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最悪

 警視庁特別庁舎。俺達の間で特庁と呼ばれるその建屋に足を踏み入れたのは、初めてだった。

二ツ森鈴鹿(ふたつもりすずか)巡査部長、で良いかな」

 細い銀縁眼鏡をかけた中年男性に名を呼ばれ、俺は「はい」と小さく返事をした。

 特庁二階の東側に位置する捜査特課――通称特課の課長室。男は大仰な机に頬杖を付きながら座り、こちらに品定めするような視線を向けてくる。何とも行儀の悪い人間だ、というのが正直な第一印象だった。

「本庁からとりあえずの顛末は聞いてるよ。見た目と経歴によらず馬鹿だね」

 言いながら彼は机の引き出しを開け、中から取りだした書類を俺に見えるように投げ置いた。俺の経歴書だ。都内のそこそこ有名な私大を卒業後、まあどうせなら公務員が良かろうと適当に決めた道だった。適当に決めたがそれなりに真剣にやって来たつもりで、事実左遷と言っても過言では無いこの状況に納得はしていなかったが、彼曰くの顛末を思うと理解せざるを得なかった。

 しかし何とも腹立たしい。脳内に焼き付けられたあの憎々しい顔を思い出すだけで表情が怒りに歪みそうだ。舌打ちしたかったが上司の前なので我慢していると、とうの上司である漣課長は突然けらけらと笑い出した。

「そう悔しそうにしない。ここにいる殆どは君の仲間だからさ、悔しい気持ちごと受け入れては貰えるよ」

「……そうですか」

 仲間、ねえ。俺はちらりと自分の左半身に目をやった。そこにはどう見ても他者と変わらぬ肉体があった。

「しかし左半身全部機械化(モデリング)してる人間なんて初めて会ったなあ。すごいもんだね」

 そうですね、と気のない返事を返しながら、俺は右手を力一杯握りしめた。

 俺の体の左半分は、本物の肉体では無い。

「下半身とか上半身は良く聞くけど……事故か何か?」

「ええ。高校の頃、通りかかった工場の爆発事故に巻き込まれて。器用に左半分だけ焼かれたんです」

 だから俺の体は、半分だけ機械で出来ている。

 人間の体と遜色ない外見をした、脳波で動きを完璧に制御出来る機械義手が生み出されたのは、今からおよそ三十年ほど前になる。現在では義手・義足だけでは飽き足らず、各臓器や眼球までも機械に置き換えることが可能となった。

「それは不運だったね。まあうちとしては都合が良いんだけど」

「は?」

 都合が良いとはどういう事だろうか。俺の体はごく一般的な機械化(モデリング)であるから、そんじょそこらの人間と変わりない。実際、左半身は残された生身の右半身の感覚に合わせて調整をしている。それが都合の良さに繋がるとは考えがたかった。海外では戦闘に特化したアーマータイプのモデリングもあるらしいが、生憎この国ではお目にかかる機会は無い。

「知っての通り、ここでは機械体(モデル)専門の事件を取り扱っている。二ツ森は一係。暴行、殺人……まあ多いのは暴行事件かな。君は背が高くて体付きも悪くないから、まあ務まるんじゃないかな」

 適当なことを言う人だな。自慢ではないが、警察学校での武道の成績は見事にど真ん中だった。可もなく不可もなく。一般人よりは強いが経験者には逆立ちしても敵わない。それでも背が高い、と言うだけでそれなりに威圧感を与えることは可能だし、相手によっては効果覿面なのでそれなりに強いつもりになっている。

「さて、一緒に来てくれ。君のパートナーを紹介したい」

 捜査担当の警察官は、基本的に二人一組で行動する。どうやらここでは互いのことをパートナーと呼ぶらしい。

 課長は立ち上がり、足早に部屋を後にする。付いてこい、ということだろう。部屋から出ると、彼は東端の階段の前でこちらに向けて手招きをしていた。エレベーターも、特庁の真ん中を貫く大階段も使わないのか。小走りで追い着くと、彼の後ろについて階段を駆け下りる。

 地下一階まで降りて、案内された扉には「第二倉庫」と記されていた。何故倉庫なんかに、と口にする前に、課長は俺に中に入るように促した。ほんの一瞬俺が躊躇った間に課長が扉を開け、するりと滑り込むように入り込む。

