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杏の血脈のクオ・ヴァディス  作者: 七種智弥
Act 01:混沌に帰す者/Code 01:昼中に墜つ白烏
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10)顕現するベスティアル

 神のごとき秀麗さは一体どこへと消えたのか。わずか数分。眼前の男は、悪魔のごとき(おぞ)ましい薄ら笑いを湛えている。そこに宿るのは、死神にも似た冷酷な悦楽。目前の彼に生の感覚が遠のく。地上から地獄へ——。垂直の転落を僕の直感は鋭く捉えていた。


 男が放つのは、身を凍りつかせるほどの慄然たる殺気だった。それは目に見える濃霧となってこの部屋を支配しているかのようだ。吸い込む空気が肺に重く粘りつき、呼吸する度に喉の奥がチリチリと焼けるように痛んだ。


 炯々たる眼光が、獲物を屠る捕食者のごとく僕を射抜いている。先刻まで覗かせていた人間的な側面は、今や完全に鳴りを潜めてしまった。表層から芯部に至るまで、その姿は獣のごとき獰猛さを孕んでいる。そこには、人間的な感情を読み取れる余地など寸分たりとも残されてはいなかった。


 最早対話の成立する相手ではない。直感的にそう悟るほど彼は様変わりしていた。人としての情理を失った今の彼が、理性的に言葉を重ね、何かを問い質してくる姿など、想像できるはずもあるまい。外見こそ同一だが、その根幹は猛獣と()げ替えられたかのような禍々しさに満ちている。獣が人道に適う振る舞いを見せるなど、そのような芸当ができるはずもない。ただ蹂躙者として暴虐の限りを尽くす。そんな猟奇的な情景だけが、抗いがたい未来として容易に予見し得た。脳裏には、無残に踏み(にじ)られる自身の末路だけが鮮明に描き出されていた。


「忘れちまったのか? この一望監視施設(パノプティコン)ってのは、監視室が俺達の終着点をライブ配信してるようなもんさ。第一級接触禁忌種って肩書きを背負ったこの俺が、不運な侵入者を排除する残酷なショーをな。連中はポップコーン片手に、瞬き一つせず()()()()()よ」


「待て、待ってください! 合理的な対話はもうお終いですか!? こんな凄惨な舞台装置、僕の予定には入っていなかった。何故いきなり言葉を放棄して、こんな前時代的で物理的な解決に訴え始めるんですか!!」


「恨むなよ。これは監視官に尻尾を摑まれるなんて失策(ヘマ)をやらかした、お前の自業自得だ。『厄日だった』とでも思って諦めな。連中が求めてるのは、薄汚え血肉祭り(パーティー)だ。主役は俺とお前。……さあ、ダンスの始まりだ。手を貸しな、坊や」


「……冗談、ですよね? 人生の幕引きが、こんな合理性の欠片もない不条理劇だなんて、到底笑えませんよ!」


「安心しな、ダンスのステップは俺がエスコートしてやる。侵入経路も潜伏している鼠共の数も、俺達は未だ何一つ分かち合えちゃいねえ。そんな状況で強硬手段に出るってのは、(いささ)か紳士じゃねえだろ。手ぶらで帰ってボスの不興を買うのも御免だ。死なせやしねえよ。薄汚れたシーツってのは、埃が出なくなるまで叩き上げる。どの界隈でも共通の流儀だろ」


 男の異質さを悟るのに時間は要さなかった。譫言(うわごと)を呟きつつ冷淡な眼差しで見下ろしてくるその姿には、常軌を逸した不気味さが漂っている。まさしく尋常ではない。圧倒的な狂気だった。死を覚悟するほど全身総毛立つのが分かった。和やかな時間は霧散し、突如として絶体絶命の淵へと突き落とされる。


 男は僕の左手を背後で固め、右手を無慈悲に踏みつけると、背の上に腰を下ろして抵抗の一切を()じ伏せた。けれど、このまま蹂躙される実状を甘受することなどできなかった。拘束された両手に、渾身の力を込める——丁度、その時だ。


「うわああああああ!!」


 凄まじい勢いで右肩を貫いた何かが、僕の口から耳を(つんざ)くほどの絶叫を引き摺り出した。室内に木霊する銃声。その暴力的な残響が、耳の奥をビリビリと震わせ続けている。突きつけられた鋼鉄の筒が火を噴いたのだと理解するより早く、至近距離で炸裂した熱風が僕の衣服を焼き、剥き出しの肌を焦がした。


