中編
「メアリーアン。今日からキミが僕の婚約者だよ」
久しぶりに出逢ったロバート・ライアン伯爵令息は、そう私に告げました。
「え、ええ」
「とても嬉しい。僕は、前からキミの方が好きだったんだ。メアリーアン」
「そ、そうですの」
ロバート様は、アンリエッタお姉様の元婚約者。
あの日、アンリエッタお姉様がメヌエット伯爵家を追い出されて。
……アンリエッタお姉様は結局、帰って来なかった。
その日の内に帰って来ると思っていたのに、全く帰って来なかったのよ。
そうして待つ事、数日。それだけ経っても一向に家に帰って来なかったアンリエッタお姉様。
(……もしかしたら、どこかで飢えて死んでいるか。或いは誘拐、とかされたのかも)
だけど、もし、そうなったとしても自業自得、だと思っているわ。
だって、そうでしょう?
愚かで怠惰なアンリエッタお姉様。
貴族令嬢が、何も持たずに家を出て生きていけるワケがないと言うのに。
暴漢に自ら襲ってくれと言うようなものだもの。
(アンリエッタお姉様は、あんなに素敵だったのに)
どこで道を踏み外してしまったのかしら。
お姉様が変わったのは12歳の誕生日の頃辺りから。
……何か、その時にあったのかしら?
今となってはもう分からないわ。もしかしたら、もう会う事さえないのかもしれない。
「メアリーアン? どうしたんだい?」
「あ、い、いえ。その」
「キミも急に婚約者だと言われて驚いているかもしれない。僕達は貴族だから、こうして家同士の繋がりを保つ為の政略結婚も必要な身分だけれど。でも、それにしたって限度がある。
キミは、アンリエッタとは違うだろう?」
「アンリエッタお姉様と、私は……ええ、違うわ」
怠惰なアンリエッタお姉様は、いつも寝てばかりだったわ。
それに勉強もしないし、家の仕事もしなかったの。
私がアンネマリーお母様に連れられて、一緒にお茶会などの軽い社交の場に出ている時も。
家に居るのに勉強もしないで寝てばかり居た、怠惰なアンリエッタお姉様。
「私はメヌエット伯爵家の為に、アンネマリーお母様と一緒に外に出てきたわ」
「うん。やっぱりキミはアンリエッタとは違うんだね、メアリーアン」
お姉様とは違う。そう褒められて悪い気はしなかった。
もちろん、怠惰なアンリエッタお姉様と比べれば私の方が素晴らしいのは当たり前だけれど。
それにロバート様。
私は、別に彼の事は好きじゃなかった。
ただ、ふとした時にアンリエッタお姉様の言葉が頭に浮かんだ。
『私、ロバート様が好きだったなぁ』
……と。まったく心なんて篭っていなかった台詞だ。
そもそもお姉様は、ロバート様からのプレゼントだって雑に扱っていたし。
何の信頼もできない言葉だった。けれど。
……もしも、あの言葉がアンリエッタお姉様の本心だったとしたら?
素直になれない、プレゼントだって、照れ隠しか何かで大事にしなかったのだとしたら?