「早く」

 囁くような声だった。俺は慌てて中に入ると、課長は廊下に顔を出して、何度か辺りを見回してから音を立てないように扉を閉めた。

「あの」

「こっちだ、急げ。誰か来ると困るんだ」

 困る? 困るってどういう事だ? そもそもパートナーを紹介すると言われて何故倉庫なんかに連れて来られたのか、さっぱり分からない。それに何故課長はこんなにも隠れるように行動しているんだ。

 疑問符を浮かべる俺を余所に、課長はどんどん奥へと歩を進めていく。空気がどんどん冷え込んで酷く寒かった。

 やがて、最奥の壁の手前に積み上がった段ボールの山の前で足を止めた。山の隙間を縫ってさらに奥へ進むと、課長は突然しゃがみ込んで床の埃を払い始めた。

「あの、一体何を」

「ああ、あった。はい、引っ張って」

「え……」

 埃塗れの床に隠されていたのは、扉だった。飛び出した引き手を言われるがまま持ち上げると、ふわりと生暖かい空気が隙間から漏れ出してきた。舞い上がった埃に思わず咳き込むと、静かに、と課長がこちらをじろりと睨み付けてくる。

「降りるよ」

 示された先、扉の向こう側には、更に地下へと続く階段がほぼ垂直に伸びている。それは人間一人通るのがやっとのような幅しか無くて、まるで地獄の入り口のようだった。込み上げてくる風が俺を飲み込もうとしているかのような錯覚を起こして、たたらを踏んだ。

 課長は右手を先に潜り込ませると、何かを探すようにぱたぱたと動かす。やがてぱちりと乾いた音がして、地獄の門に明かりが灯った。

「先行って。扉閉めなきゃいけないから」

「あの、ここは一体」

「着いたら説明する。今は急いで」

 半ば押し込まれるようにして、俺は階段に足を踏み入れた。こつん、と足音が酷く反響する気がする。ささやかな踊り場まで降りると、どん、と鈍い音を立てて扉が閉められ、課長が足早に降りてくる。

「いやあ、やっぱり狭いね。ま、ルートは幾つかあるんだけどこれが一番早いし」

「これ、一体何処に続くんですか」

 やっと追い着いてきた課長は、早く進めと言わんばかりに俺の背中を軽く押した。

「特別室」

「は?」

 反射的に足を止めて振り向いたが、早く、と両手で無理矢理顔を正面に戻された。仕方ないが、今は進むしか無いらしい。暖色の照明の中、地獄へと続く階段はもう二つ踊り場を越えて、やがて細い廊下に出た。

「右の一番奥ね」

 言われたとおりに右を見遣ると、ぼんやりと薄暗い、古い潜水艦の内部にも似た突き当たりに、鉄製の扉が見えた。近付いてみると、扉の端と、その横の壁にドアハンドルが取り付けられ、太い鎖でぐるぐると何重にも縛り付けられていた。

 俺は妙な気味悪さに思わず足を止めた。これは一体何だ。何故こんなことをしている。そもそも、この場所は一体何なのだ。これはまるで誰かを監禁するための――

「課長、あの、パートナー、って……」

「ほら、ここに南京錠があるから。三つね。番号はこれ。今覚えて」

 課長は俺に構うこと無く、鎖を留めていた南京錠のダイヤルを回しながらこちらに見せてくる。

 がちゃん、がちゃん、がちゃん。三回音を立てて全ての錠が外れると、慣れた手つきで鎖を解き始める。解けた鎖を足下に投げ捨てると、ドアハンドルの横に仕付けられた小さなカバーを開いた。どうやら最終解錠にはパスコードが必要らしい。打ち終わると、これね、とまた俺に覚えるように促した。

「遅れたからなあ。機嫌が悪いかもしれないね」

 まるで駄々っ子の面倒を見る父親のような台詞と同時に、タッチパネルが軽やかな電子音を響かせた。

「ほら、最後に表示されたこれ覚えといて。出るときに必要だから」

 課長ははあ、と腹の底から出したような大きな溜息をつくと、ドアハンドルに手をかけて、いかにも重そうな鉄扉を引いた。ぎい、と蝶番の軋む音が響いて、俺は固唾を飲んだ。

「入りますよー」

 扉の向こうには、意外にも快適に見える居住スペースが広がっていた。

 ダークグレーのカーペットが敷き詰められているここは、どうやらリビングにあたるらしい。真ん中にはオフホワイトのソファがL字型に置かれていて、机を挟んだ対面の壁には大型のテレビが備え付けられている。ソファには誰も座っていないがテレビの電源は入っているようで、ごくごく小さな音量でコメンテーター達の会話が辺りに響いていた。