 直後襲いかかったのは、赤く熱した鉄棒を深々と突き立てられたような、鋭く、苛烈な灼熱感だ。逃げ場のない熱が肉を侵食し、神経を焼き切りながら貫通していく。これほどの衝撃を受けながら、意識は白濁するどころか、鋭敏な痛みにより(かえ)って鮮明に研ぎ澄まされていた。死に至るほどの衝撃をあえて一箇所に凝縮し、被験者を覚醒させ続ける——そんな悪意に満ちた兵器の特性が、僕の肉体を絶望的な苦悶の中に縫い留めていた。


 止めどなく流れる鮮血。熱く、激しく、鼓動を刻む肩の銃傷。奔流する熱とは対照的に、脳は冷水をかけられたような錯覚に陥る。意識の芯が、急速に冷え切っていく。「まさか発砲など」と(たか)を括っていた。しかし現実は躊躇なく弾丸を穿たれるという無様な結果だ。容赦のない一撃に死を予見した僕は、致命的な失策を避けようとただ静かに口を噤んだ。


 右肩の(あな)から絶え間なく鮮血が溢れ出す。右半身を浸していく生暖かい感触。じわじわと失われていく生命(いのち)の実感は、出血多量死の回避不能を予感させ、僕の胸を熾烈な戦慄で満たしていった。


「上の観覧席に座ってるクソッタレ共は派手なスプラッターがお好みだが、俺は御免だね。お前にとっとと地獄へズラかられると、俺の残業リストが膨らむんでな。安心しろ。その無駄にタフな神経回路、最後の一本が焼き切れるまで徹底的にしゃぶり尽くしてやるよ」


 男はどこまでも他人事(ひとごと)のように言い捨てた。人を撃った直後とは思えないほど事務的な台詞。止まらない出血とは裏腹に、男の放った弾丸が致命的血管をあえて避けていたのだと理解する。そのプロフェッショナルな残酷さが、僕を戦慄させた。今やこの命は、男の采配で生かされているも同然。生存本能に突き動かされ、僕は一心不乱に頷く他なかった。


 次いで彼は、すぐさま僕の右肩にある生々しい(あな)へと自らの右膝を無慈悲に突き立てた。全体重を乗せた強固な圧迫は、傷口の奥まで強引に圧し潰し、奔流となって溢れ出そうとしていた流血を無理やり堰き止める。肉が軋み、骨が悲鳴を上げるほどの苛烈な圧迫止血。それは慈悲などではなく、僕を()()()()()ためだけの暴力的な延命処置だった。


「ここの警備は泣く子も黙る一級品だ。デジタルなクラッキングから泥臭い物理侵入まで、鼠一匹通さないはずなんだがな。それを鼻歌まじりに突破してきやがるとは、お前、一体どんなイカレ野郎だ? カメラ配置は完璧、ファイヤーウォールは攻略不能な鉄壁。素人なら見ただけで小便漏らして逃げ出すレベルだ。さて、ここでクイズだ。お前、どこから入り込んだ? 監視官の連中の目はどうやって誤魔化したんだ? ついでに、その立派なバックアップに控えてる野郎共の名前も教えてもらおうか。……正直に話せば、地獄への特急券を片道分オマケしてやるぜ」


「そ、んなの、覚えてないってさっき——!」


 男は僕の両腕を背後で固めると、手錠で一纏(ひとまと)めに拘束して、乱暴に襟刳(えりぐ)りを摑み上げた。そのままソファから引き摺り落とされた僕は、冷たく硬いフローリングの上へ転がされた。ごろりと転がる。俯せに転がった衝撃で、一時的に抑え込まれていた傷口から再び血液が迸る。それは瞬く間に床を浸食し、その夥しい流血の跡が、僕の身に起きた惨劇の深さを残酷に誇示していた。


 絶望的静寂の中で、床を浸す紅血がフローリングの僅かな溝を伝い、ピチャ、と重い音を立てて跳ねる。その血液の音が、僕の命が秒刻みで削り取られていくカウントダウンのように響き、正気を削り取っていった。


 痛みに喘いでいる最中、突如足蹴にされ仰向けにされる。視界が反転し混乱していると、恐怖に滲む僕の瞳と残忍に歪む男の瞳がち合った。戦慄する僕を鳥瞰(ちょうかん)する男の眼差しは、どこまでも仄暗(ほのぐら)い。感情の一切を排したその虚無が、僕の恐怖心に輪をかけて助長させる。こちらの絶望を深く(えぐ)るほどに、彼の瞳は底冷えしていた。


