3 一本の電話
花屋は水仕事をしていることが多い。だから、電話が鳴ってもなかなか取れない。相手がせっかちな人じゃありませんように、ミキは心の中で願いながら、濡れた手を拭いて電話を手にした。
「ありがとうございます、フローリストMです」
「もしもし、ミキさんですか? ご無沙汰してます。川本一也です。キョウコさんの……はい、ミキさん、お元気ですか?」
なんとなく聞き覚えのある柔らかな声色をキョウコの夫だと認識したとき胸がきゅっと搾り取られるような感覚になった。
「一也さん……ご無沙汰してます」
キョウコ曰く、彼女を目下裏切っているという人。親友を苦しめている張本人だと思うと、どうしても声が緊張してしまう。
「キョウコさんが、時々、遊びに行かせてもらっているみたいで、ありがとうございます」
「いえ……」
そう、一也はいつも丁寧なのだ。だからこそキョウコが言うみたいに浮気しているという方がピンとこないんだよね。そういう人こそ裏切るものなのかな……。久々に声を聞きながら、頭の中はなんだかんだと忙しかった。
「ミキさんに折り入ってお願いがあって連絡しました」
「お願い、ですか?」
「気合の入った花束を作ってほしいんです……その……キョウコさんが喜んでくれそうな」
息を吸い込んだ。なんだか話が違う……。ミキは電話を握り直した。目の前にある赤いバラについた水滴が照明に反射して宝石のように光った。
「……もちろんです。ご予算とかありますか?」
電話の向こうで一也が大きなため息をついたのが聞こえた。ミキの耳まで届くような大きさで、クスッと笑うと電話の向こうから照れくさそうな声が流れてくる。
「ああ、よかった。キョウコさんの趣味がわかっているミキさんなら心強い。実は恥ずかしい話なんですが、プレゼントあげるといつも彼女に不評で、きついことを言われちゃうから傷つくんですよね」
毎回文句言われるんで自信なくて。でも、10年目の結婚記念日だから、絶対に喜んでほしくて、実は会社の後輩に一緒にプレゼント探してもらったりして。それから、ミキさんに花束をお願いしてみようと思ってこっそり連絡させてもらいました。
「……ミキさん? 僕何かおかしいこと言いました?」
漏れた笑いが聞こえてしまったらしい、一也が不思議そうに聞く。
「いえ、あのキョウコとうまくやれるのは、一也さんだからだなあって思ったんです。ただ、一也さん、キョウコ、花にはそんなに興味ないんですよね……」
「……キョウコさん、今まで花を渡してもあんまり喜んでくれないのはそういうことか!」
「まあ、10周年ですし、今なら多分喜んでくれるんじゃないかなと思いますけどね。貴重な機会にご指名、ありがとうございます。一也さんの愛があのこじらせたヨメにもちゃんと届くような花束を用意させてもらいますね」
一也は「どうか、よろしくお願いします」と言った。
電話を切った後、ミキは腕を組んで伸びをした。ドアチャイムが鳴る音がしたので、「いらっしゃいませ」と応じる。
ここ数日で一番張りのある声が出たな。ミキは一人で笑った。