「靴、ここで脱いでね」

 扉の前だけタイル張りになっていて、どうやら玄関でいうところの三和土の役割を果たしているらしい。言われたとおりに靴を脱いで、カーペット部分へと足を踏み入れる。思ったよりも柔らかい。

「ここは一体……」

『ずいぶんと寄り道をされたようですね』

 言いかけた瞬間、機械音声に遮られた。妙に不自然な抑揚のそれは、人工知能の発する音声に良く似ている。感情はないが芯のある美しい声だった。ロボット系の家具でも置いてあるのだろうか。辺りを見回したがそれらしきものは見当たらない。すると混線したようなノイズ音が頭上から降ってきて、見上げると高い天井の隅に、簡素なスピーカーが設置されていることに気が付いた。どうやらあれから聞こえたらしい。

「遅れてごめんね。今度美味いものでも差し入れるから、機嫌直して」

『では欲しいものリストを送ります。限定品のアイスから優先してください。あれは入れ替わりが激しい』

 声色は女性のようだった。謝りながら食事で機嫌を取ろうとする男と、拗ねはしてもちゃっかり奢って貰う女。まるで痴話喧嘩に巻き込まれた気分だ。

『お二人とも奥へどうぞ』

 ソファの向こう側、壁際に取り付けられた背の高い本棚の横に、質素な扉があった。課長が迷わずその扉に向かうので、俺も後を追う。控えめなノックをすると、どうぞ、とやはりスピーカーから機械音声が響いた。

 奥はどうやら仕事部屋のようだった。六畳くらいはあるだろうか。リビングのような華やかさは無く、壁一面に本棚が敷き詰められている。俺は機械に疎いのでよく分からないが、モニターが数台と、メインで使っているらしい少し大型のコンピューターが机の上に並んでいる。照明をやや落としているのか、リビングに比べて少し薄暗い雰囲気だ。

 手前の椅子に、誰かが座っている。その人はくるりと椅子を回転させると、まっすぐに俺達を見遣った。

 オーバーサイズの白いタートルネックセーターに、はっきりとシルエットの分からないブルーグレーのワイドパンツ。もこもことした暖かそうなルームシューズを履いていて、爪先は見えない。

 その人は、両手に抱えた端末機を指先で叩く。それを合図に、机の端に置かれた小さなスピーカーがノイズを吐き出した。

『いらっしゃい』

 音声自体は女性のものだが、その人自身は女性のようにも男性のようにも見えた。喉元から顎周りにかけて、セーターで隠されてはっきりと確認できないせいだろうか。酷く中性的だ。体付きも女性にしてはややがっしりしているし、男性にしてはやたら華奢な気がする。足を組んだその上に投げ出された両手は恐ろしいくらい整っていて、濃い色のパンツの上で気味悪くも白く浮いている。涼やかな目元はぞっとするほど大人びているのに、襟元から覗いた頬はふっくらとしていて不自然に子供っぽい。

 年齢も性別も、この人の前では全てが無意味なカテゴリーに思えた。

「課長、まさか……?」

 戸惑う俺を、その人の真っ直ぐな瞳が容赦なく貫いた。切れ長の目を縁取る長い睫が何度か瞬いて、病的に白い肌の上に紅で描いたような唇がうっすらと弧を描く。男にしては長い髪が一束、はらりと落ちて目元を隠す。それを鬱陶しそうに耳にかける仕草は優雅だ。

 まるで背中を指先でなぞられたかのような怖気が、瞬時に全身を駆け巡った。

「うん。君のパートナーだよ。制約付きのね」

「制約?」

 制約とは何だ。何も聞いていない。が、こんな状況下にいる人間とまともなバディを組める気もしない。そもそもこの環境は一体何だ。この人は一体何者なんだ。どうしてこんな場所にいて、機械音声なんかで喋るんだ。男なのか、女なのか、大人なのか、子供なのか。

