4 辞めたくて辞めたんじゃない
「美里さんは、仕事を辞めたくて辞めたんじゃないんです。辞めざるを得ない状況だった」
「辞めざるを得ないって……母は、博之さんが仕事をしてほしくないと言うから、店を閉じるって言いましたよ?」
ミキの言葉を聞いて博之は目尻を下げながらゆっくりとうなずく。
「ミキさんに店を引き継いでもらう1か月くらい前だったかな。相談に乗ってほしいって言われて呼び出されたんです」
夕方、ウキウキとして店に向かったけれど、出迎えてくれた美里にいつものような快活さがなかった、と博之は続けた。
「後にも先にもあんなに目が死んでいた美里さんを見たことがありません」
ミキは、その後に続いた博之の話を聞いて「なんで、お母さん、私に言ってくれなかったの?」とつぶやいた。
美里は、あるひとつの病名を博之に言ったのだという。ミキには全くなじみのない横文字だった。そこまで一切口を挟まなかった悠介が、記憶の糸をたぐるような表情でたずねた。
「確か……指定難病、じゃないですか?」
「そうなんです。当時は、疲れやすいとか、微熱がずっと続いて下がらないとか時々言っていたんですけど、赤い発疹が全身に出ておかしいと思って病院に行ってわかったみたいで。その時に一番に口に出したのが、ミキさんにもうこれ以上負担をかけたくない、でした」
博之は、ペットボトルのお茶に口をつけてひとつため息をついた。
「それで僕は、美里さんに結婚しないか、と持ち掛けたんです。お店を閉めるかミキさんに譲ればいい。美里さん、思ってもみなかったみたいで心底驚いていました。そんなつもりで相談したわけじゃないと、僕のことは大事な友達と思っているけど、そこまで世話になる義理はない。そう言われました。わかっていましたけど、ひどいフラれようでしょ」
博之は苦笑いした。それから目をつぶって少し微笑む。当時のことを思い出しているように見えた。
「でも、この先どうなるかわからない。介護もいるかもしれないのに、結婚しようって言えるのはすごいことだと思います」
悠介が私の方をチラチラと見ながら言う。
「美里さんにとって、病気はショックもだっただろうし、一大事だったはずだし、寄り添うことにリスクもあるだろうとも一瞬は思いました。でも、僕はよこしまな気持ちしか浮かばなかったんですよ。今しかチャンスはないって必死でした」
もっと早く知っていたら……という思いが一番最初に浮かんだ。その次に、今さらそんなことを聞かされても……、が続く。素直に母の元に走っていけるほど、ミキがここで過ごした10年は、短いものではなかった。
「なんで、今、だったんですか? 俺達が結婚する時に言ってくれても良かったんじゃないですか?」