 さらに男は顔色一つ変えず、傷口を(えぐ)るように僕の右肩を踵で踏み抜いた。肉の潰れる厭わしい感触。その刹那、僕の喉から言葉をなさない悲痛な絶叫が迸った。されど、即座に銃身(バレル)を突きつけられ、僕は【押し黙る】以外の選択肢を根こそぎ奪い去られた。鋼鉄の冷たさが喉から出かかった反論を無慈悲に封殺する。


 苦悶に歪みながら奴隷のごとく従順に首を振り続ける。凄惨な現状を甘受する他、生き延びる術はなかった。抗いようのない理不尽を前に、僕はただ自己を去勢するように頷き続けた。馬乗りで制圧され、視線を強制するために髪を鷲摑みにされる。さらには顳顬(こめかみ)に冷たい拳銃を押し当てられていた。それでも一切の抵抗を試みなかった。否、抵抗する術そのものを完膚なきまでに無力化されていたのである。


 確然たる力量差を刻み込み、戦意を喪失した僕を俯角(ふかく)し、男は静かに口を開いた。一音一音を歯切れ良く区切るその声音が、静寂の中で明晰に響き渡る。


「よく聞けこのクソッタレ。お前の手札に【言い訳】なんて安っぽいカードは配られちゃいねえんだ。時間の無駄で反吐が出るが、特別にアンコールを叫んでやる。さっさと吐け。お前はどのルートを通ってこの庭に紛れ込みやがった?」


「分からないですよそんなこと! 記憶にないんです!! 目覚めたら既にここにいたんだ。自分がどうしてこんな目に遭っているのか、見当もつかない……ぐっ!!」


 必死に記憶の糸を繰り寄せようとする。けれど意識の深淵に手を伸ばした瞬間、不自然な白濁が脳内を席巻した。過去へ遡ろうとする思考の指先が、目に見えない巨大な空白に衝突する。それは霧のような曖昧な忘却ではない。何者かによって乱暴に(ページ)を毟り取られ、代わりに無機質なホワイトノイズを流し込まれたかのような、人為的で強固な拒絶だった。思い出そうとすればするほどに、脳の深部が焼けつくような痛みを上げ、思考の連続性はズタズタに断裂する。自分が何者で、どこから来たのか。その根幹に触れようとした刹那、意識の底からせり上がってきたのは、底知れない恐怖を伴う空虚だけであった。


「徹底した黙秘権の行使か。お利口な聖人君子様には、クソ忌々しい沈黙がお似合いだぜ。いいね、最高に痺れる対応だ。頑固な扉をこじ開ける手間が増えるってのは嫌いじゃない」


 摑まれた頭を床に叩き付けられ、身体はくたりと弛緩する。焦点の合わない瞳が虚ろに彷徨(さまよ)い、後頭部の激痛に悶絶する肉体が一度だけ跳ねた。だが、その末期的な反応さえも男に押さえ込まれ、僕は静止を強要される。突発的に開いた唇から漏れるのは、何の意味もなさない断片的な音階のみ。指一本さえ動かぬ肉体は、脳の発する指令を拒絶し、冷然たる沈黙を維持している。意識と身体を繋ぐ神経系は、今や完全に遮断されていた。


 言語と自由を奪われた僕を前に、男は寸分たりとも気を緩めず凄然と静観を続けている。数分が経過してもぴくりとも動かぬ僕を、彼はまるで無機質な標本を検分するかのようにじっと見下げていた。男がこの停滞に飽きるのも無理からぬことだろう。膠着した現状を打破するように、彼が投じた次なる一手は「おい」という無骨な呼びかけであった。


 続け様に放たれた冷ややかな断罪——「死ぬなら吐くもの吐いてから死ね」。脳震盪の混乱に喘ぐ身にとってその非道極まりない言葉は、むしろ殊更(ことさら)恐怖心に拍車をかける絶望の楔となった。


 けれども、真の戦慄は彼の言動に由来するものではない。非人間的な暴挙を平然となし遂げるその欠落した精神構造こそが、恐怖の本質に他ならなかった。怪物——。眼前の男を規定する言葉は、最早それ以外に存在しなかった。彼は僕達と同じ理知を持つ人間などではない。人の皮を(まと)い、人の言葉を操るだけの【怪物】なのだと、そう確信した。

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