 次々と疑問が溢れるせいで言葉が追い着いてこない。しかもその疑問が想定どころか常識の範囲を超えている。キャパシティオーバーで今にも頭が破裂しそうだった。目の前がくらくらする。視界の左端で星がちかちかと瞬いた。

 課長は俺を無視して、その人に向き直る。

「彼がね、二ツ森鈴鹿。これから仲良くしてあげてね」

 仲良くって、子供じゃあるまいし。その人はまたもや端末に短く何かを打ち込む。スピーカーから『よろしく』と機械音声が響いた。

 俺は文字通り頭を抱えて、その場に蹲った。

「おーい、大丈夫?」

 暢気な声が頭上から降り注ぐ。

「大丈夫なわけないでしょ……何なんですかこの状況は。この人何者なんです? 名前は? 男なの? 女なの? どうしてこんなところにいるんですか? これいわゆる軟禁ですよね? 警察組織が軟禁とか有り得ないでしょ。それで何で俺のパートナーなんですか。多分喋れないんですよね? この状況でどうやって組めって言うんですか無理ですよっ」

 堰を切ったように疑問と文句が一緒くたに混じり合って放出される。この状況ではい、よろしくなんて言える人間がいるなら是非ともお目にかかりたい。そいつはきっと倫理観と道徳心の欠如しているクズだ。ついでに常識も生まれる前に捨てたタイプだろう。

 俺の心配やら混乱やら反抗やらを余所に、課長はははっ、と乾いた笑い声を吐き捨てた。

「まあそりゃあそうだろうね。この状況ですぐよろしく、なんて言える人間だったら俺も困る」

 課長はしゃがみ込んで、俺に目線を合わせてくる。彼は眉間に刻み込まれた皺を更に深くさせながら、小さく舌を鳴らした。

「だけどね、これはある種の運命なんだよ。信じる? 運命」

「はあ?」

 急にスピリチュアルな話が始まった。パートナー自体も信じがたいが、この上司ですら信じて良いのか定かではなくなり始めていた。足下が確実に揺らいでいる。

「この人のパートナーであれるのは二ツ森、君だけだよ。警察にもまあ色んな奴がいるけどね――君以上にこの人と共にあれる人間はいない」

「だから何で俺なんですかっ」

「つまりはそれが運命なんだなあ。諦めなよ、運命ってのは大抵想像とは違う形で想像とは大きく違うものがやってくるんだ。俺もそうだった」

 子供をあやすような優しさで背中を叩いてくる。それを子供みたいな乱暴さで振り払うと、立ち上がって”パートナー”へと勢いよく歩み寄った。興奮しすぎたせいか、左目の視界にはまだ星が瞬いている。

 パートナーはこれまた子供のようにきょとんとした表情で俺を見上げて、何が可笑しいのか小さく鼻で笑う。その僅かな行動だけが大人びていて、独特のアンビバレンツさをより一層際立たせた。

「名前は?」

 俺の問いに、端末へ指を走らせる。

『名前は無い』

「無い?」

 からかっているのか。眉をぴくりと動かした俺の様子を気にも止めず、更に何事かを打ち込んだ。

『好きに呼んだらいい。私は二ツ森と呼ばせて貰うよ』

「無いわけないでしょ、馬鹿にしてるの?」

「無いわけあるんだなあ」

 突如割って入った課長を俺は容赦なく睨み付ける。普段なら失礼だと憚られるかもしれないが、この状況下ではそんなこと気にしていられない。

「この人に名前は無いよ。正確に言うと……言っていいのかな、まあパートナーだし、いいか。この人はね、名前を名乗ることを禁止されている」

「禁止……?」

「名前を名乗ること、喋ること、およそ自分の痕跡がこの世界に残ること。あとはこの部屋から出ること。その一切が禁止されている。今のところね」

 妙に含みのある言い方だった。

 名乗ることを禁止されている? 何故そんな制限を課さなければならない。喋ることも許されないなんて。軟禁もそうだが、人権侵害どころか犯罪の域だ。そしてそれを当たり前のように受け入れているその人自身が、一番分からなかった。