そう考えると、ロバート様も悪くないように見えてくる。
かつてアンリエッタお姉様の手元にあった宝石のようにキラキラとしているように見えてきたわ。
「じゃあ。これからも婚約者としてよろしくね、メアリーアン」
「はい! ロバート様!」
私は、幸せな気分になった。
でも、本当は幸せになった私をアンリエッタお姉様に祝福して欲しいと思う。
だから早く帰って来ればいいのに。
お父様やお母様だって鬼ではない。
ちゃんとアンリエッタお姉様が謝って反省すれば家に帰って来るぐらい赦される筈なのに。
それから何日も、何日も経ってもアンリエッタお姉様は帰って来なかった。
「メルディスお父様。アンリエッタお姉様は今、どちらにいらっしゃるの?」
「……アンリエッタの話は止めなさい、メアリーアン。もう、あの子は伯爵家の子ではない」
「でも……」
「そうよ。メアリーアン。あの子は、メヌエット伯爵家の長女なのに、真面目に勉強もしないし、仕事もしなかった。……あの子は自分から家を捨てたのよ」
「……でも、アンネマリーお母様。私、アンリエッタお姉様と仲直りしたいわ。
お姉様の事を赦して差し上げたいの」
「おお。メアリーアン。なんて良い子なんだ……」
「本当。どうしてアンリエッタは、貴方のように育ってくれなかったのかしら……」
両親に褒められるのも悪い気はなしなかった。
なんだ。やっぱり私は幸せじゃない。
だって、こんなにもお父様やお母様に愛されている。
ロバート様だって、何度も私に会いに来てお話をして下さるわ。
「メアリーアン。キミと話すのはとても楽しいよ」
「ふふ。嬉しい。ロバート様」
私は、いつもロバート様の話を聞いている。
私から何かを話さなくても、聞いているだけでロバート様は喜んでくださるわ。
アンネマリーお母様と一緒に何度もお茶会に顔を出した甲斐があったわね。
会話の場では自分の話をするよりも相手の話をただ聞いて、相槌を打つだけでいいの。
だって、どうせ何を話しているかなんて私には分からないもの。
「それでね。メアリーアン。僕達は、また婚約したばかりなんだけど……」
「はい。ロバート様」
「でも、家同士としては、もう1年の関係だろう?」
「えっと。はい。そうですね」
「うん。だから、2年後には、もう僕もこちらのメヌエット伯爵家に入れるようにしようと考えているんだ」
「まぁ! 凄いです、ロバート様!」
2年後。
私は、まだ17歳だ。結婚できる年齢じゃない。
それでも、ロバート様がもうこの家に来る?
あと1年、伸ばさないで?
ふーん。別にどっちでもいいのかしら?
「メアリーアン。キミも領主の仕事や、その仕事の補佐について勉強しているんだろう?」
「え?」
「その時になったらお互いに頑張ろうね。早く、メヌエット伯爵夫妻に楽をさせてあげようじゃないか」
「楽?」
「ああ」
「……ええ! 素晴らしいですわ、ロバート様!」
「はは。ありがとう、メアリーアン」
よく分からないけど、ロバート様は優秀みたい。
だから彼にすべてを任せていればいいわ。
ああ、やっぱり私は幸せものよ、アンリエッタお姉様。
こんなに幸せな私をお姉様にも褒めて貰いたいのに。
お姉様は一体、どこに行ってしまったの?
◇◆◇
「……なんだ、これは?」
「メルヴィスお父様? どうされたのですか?」
「あ、ああ。メアリーアン。いや、これは」
言い淀むお父様の反応に私はピンと来たわ。
「もしかしてアンリエッタお姉様からのお手紙かしら!?」
「は? いや、」
「私にもお見せ下さい、お父様!」
私はお父様が手に持っていた手紙を奪い取るようにして、読んだ。
「こ、こら。メアリーアン。はしたないだろう?」
「だって、アンリエッタお姉様からの手紙だなんて、今まで何をされていた……のか……」
……それはアンリエッタお姉様からの手紙ではなかったの。
でも無関係ではなくて。
「……アンリエッタお姉様の、除籍、告知?」
それは、アンリエッタお姉様を、正式にメヌエット伯爵家の貴族籍から外す、という告知だったわ。
「お、お父様はアンリエッタお姉様の除籍を申請されていたのですか……!?」
「いや! 違う! 私は何もしていない! 除籍申請など」
「ではアンネマリーお母様が?」
「……聞いてみよう」
ですが、アンネマリーお母様も身に覚えはないと言うのです。
貴族籍からの除籍処分ですが、然るべき場所に申請する必要があります。
基本的には当主であるお父様、メヌエット伯爵でなければ、そのような事は出来ない筈。
「では、この書類は手違いなのですね?」
「……いや。印章や封蝋からして、正式な物の筈だ」
「なぜ!?」
「分からん。私にも寝耳に水だ」
一体どういう事なのでしょう?
