01)驀進するトラジェクトリ
ゆらゆらと揺れている。男の右肩に担がれた僕は、糸の切れた人形のように垂れ下がり、ただゆらゆらと揺れていた。重力に身を委ね、振り子のごとく揺蕩う。力なき様は、聊か物騒ではあるものの、さながら物言わぬ死体を連想させた。応急処置を終えてなお、身体は血に塗れていた。淡色のカットソーは、浸潤した赤黒いシミを無慈悲に際立たせている。その姿は、傍目には相応の深手を負った死体そのものに映ったに違いない。
目覚めてからおよそ二時間。止血から間を開けず包帯を巻かれた患部には、乾いた血で枯れ葉のように固まった服が纏わりついている。けれども、男が歩を進める度に、処置を終えたはずの銃傷が熱を帯びて脈打ち始めた。凝固しかけた血の硬さ、内から溢れ出そうとする新鮮な熱。各々が鬩ぎ合い、皮膚の裏側で煮え立つような流動感だけが僕の神経を逆撫でする。実際に血が噴き出す訳ではない。だが、一歩ごとに神経を細い針で刺されるような鋭痛が走る。
着替えも許されぬまま、僕は【監視官総轄役】なる人物の元へと連行されていた。はてさて、その総轄役様とやらは一体何処に御座すのか。目的地をも知らされずに、僕は無言の荷物役に徹している。
すたすたと歩く男の歩法が微弱な振動となって伝播し、撃たれた傷口をじくじくと苛む。男の肩は肉というより頑強な装甲板を思わせるほどに硬い。屈強な軍人と対面したことのない僕にとって、その骨格の堅牢さは未知の驚異に近かった。
平均的な少年の体重など羽毛ほどにも感じていないのか、僕を担ぐ男が刻む一歩一歩は、定規で測ったかのように精密で一切のブレがない。周囲を埋め尽くす軍靴がバラバラに床を叩き、不規則な不協和音を奏でる中、彼の足音だけは正確無比なメトロノームのごとく単調なリズムを刻み続けている。迷いのない歩法は、生物というよりはむしろ完成された機械の駆動音に近い。零れそうになる呻きを堪えつつ、僕はただ沈黙を厳守した。「声を出すな、微動だにするな」——怪我人の都合を度外視した、理不尽な誓約を遵守するためだけに、僕は極めて行儀の良い荷物であり続けていた。
目的地へと続く通路で男が踏み締めるリノリウムの床は、幾千もの軍靴に削られ、鈍い光を放っている。監視官総轄役への報告を急ぐ男があえて最短ルートとして選んだ経路が、この下級軍人の溜まり場なのだろう。無機質なコンクリートの壁に反響するのは、規律の緩んだ兵士達が弄する粗野な笑い声であった。
彼らが纏う海松色の軍服は、度重なる洗濯によって色褪せ、肘や膝の生地はだらしなく伸び切っていた。安価なナイロン製のベルトから、レッグホルスターがぶら下がっている。そこに覗く拳銃の銃把には、白く汚れた手垢が染みつき、定期的な磨きさえも怠った軍靴からは、ゲオスミンの臭気が立ち上っていた。
周辺を往来する兵士達が放つ、あまりにも人間臭い生活の澱を、男の存在は無情に切り裂いていく。過酷な任務や訓練を物語る野性味溢れた汗と脂の蒸気も。片時の休息を反復して染みついた紫煙も。非日常が齎す感情の機微すらも。どれもこれもが男からは微塵も感じられない。手入れの行き届いた上質な皮革の匂いと、清々しい柑橘の芳香だけが、彼が住まう世界の清廉さと峻別された特権を無言で証明していた。
安っぽい合成珈琲の饐えた匂いと粗末な煙草の煙が、換気不全の空気に淀んで停滞している。彼らが形成する賑やかな日常の輪は、僕らを視界に捉えた瞬間一転した。生理的な嫌悪を含む冷ややかな沈黙、藹々とした雰囲気が一気に塗り替えられていく。
「おいおい見な、傑作だ! 黒狗の野郎、ありゃ何だ? 血塗れのガキを引き連れて死体ごっこでも始めるつもりかよ。全く悪趣味なこった!」