 完全に足下が崩れた。俺はもうここに立っていられる自信が無い。

「課長」

「ん?」

「この人、一体何をしたんですか」

 ああ、と彼は小さく唸る。その人は愉快と言わんばかりに、今度は目元まで細めて笑う。赤い唇に添えられた指先は細くて、この場に不釣り合いなほど扇情的に見えた。

 きっと犯罪者だ――直感的にそう思った。それはこの人を取り巻く環境に懲罰的なものを感じ取ったからかもしれないし、この人自身を取り巻く禍々しい不穏さに無意識に圧倒されたからかもしれない。唇を摘まみながら、俺を舐め回すように見つめてくる。品定めでもしているのだろうか。不愉快すぎて舌打ちで返してやった。

「へえ。二ツ森にはこの人が犯罪者に見えると。酷いこと言うな?」

『悪いことはしてない』

 まるで他人事のようなその言葉に、酷い嫌悪感を覚えた。

「こら。余計なこと言っちゃダメだろ」

『すみません』

 端末を叩くとき以外、俺から視線を離さずにいる。意外と凜々しく形の整えられた眉がぴくりと動いて、ほんの少し伏せがちに傾けられた顔に小さな影が落ちる。

『これからよろしく、二ツ森』

「よろしくって……部屋から出れもしないのに、どうやって捜査するのさ」

 現場にも行けない、聞き込みも出来ない。せいぜい俺の集めたデータを整理して推理するくらいが関の山だろう。しかしそれは二人だけでは無く、チーム全体で行うべきことだ。

「他の皆は? この人のこと知ってるんですか」

「いや、ここでこの人の存在を知ってるのは俺だけ。そして今日からは俺とお前の二人だけ。誰にもバラしちゃダメだよ? 首が飛んじゃう」

 だったら尚のこと捜査なんか出来やしないじゃないか。幾ら二人一組で動くとはいえど、結局のところ捜査はチーム戦だ。しかしこの人はチームの一員ですらないし、なれもしない。

 俺は額に手を当てて盛大な溜息をついた。意味が分からない。指の隙間からその人の様子をちらりと覗えば、やはり真っ直ぐにこちらを見据えていた。しばらくすると、何やら端末に打ち込み始めた。伏し目がちになると長い睫が一層目立つ。やがて一瞬のノイズの後、

『二ツ森となら捜査が出来る』

 顔を上げたその人は、真剣な面持ちを浮かべていた。視線が真っ直ぐに俺の心臓を貫いて、どくりと大きく脈を打つ。無意識のうちに小さく震えていた。それを隠すように右手で左手を押さえ込むように握った。体温調整が成されているはずの義手が、やたらとひんやりしていた。

「はあ? 俺となら? 何で?」

 喉がまだ震えていた。絞り出したような声が響く。

 気を抜くと、首を縦に振ってしまいそうだった。俺の意志は常識という薄い皮一枚で繋がった状態で、彼をどうにか拒絶しようとしている。

『詳しくは教えられない。でも二ツ森がいれば、私は何処にだって行ける』

 ぞわりと産毛が逆立った。この人を信じてはいけない――全身の細胞が警鐘を鳴らしている。鳴らしているのに、あの瞳でもう一度貫いて欲しくなるのは何故だろうか。邪念を振り飛ばすように激しく頭を振った。

「意味、分かんない……お前の言う通り、捜査が出来たとしても。名前も無い、経歴も怪しい、おまけにここから出られない。理由も話せない。詳しくは言えない? 冗談じゃ無い。俺はそんな人間を信用出来ないね」

 殆ど罵りのような勢いを持つ言葉だったが、その人は顔色一つ変えることはなかった。そりゃあそうだろう、と言いたげな表情を浮かべている。その態度が殊更に俺の神経を逆撫でした。

 掴みかかってやろうと右腕を伸ばした瞬間、横から伸びてきた課長の腕に止められた。

「二ツ森。これは上官命令。この人と組むんだ」

 行き場を失った手が、課長の肩を鷲掴みにした。

「無理です! こんな訳の分からない人間と組むなんて有り得ない」

「じゃあどうする? 言っておくけどあんな問題を起こしたお前を引き取ってくれる部署なんてないからね? 俺がどんだけ頭を下げてお前を貰ってやったと思ってるの。大変だったなあ、辞表書かせるとか話が出てたのを撤回させてさあ」