「……アンリエッタだわ」
「え?」
「除籍処分だなんて、普通は当主の権限でしかない。でも、アンリエッタ本人が届け出を行ったのなら……」
「じゃあ、まさかアンリエッタお姉様が自ら、伯爵家の籍を捨てたって言うんですか!?」
「……それしかない、な。他人ではどうにも出来ないが、当主か本人ならば。そして私に心当たりなどないのだから……」
そんな!
どうして!?
「どうしてですか!? なんでアンリエッタお姉様は、自ら私達の家族である事を捨てるような真似をするんです!」
「……ああ! 本当にあの子は、どうしてこんな親不孝者に育ってしまったの……!」
怠惰なアンリエッタお姉様。
家を出て、ロクな生活など出来ていないだろうに。
それなのに最初にやる事が、こんな酷い仕打ちだと言うの?
「アンリエッタお姉様……どうして」
ショックだった。
どうしてお姉様がそんな事をしたのか分からない。
だって、そんな事をすれば、お姉様はもう伯爵令嬢ではなくなる。
貴族ではなくなるのよ?
だから戻って来た時に、いくら嘆いてもロバート様の婚約者に戻る事も出来ない。
そんな事をするなんて、どこまで愚かなの、アンリエッタお姉様!
……アンリエッタお姉様の除籍処分を受けてから、なんだか家の中は変な空気になっていった。
なんだか私達、家族の幸せにヒビが入ったみたいに。
私と、メルヴィスお父様。アンネマリーお母様。
3人だけで食事をするのは、アンリエッタお姉様が居た頃と何も変わらないのに。
食事の席の空気が重いの。
アンリエッタお姉様が居た時と食事の席の風景は何も変わっていないのよ?
お姉様は、いつも部屋に篭りきりだったから。
だから、今の状況だけを見れば、あの頃のと差なんてない筈なのに。
「メアリーアン。……お前もキチンと勉強をするように。お前が将来、メヌエット伯爵家を切り盛りする伯爵主人となるのだから」
「そうね。メアリーアン。勉強しなさいね」
「ええ……?」
今までこんな風にアンネマリーお母様に勉強しなさい、なんて言われた事はなかった。
たしかにメルディスお父様には言われた事があるけれど、本当にただ言うだけだったのに。
「お勉強なんて」
つまらないわ。仕事と言うのなら、お母様と一緒にお茶会に出て、パーティーに出て、お喋りをするぐらいで良いじゃない。
それではいけないのかしら。
……それから日々は、つらいものになっていったわ。
「……こんな事も分からないのですか? 一体、今まで何を……」
最初の家庭教師に、そう言われた。
「何を? って?」
「……ああ。いえ。なるほど? ……どうして、この時期に家庭教師を、などと思っていましたが。とにかく、まず現状の学力を確かめる所から始めましょう。私も、今後の計画を大幅に立て直します」
「……? ええ、わかったわ」
その家庭教師、イザベルさんと言うのだけれど。
子爵夫人よ。もう既にお子さんが成人していて、家の切り盛りは息子夫婦に任せているそう。
近々、爵位も譲られるみたい。
……子爵夫人と、伯爵令嬢。
家柄だけは私の方が上だけれど、どっちの身分が上かしら?