声の主は、はたして何者か。僕達を標的にした明白な野次が響くものの、声の持ち主を特定する術はない。顔を覆う秋田犬の面が視界を遮り、外界の情報を執拗に制限しているためだった。
仮面の双眸に穿たれたわずか数センチのスリット。隙間から覗く景色は、激しく揺れるリノリウムの床と擦れ違う兵士達の汚れた脛、あるいは散らばった吸い殻といった無意味な断片に過ぎない。僕は、万華鏡のように移ろう欠片を脳内で必死に繋ぎ合わせることで、ようやくこの要塞のような通路の全貌を構築していた。仮面という狭小な監獄の中で、僕の荒い呼吸だけが壁面に反響し、鼓膜を湿っぽく撫で上げる。面の中に籠もる熱気が吐息を白く濁らせ、額から伝う汗が不快な粘り気となり顳顬に張りついた。
汗の滲む不快感が増す一方、僕を支える男の存在は、極めて鮮明な物理的圧迫として僕の感覚を支配していた。ガスマスクの排気弁が、一定の周期で重く湿った吸気音を鳴らす。規則正しい音は、僕の乱れた心拍を半強制的に調律していくかのようだった。肩越しから伝わる男の体温は、驚くほどに高い。厚い黒色の外套越しでさえ、彼の生命力が僕の冷え切った身体を侵していくのが分かった。一歩踏み出すごとに、上質な軍服の生地が衣擦れとは言い難い重厚な摩擦音を立てる。その音の響きは、逃れられぬ檻のような絶望を突きつける。だが、それと同時に「この屈強な檻の中にいれば外敵の毒牙に触れずに済む」という倒錯的安堵感……あるいは官能に近い信頼を、僕の脳裏に刻み込んでいた。
限定された視界の中、事態を把握できぬまま僕は一方的に人目に晒され運搬されていた。秋田犬の面を被った血で汚れた死体。そんな滑稽な異形が衆目に晒されるとなれば、好奇の眼差しを浴びるのは必然でしかない。僕を俵担ぎにする男もまた、毒ガスの懸念もない屋内でありながら黒い直結式ガスマスクで表情を秘匿している。秋田犬の面とガスマスク。この珍妙な双璧が白昼堂々と往来すれば、あたり一帯の視線を一括して独占するのも道理というものであった。
周囲を囲むのは、画一的な海松色の軍服を纏った男達。そんな無機質な群の中で、黒い軍服、黒い外套、そして黒いガスマスクという徹底した漆黒を貫く男の姿。それは隠蔽のための装束でありながらも、皮肉なことにこの場にいる誰より鮮明な異物として浮き彫りになっていた。
ふと、記憶の片隅で揺れる彼の胸元が脳裏を過る。質素な海松色の軍服を着た下級軍人のそれとは比較にならぬほど、男の左胸に刻まれた胸章は精緻で豪華な意匠を凝らされていた。周囲の連中がぶら下げる、プレス機で打ち抜いただけの安っぽい錫製の認識票とは、価値の重みが根底から異なっている。鈍い金光を放つその紋章は、彼が単なる黒い番犬でないことを告げていた。そう。それは、軍組織上層部から多大な期待と特権を付与された、選り抜きの逸材であることを無言のうちに誇示していたのだ。
そんな彼がただ歩を進めるだけで、あたりの視線を根刮ぎ奪い去っていく。騒く人波を縫って男が前進するごとに、周囲は珍奇な見世物に遭遇したかのように響き立つ。腥血に染まった秋田犬の面の少年を抱える無機質なガスマスク男。そんな異形が通過する軌跡に沿って、驚嘆と嫌悪の波紋が広がっていった。
そもそも連行の折に顔を隠す必要性がどこにあるのか。それが第一の疑問だった。だがしかし。僕は【第一級接触禁忌種厳重管理区域への侵入を犯した無法者】だ。素性の露見を恐れる監視室側の都合もあるのだろう。個人的に、見物客の餌食となる犯罪者の惨めさが多少なりとも軽減されたのなら、今のこの滑稽な仮面も存外悪くないと思えた。