「……だったら、辞めます。恩知らずだと思われても」

「ふーん……このご時世そんな体でねえ」

 課長は肩に掛かったままの俺の右腕をはたき落として、ダンスに誘うかのような手つきで左手を取った。俺の、機械の手。

「雇ってくれるとこなんてあるのかな。ただでさえ警察上がりって一般では人気ないのにね。二ツ森は自信家なんだなあ」

 挑発するような言い方だ。いや、実際に挑発されている。分かっている。こんな体では新しい職にありつけやしないなんて、自分が一番理解している。

 憤慨しすぎて頭に血が上ったのか、再び左目がちかちかと瞬き始めた。俺は手を振りほどくと、瞼の上からやや乱暴に左目を押さえた。弾力のある右目とは違う、硬い機械の左目。そしてそれに触れている左手も、人工繊維で組み上げられた機械だ。左耳も、左足も、左半身を覆う全ての部位は、全部。

 つまり俺に選択肢は無い。課長の言う通り、得体の知れない人間をパートナーとして受け入れて、捜査を行う。その道しか残っていないのだ。

『二ツ森』

 機械音声が俺を呼んだが、そちらを向くことは憚られた。するとその人は端末を机の端に放り投げると、何やらキーボードに何かを打ち込み始めた。無機質なスクリーンセーバーが流れていたモニターにパネルが浮かび上がって、一瞬ジャギーのような乱れが画面に走り、鮮明になった画面に一人の人間が映し出された。

「……は?」

 これでどうだ、と言わんばかりにその人は俺を見遣った。背中を預けたチェアの背もたれがぎしりと重く軋んだ。

 モニターに映し出されているのは、その人が俺を見上げている、まさにその光景だった。その人が瞬きをすると、画面の中のその人も同じように瞬きをする。軽く頭を振る。僅かに遅れてモニターの中でも同じ動き。動揺した俺の視界が揺らぐ。やはりモニターの光景も同じように揺らいだ。

『視界が高くて面白いな。新鮮だ』

 映し出されたのは、あろうことか俺の今見ている視界そのものだった。

 どういうことだ? 俺は無意識に自分の左目を隠していた。モニターの中から大きな手が現れて、画面を乱雑に覆う。軽くジャギーが走って暗転した。視界をハックされているのだと気付くのに時間はかからなかった。

「嘘だろ……そんなこと出来るなんて……」

「だからお前を呼んだんだよ。このデカい警察組織の中、視覚、聴覚、触覚……五感のうち三つも機械化(モデリング)されてる人間は二ッ森、お前だけだよ。感覚を共有出来れば出来るほどこの人の行動範囲は広がる」

 感覚を共有? その瞬間、俺の中にぞわりとした嫌悪感が広かった。自分を内側から見られているという、通常なら有り得ない感覚。自分を乗っ取られているという、有り得てはならない感覚――

『安心して、プライベートは見ないから』

「あっ……たり前でしょ、ふざけるなよ!」

 怒りに震える両手は行き場がなくて、ぐっと拳にして握りこむ。そんな俺の様子を見て、その人はふっと笑ったようだった。艶やかな下唇をぺろりと舐める仕草が艶めかしい。モニターに映ったままの視界は、彼の口元にピントを合わせていた。

「表向きは特別に単独行動を命じられてる、ってことで。一先ずはよろしく」

「……はあ」

 返事なのか溜息なのか判らない声が出た。追い詰められた人間は何をするか分からないと言うが、そんな中で険しくとも一本道を示されれば大人しくそちらに向かうしか出来ないのだ。自分がそれなりに常識人だった事を今だけ呪う。もう少し向こう見ずな性格だったら、こんな場所とっくに飛び出して、課長の机に辞表の一つや二つ、叩き付けてやっているのに。

 俺は横目でパートナーの様子を覗った。相変わらず真っ直ぐに俺を見つめて、何やら考え込んでいるのか下唇をずっと弄くり回している。時折唇の後ろ側から、てらてらと濡れた粘膜が顔を覗かせる。

 見てはいけないものを見た気がして、咄嗟に目を逸らした。同時にスピーカーから小さくノイズが流れて、

『左目、早めに調整に行った方がいい』

 反射的に左目を押さえた。

「……なんなんだよ」

 右目で睨み付けると、肩をすくめて見せただけで、その問いには答えてくれなかった。

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