「どうしましたか? メアリーアン」
「いいえ。少し気になった事があったの」
「……言っていいですよ。分からない事があれば、何でも。教師という役割は、それに答えたり、答えを出す手助けをするものですからね」
「そう? じゃあ言うわね。子爵夫人と伯爵令嬢。どちらの身分が上なの?」
「……そうですね。まず、爵位の扱いについてですが」
私達の王国では爵位は、主に男性に与えられる。例外もあるそうだけれど、基本的に。
男性の伯爵が居て、伯爵夫人が居るとする。
その場合、基本は伯爵が上なのは間違いないけれど、そこには難しい要素が絡むという。
「メヌエット家の場合、直系が女性ですから。家名は女性のものとなります。そこで婿を迎えますが……、婚姻している間だけ、夫となる人物に爵位が認められます。離縁してしまうと、その家名の爵位を男は失いますね」
「……それって男と女のどちらが身分が上になるの?」
「対外的には男性。ですが、実質は女性。ですね。……女性側が、離縁という手段が取れる見込みがあるならば、家庭内での地位はそう揺るぎません。追い出されて困るのは男性になりますからね」
「ふぅん?」
じゃあ、私とロバート様が結婚してメヌエット伯爵家を継いだ場合。
基本はロバート様が伯爵だけど、私の方が偉いって事ね! ふふ。
「また夫人の立場も、正式に爵位を持つ夫より下にはなりますが、ほぼ同等の身分となります。
今の王国には公爵家はありませんから……。侯爵の妻となれば、侯爵夫人も、ほぼ侯爵と同等。
伯爵と伯爵夫人も……となりますね」
「ではイザベル夫人は、ほぼ子爵という事?」
「ええ、そうですよ。メアリーアン」
「……じゃあ、伯爵令嬢や、他のご息女、ロバート様は?」
「貴族の令嬢・令息は、貴族籍ではありますが、無位無官の身です。平民とは違いますが、ただし爵位持ちの貴族・貴族夫人よりも下の身分、となります。成人した後は、その家の事情や当主の意向などによって変わりますが、平民となる事もありますね」
「ええ……?」
じゃあ、私は? 私はどうなるの?
「……メヌエット家の事情は分かりません。ですが、貴方は既に婚約者が居ると聞いていますよ、メアリーアン」
「そうね。じゃあ私が平民になる事はないのね?」
「ええ。そのおつもりでしょう。メヌエット伯爵様は」
ふーん。
じゃあ、自ら除籍されてしまったアンリエッタお姉様は平民で、私は伯爵相当の夫人?
まぁ。それって、なんだかおかしいわ。ふふ。
だって私達、姉妹なのに。……ねぇ?
「じゃあ、今の私とイザベル夫人は……」
「今のところは、私の方が上。ではあります。メアリーアン。ですが、婚約者と婚姻を済ませ、正式に伯爵夫人となられた時は、貴方の方が上の身分となりますよ」
「まぁ!」
でも今はイザベル夫人の方が上なのね。
「ただし」
「?」
「一概に今の身分に囚われるのは良くありません」
「良くない? どうして?」
「今の私達の例で言えば、メアリーアンはいずれ私よりも偉い身分になるでしょう?」
「そうね」
「そういう事もあるから、ですね。『今のその人』が自分よりも下だと思って、虐げでもしていたら……。後で身分が変わって自分よりも上の立場に立たれる事もあるのですから」
「……ふーん? つまりイザベル夫人は私の事をいじめたりしない、っていうこと?」
「まぁ、それは身分に関わらず、そんな事をするつもりもありませんが。そうですよ、メアリーアン」
なるほど。爵位って難しいわ。
「それに相手の家門の事も重要ですよ、メアリーアン」
「家門?」
「ええ。たとえば今、話したように現時点では私の方が身分は上ですが……。よく考えて下さい。それでも貴方は伯爵令嬢です。父親は伯爵ですから。
……娘を蔑ろに扱われて、怒らない親は居ないでしょう?
では、私は貴方をどうにかするのは、実質的に伯爵に対して何かをするのと変わりない事になります」
「…………」
そうね。そうよね。
身分的には私の方が下でも、私は伯爵令嬢なんですもの。
でも、何かしら?
イザベル夫人の授業には何か、何かが引っ掛かったわ。
一体、何だって言うの……?
◇◆◇
「メアリーアン? 今日も勉強を頑張っているんだね」
「ええ。ロバート様。イザベル夫人は優しいけど、厳しいのよ」
暴力を振るったり、声を荒げる事はされないわ。
「どれどれ……。なんだこれ?」
「え?」
侍女の一緒に居る部屋に、ロバート様を招き入れて。
ロバート様は私が取り組んでいる学習用のノートを見て、驚かれたわ。
「どうかしたの、ロバート様」
「……いや、メアリーアン。キミ、本気か?」
「本気って?」
「……キミの学力は、こんなものなのか?」
「はい?」
学力、こんなもの?
