛は、静電気で弾かれるような感覚が継続する状態。つまり、鈍器で殴られたような痛みでないことを踏まえると、重大な脳疾患に陥ってるとは考えにくい。素人ながら、現状緊急性はないだろうと判断して、僕は目前に準備された重大イベントをクリアするため、思考を再開することにした。
だが、ふと「頭痛の発端は何だろう?」と考えてしまう。これから行われる生死を賭けた男性の尋問に緊張したのか。或いは、好々爺然とした柔和な見目にも拘らず、隙を感じさせない男性の完全性に躊躇したのか。双方共に原因の追及には至らぬほどのもので、それが何だか腑に落ちない。釈然としない状況を打開しようと、僕は黒々と塗り潰された記憶の深層に手を伸ばした。
すると、予期せぬ神経系の疼きが迸る。これまでの軽微な痛みとは比較にならないほどの激痛に、僕は片膝を突いてぐっと蹲るを得なくなってしまった。蟀谷を押さえ、鋭い痛みが通過するのを粛然と待つ。徐々に和らぐ頭痛に安堵した直後、直と今現在置かれている状況を再認識した。
「あ……」
判事の目前で醜態を曝すなど、一体僕は何をしているんだ? 瞬く間に鳴り止んだ頭痛の正体など、今この場において気に留めている暇などない。「大丈夫?」と心配の声が掛かる中、「気にしないでください」とだけ答えて、僕はすっくと立ち上がる。
「お、初にお目に掛かります。……えっと、閣下……?」
先の失態を取り繕うべく、苦笑いで場を切り抜けんと企む。すると眼前では、六釦二掛けの高級ダブルスーツを身に纏った、40台前半の男が首を傾けていた。オーダーメイドと思われるスーツを着熟し、貴紳の雰囲気を醸し出す人物。——そんな人間の目の前で、何とも無様な格好を見せてしまったことは、汗顔の至りである。
「具合が良くなさそうだが、これからの長話に耐えられそうかい?」
「軽い眩暈です、本当にお気になさらず。それよりも閣下、話を続けましょう」
「ああ、何も畏まることはないよ。君は僕の部下でも何でもないからね。僕のことを閣下と呼ぶ必要もない。普通に【おじさん】と呼んでくれても構わないよ」
「い、いえ。初対面の方に向かって【おじさん】呼ばわりは失礼なので、遠慮します。……では、大変恐縮ながら【桐生さん】と呼ばせて頂きますね」
「随分と律儀な子だ、感心感心。最近の若い子は、すぐ40台を【おじさん・おばさん】と呼びたがる気がしてね。てっきり君も、その部類かと決め付けてしまった。これは失敬」
「40台男性は十分に【おじさん】の部類に所属するものと、小官は推考致しますが」
「中佐、君は黙ってて頂戴。現に彼は、僕を【おじさん】とは呼ばなかったんだから、断じて僕は【おじさん】じゃない。分かるかい?」
存外よく喋る男性に、僕は少し親しみを感じた。が、親しみなど今は不要だと切り捨てる。何故なら隣に佇むこの白髪の男もまた、邂逅直後近い距離感でこちらの波長を乱してきたからだ。後から恐怖を演出する——なんてことが、今後有り得るのだとしたら、不用意に親しみなど持たぬ方がいい。この数時間で学んだ教訓である。
「僕は桐生真澄。この軍における階級は少将だ。一応参謀長を務めていて、……っと。こんなことを言っても、一般人には分からないか。【第一級接触禁忌種厳重管理区域の監視官総括役の一人】だ。とでも言えば、中佐の正体を知った今の君にも何となくは通用するかな?」
第一級接触禁忌種厳重管理区域・監視官総括役、桐生真澄。実際これだけでも大層な肩書だというのに、今この男は参謀長だと言ったのか。参謀長と言えば、幹部職においても錚々たるメンバーの一人に違いない。こんな重役がぽっと出のキャラクターみたいに出てきていいものなのかと、殆困惑する。奇天烈なお偉方のまさかの登場に、僕はただただ目を丸くしていた。
「君の名は、っと。……ああ、そういえば今の君は記憶喪失なんだったね」
この重鎮は、まず「手始めに」とでも行きそうな勢いのまま、僕の名を尋ねる。が、思い掛けず、僕が記憶喪失で名すら持たぬ厄介児であることを回顧する。「何故僕が記憶を失っていると、中佐から報告も受けずに知っているのか?」と、怪訝に思った。しかし、ばつが悪そうに苦笑する桐生氏に違和感を覚え、そして唐突に気付いた。
「……そうか。あの白い窓の外から、全部見てた……んですよね」
心中に薄らと暗雲が立ち込めた。何故ならそれは、先刻の僕達の血腥い遣り取りを見ていたからこその発言で。分かってはいたものの、僕がやられるがままだった流血沙汰を、彼はただ黙認していたのだ。そう思えばこそ、やはり最初に親しみを持たずにいて良かった、と落胆する。
次いで訪れる申し訳なさそうな言葉に対して、「あの暴力行使を見ても、助けてはくれなかった癖に」と。少し暗鬱とした感情が胸の内で蟠るのは、仕方のないことであった。
「銃弾で肩と腿を撃ち抜かれるなんてことは初めての体験だろうけど、処置後の傷口はもう大丈夫だろうか。すまないね、ウチの馬鹿犬が。君に与えた苦痛が許されるとは思わないが、あれも命令通りに動いただけで、何も悪意ありきの行動ではないんだ。許してくれなどと、簡単に言える身ではないのは十分承知の上だが。どうか一思いに恨まないでやって欲しい」
「そんな、簡単に言われても。——無理がありますよ……」
卒然と飛び出した言葉は、赦免たるものではなかった。そりゃそうだ。悪いことをしたという自覚がないまま、暴力による制裁を受けたのだから。現状要求するものは、謝罪でも贖罪でも何でもない。ただ唯一、欲しいのは——。
「全て見ていたなら、僕の状況説明は必要ないですよね? それならば、まずこちらに状態説明と情報提供を願えますか。桐生さん?」
そう。今必要とするのは、右も左も分からぬ環境から脱するための状況把握。何故訳も分からぬまま、禁足地に放り出されたのか。何故訳も分からぬまま、暴力を行使されたのか。何故訳も分からぬまま、生死を左右される被告の立場に立たされているのか。——その理由が欲しいのだ。これまでに何の説明もないまま、言われるがまま、されるがままにこの身を預けていた。だが、既に意味不明な状況に曝されるのも限界であった。
「そうだね、こんな状況だ。事情を説明しようか。君の処遇はそれから決めよう」
桐生氏はそう言い、見ていた者だけが知り得る情報の提供をし始めた。