むしろ疑わしいのは、白子という人目を引く容姿を、彼が執拗なまでに押し包んでいる点だろう。稀少な美貌は尽く遮断されている。白金の地髪はフードつきの外套に、真紅の虹彩は直結式ガスマスクの奥に。その二つはある種の意思を持って、直隠しにされていた。無類なる善美。それを黒一色で晦ましてしまうとは、随分と惜しいものだ。「いっそ堂々と衒えばいいのに」と思わせるほど、その存在感は厳威に満ち、聖くすらある。
この容貌は、やはり初見で直感した【神】に類する授かり物ではないか? そう考えずにはいられない。厚いベールを剥いだ真の姿を知って間もないうちに、こんな軽率な思考に支配されるのは僕の浅慮ゆえだろう。少し勘案すれば、自ずと導き出される結論だった。【神】を喚起させるほどの崇高な風采だ。そんな異形が悠然と漫ろ歩けば、周辺の好奇を過剰に煽るのは想像に難くない。一般区画における第一級接触禁忌種は、その貌を満天下に知らしめることすら許されぬ厳格な機密性が課されているのだ。論理の果て、僕はその一点を確信した。
「ははっ、こいつは愉快だ! 黒狗が犬を担いで行進とはね。一体何の洒落だよ。まさか類は友を呼ぶってやつか? 実にお似合いの道中じゃねえか!」
「おいおい見ろよ! 泣く子も黙る黒狗様のお出ましだあ!! 高貴な黒狗様が、何だってこんな真っ昼間から俺らみたいな底辺の住処をお通りになっていらっしゃるんだ? 滅多に拝めないお姿だ、有り難く拝ませて頂こうじゃねえか。なあ黒狗様よお!」
「鎖に繋がれた上層部のお利口なワンちゃんが、一体全体どういう風の吹き回しでこんな薄汚い下層まで下りて来やがったんだ、ええ? その立派な牙は、俺達身内の喉笛を食い千切るためだけにせっせと磨き上げてる代物だもんなあ!?」
「恐れ入った! 血統書だけはご立派な一級品だが、今じゃ主人の顔色を窺うだけの忠実な犬ころだもんなあ! 猟犬の真似事とは随分なご身分だ。見てるこっちの胃袋が反吐で裏返りそうだぜ!」
それにしても騒々しい連中だ。あたり一帯に賑々しく沸き上がるのは、男を小衝く野次や非難する陰口の類ばかり。彼ら下級軍人は数人の群をなし、互いの肩を寄せ合うことで、ようやくその虚勢を維持しているようだった。一人では視線を交錯することすら敵わぬ黒狗という怪異を前に、集団という盾の裏側に隠れて石を投げている。そんな醜悪な連帯感が、場を一層騒々しくさせていた。
投げられる言葉はどれも鋭い棘を含んでいるが、その実、男が歩み寄る度に騒いでいた群衆はモーセが海を割るようにぞろぞろと空間を開けていく。口々に罵声を浴びせながらも、彼らの視線は男の黒い外套を直視できぬまま本能的に伏せられていた。どれほど虚勢を張ろうとも、彼らの筋肉は強者との接触を拒絶し、無意識な後退を余儀なくされている。その光景は、滑稽なほど彼らの潜在的な畏怖を露呈させていた。
黒狗——。耳を澄ませば聞き慣れぬ単語が雨のように降り注いでいた。黒一色を纏った彼を形容する記号であろうことはおおよそ察しがつく。しかし、いかなる経緯でその名が冠されるに至ったのか。純粋な知的好奇心と共に、僕は思考の最中でただ首を傾げていた。「黒狗」と吐き捨てる軍人達の間には、男を忌み嫌い煙たがる空気が凝集していた。彼らの放つその一語は、尊崇を込めた美称などでは断じてない。それは軽侮や拒絶という名の毒を孕んだ、明らかな卑称として僕の耳に響いていた。
しかし、これほどの悪感情を招く背景が知れない。「黒狗とは何ぞや?」——その正体を問いたい衝動に駆られるが、許可なき発声は禁じられている。僕は止むなく懐疑を飲み下し、再び沈黙する荷物としての擬態を完璧なものとした。
男は、四方から飛来する野次を悠揚迫らぬ様子で躱し、ただ前へと歩みを進める。野次馬の発生など日常の瑣末事に過ぎぬと言わんばかりの、至極泰然とした態度。鰾膠もなくその場を去る背中には、一切の動揺も他者への関心も介在していなかった。