「キミ、伯爵夫人になるんだぞ。あと実質、2年で」
「ええ、そうね。ふふ。楽しみだわ」
貴族だけれど無位無官。それがなんだか微妙な気分になるのよね。
身分だけで言えば平民よりも一つ上、程度の話じゃない?
もちろん、そこに伯爵家の令嬢、という言葉もつくから違うと夫人はおっしゃったけれど。
平民となったアンリエッタお姉様よりも一つ上なだけなんて、やっぱりおかしいわ。
「冗談だろ……。伯爵に抗議してくる」
「え? 抗議って何を、ロバート様!?」
そのやり取りがあってから。
どうしてか私の家庭教師は増える事になったの。
私、イザベル夫人の授業で満足していたのに。
新しく増えた家庭教師は言っている事が分からないわ。
その上。
ビシィ!
「きゃあっ!」
扇で私の肩をぶつのよ。ひどいわ。とてもひどい。
お父様にもお母様にも叩かれた事なんてないのに。
私は、アンリエッタお姉様と違う。
あんなに怠惰だったアンリエッタお姉様が叩かれるのは分かるけど、どうして私が!?
「痛い……ひどい、ひどいわ、こんなの」
「……貴方があまりにも不出来だからですよ、メアリーアン」
「でも、叩くなんてひどいじゃない!」
「……服越しに肩を叩かれただけでしょう? それにそこまで痛くしていない筈です。痕も残りませんよ」
「でも、痛いわ。それに、私、不出来なんかじゃない! 不出来なのは!」
いつも不出来だとお父様に罵られていたのは、怠惰なアンリエッタお姉様。
なのに、なのに。私は違うのに。
「……貴方は、これぐらいしなければ変われそうにないのですよ、メアリーアン」
「変わる? なんで変わる必要があるの!?」
「……それに気付くまで、教えてあげますからね、メアリーアン」
要らない、要らない。何を言っているの?
「……貴族であるのに教育を受けられない事は、褒められたものじゃありません。貴方には機会を与えてあげるのです。それを活かすかどうかは貴方次第なのですよ、メアリーアン」
分からない。分からない。
とにかく叩かれるなんて、痛くて、悲しくて、嫌だわ。
ほとんど会ったばかりの家庭教師にそうされるだけでも、そんな風に思うの。
……痛い。悲しい。嫌。
そう思う度に、何かを思いそうになるのだけれど、モヤモヤとしたまま、どうしても形になっていかない。
アンリエッタお姉様。
怠惰なアンリエッタお姉様。
……この気持ちは一体、何なの? どうしてもお姉様の事が忘れられないわ、私。
色んな出来事がある度に、お姉様の事が頭に思い浮かぶの。
ねぇ、怠惰なアンリエッタお姉様。
貴方は今、どこで何をしていらっしゃるの……?
◇◆◇
それから、ロバート様は私に会えば勉強の進みはどうか、とか。
難しい話の相槌だけでなく『意見』まで求めてくるようになった。
甘く、優しい言葉や贈り物をしてくれる素敵な男性はもう居ない。
ロバート様が私に失望する度に家庭教師が増えた。
イザベル夫人や、私を扇で叩いた教師は、まだマシな方。
その後で追加された家庭教師は、本当に何を言っているのか分からないの。
退屈で、つまらなくて、何の価値もないのに、時間だけを拘束されて。
しばらくアンネマリーお母様とお茶会にも出ていないわ。
「……こんな生活」
また、12歳になる前のアンリエッタお姉様を思い出した。
(そう言えばアンリエッタお姉様にも家庭教師が沢山いたわ)
あの頃は、そればかりは羨ましくは感じられなかったけれど。
多くの家庭教師と共に、私達と食事もせずに勉強を続けていた、勤勉だったアンリエッタお姉様。
私達は、その頃のアンリエッタお姉様に戻って欲しいと思っていたけれど。
(……でも、それは。それは……?)
何かが引っ掛かる。引っ掛かるけれど、それが何か分からない。
そうして分からないまま、アンリエッタお姉様が家を追い出されて2年が経った。
今もどこに居るのか分からないアンリエッタお姉様。
平民として、どこかで呑気に暮らしているのかしら。
毎日を生き抜く為に、どこかで働いているの?
……女に働ける場所がそう多くあるとは限らない。
だけど、美しかったアンリエッタお姉様。
もしかしたら、アンリエッタお姉様は……、その。
そういう場所に、落ちてしまっているのかもしれないな、と。
少しは学がついてきた私はそう思った。
(……そうでもしなければ、やっぱり貴族令嬢が何も持たずに家を出て、生きていくのは無理よ)
でなければ、アンリエッタお姉様は、もう既に……この世にいないのかもしれない。
貧しく、ロクに食べる物もなく。
かと言って、働く事さえも出来ず。
勉強もしなかったから、きっと学もなく。
美しさだけしか持って出ていかなかった、怠惰なアンリエッタお姉様。
飢え死にしていないのであれば、男性を相手にする商売に身を落としているぐらいしか考えつかない。
それは伯爵令嬢として生まれ、育った私にも、アンリエッタお姉様にも辛い事の筈なのに。
「ねぇ、怠惰なアンリエッタお姉様。貴方は……後悔していますか?」
あの時、メヌエット伯爵家を出て行った事を。
あの時、私達に謝ってでも伯爵家に残らなかった事を。
怠惰である事を止めて、勤勉に学び、ロバート様の婚約者である事にしがみつかなかった事を。
伯爵令嬢である事を捨て、伯爵夫人になる事を捨て、除籍までして平民に落ちた事を。
「後悔されていますか、怠惰なアンリエッタお姉様」
……私は。私は、お姉様のようにはなりません。
辛いけれど、勉強も進んできました。色々な事を知ったのです。
それに、もう愛を感じないし、優しくもなくなったロバート様でも。
婚姻を済ませば、私が正式な伯爵夫人になれます。
「……私は、幸せになるんだわ。怠惰なアンリエッタお姉様よりも」
そう。そうでなければなりません。
アンリエッタお姉様がいなくなってから始まった辛い日々が私を支えてくれます。
ですから。
もしも今もアンリエッタお姉様が生きているのなら……私の姿を見せてあげたいのです。
「……アンリエッタお姉様」
私の目からは涙がこぼれました。
既に死んでいるか。或いは娼婦に身を落としているかもしれない、怠惰なアンリエッタお姉様。
メヌエット伯爵夫人になったら、アンリエッタお姉様の行方を捜してみよう。
私は、そう思いました。
再会できるなんて、夢にも思わないで。
……なのに。
ある夜会の事です。
アンリエッタお姉様が家を追い出されてから3年が経ちました。
そう。私が、とうとう伯爵夫人になる、そのほんの少し前。
高位貴族だけが集まる夜会に、次期メヌエット伯爵夫人として、ロバート様にエスコートされて参加した夜会で。
「え……!?」
私は、目を疑いました。
そこには。……そこには、居たのです。
あの日、家を追い出された、怠惰なアンリエッタお姉様が。
「どうして……!」
私の心は、ぐちゃぐちゃになります。だって。だって、そこに居たアンリエッタお姉様は。
「──あら。久しぶりね、メアリーアン。ふふ」
「アンリエッタ……お姉様……!」
お姉様は、綺麗な男性にエスコートされて現れました。
着ているのは、きらびやかなドレス。
指には宝石の付いた指輪。
宝石の付いたネックレス。
よく磨かれた金属の髪飾り。
上等な布で作られたであろうドレス姿。
そして横に立っているのは……たしか、侯爵家の……。
「元気にしていた? メアリーアン」
ニコリ、と。あの頃には見た事がないような、幸せそうな微笑みで。
アンリエッタお姉様は私に向かって笑ったわ。