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クロワッサンにはあまーい好奇心を

 私――一条院楓はフランス料理で一つだけ嫌いなことがある。


 それは朝食である。フランスの朝食がクロワッサンにカフェ・オレというのは有名な話であるが、私が知る限りフランスの朝は甘いのである。バケットにしてもパリジャンにしてもたっぷりのバターとジャムをつけて楽しむのがご当地流だ。さらにクロワッサンにもクリームやベリージャムを塗りたくるのである。


 正直、甘い以外の味がしないというのがフランスの朝食だと私は思っている。

 晩餐にはひどく手をかけるにも関わらず、彼らの朝はひどく簡素で甘い。もしかするとフランス人の九割が低血圧で朝に弱いからではないかと疑ってしまう。とはいえ、死んでしまって血圧が皆無になった私が何かを言える立場にはない。


 言える立場にあるものと言えば生きているものだ。


「普段はご飯派だけど、こうやってパンっていうのも悪くないね」


 斜めに薄く切られたバケットにかぶりつきながら大沢一おおさわ・はじめはバリバリと音を立てる。バケットにたっぷりと塗られていたジャムが頬についているが彼が気にする様子はない。これで私たちの教師だというのだから困ったものである。


「先生。よく食欲ありますよね」


 呆れたような顔で桜崎小春さくらざき・こはるは自分の前に置かれたクロワッサンとエスプレッソの小さなカップと大沢の前に置かれた山と積まれたバケットと各種ジャムにたっぷりと注がれたカフェ・オレを見比べた。


「そりぁ、朝から一条院の死体を見つけて桜崎の名推理を拝聴したんだ。腹も減れば血液中の糖分も減っている。それに何といっても緊急時に役に立つのは糖分だ。糖分がなければ動けるものも動けない」

「先生。それはダイエットにいそしむ乙女からすれば悪党のセリフですよ」

「悪党ねぇ。悪党よりは甘党といってほしいんだけどね」


 大沢はダイエットなど考えたこともないようにさらにバケットを食べ進める。とはいえ、小春がダイエットしているとは考えたこともなかった。学園ではいつもこの手のヒロインの如く小鳥のエサほどしかない弁当を食べていたのでてっきり小食な人間だと思っていた。全体的に小柄で小顔な彼女でも体型に気を遣うのかと私はひどく驚いた。


 反対に大沢は今はいいかもしれないが、早々に暴食を控えるべきである。いま彼は甘党とか可愛らしいことを言っていたが、別に甘いものじゃなくてもパクパクと食べていた。こういう人間は年を取ると一気に太るのだ。


「それって自白だったりします?」

「悪党を否定しないで甘党と誤魔化したからか。よくあるタイプの嘘はついてないけど本当のことも言ってないってやつだな」


 小春がうんうんと縦に首を振るが大沢は一心不乱にバケットに食らいついて一気に飲み込んだ。


「探偵小説でもなし。わざわざそんなめんどくさい言い回しするわけないだろ」

「ですよねー」


 ぺろりと舌を出して小春が自分の頭をこつんと叩いて見せる。仕草は可愛らしかったが、あまりにも作ったものらしすぎて大沢はため息をついて訊ねた。


「桜崎は少年探偵団たちと一緒にいなくていいのか?」

「上川君を助け隊が厨房でバケットを自ら切って毒見をしているのを見るのもちょっと気が引けたので」

「そうだよなぁ。せっかく飯をつくってもらっといて怪しいから自分たちで用意するって厨房に押し込むのはあまりいい気はしないわなぁ」


 耳を澄ましてみれば厨房のほうで数人の男性の声が響いている。どうやら上川たちが毒殺を警戒してシェフの斎藤の用意したものではなくほかの食材で朝食を用意しようとしているらしい。警戒心は良いがそれが合理的であるかはまた別の話だろう。


 少年探偵団の声に押し出されたのか二十代半ばの女性が明らかに怒った様子で食堂に入ってきた。彼女は大沢の顔を見つけると彼の横までつかつかと歩いてきた。


「あなた、あのボンボンたちの先生なんでしょ? 仕事の邪魔だからどうにかしてよ」


 真っ黒なワンピースに真っ白なエプロンをした彼女はマンガで観るメイドそのものであったが、口調は全くの別物だった。


「いや、まいったね……あなたは」

「川部です。川部唯子。この訳の分からないお泊り会のためにラ・ラパンからシェフと一緒に派遣された即席メイドですよ。安達を毒殺したのはお前たちかもしれないから、お前たちの作ったものは食べない。厨房を貸してもらおうかってバカなの?」


 貯め込んだ鬱憤をぶちまけるように川部は大沢に上川たちの物まねをまじえながら詰め寄る。メイドさんからなじられるその姿は、漫画やドラマでもお目にかかれない稀有なものであった。


「いやー、本当に困ったな」

「困ってるのはこっちなんです! 殺人事件は起こるわ。なぜか犯人扱いされるし。普通に考えたら分かるでしょ? 私たちみたいな雇われメイドとシェフがあんなどこの子か知らない高校生を毒殺しても得なことなんてあるわけないじゃない。そもそも安達っていう子も一条院とかいう子も知らないんだけど」


 川部の言うことはおおむね正しいと思う。


 安達は知らないが、私は彼女や斎藤シェフのことを知らない。もしかしたら一度くらい彼女たちの働くレストランで食事をしたことがあるかもしれないが、彼らに殺されるような関係はないはずである。逆に言えば明らかに自分たちが犯人だと疑われるようなお茶の場面で彼女たちが安達を殺す必要もない。


 もし、動機があるとしても私と同じように就寝中に殺したほうがよっぽど確実なはずである。だが、犯人は多くの人々が見ている前で安達を毒殺した。まるでそれが合理的だとばかりのように。


「でも、川部さんたちにしても雇い主の上川が死んだら困るでしょ?」

「そうなのよね。うちのレストランのオーナーはあのお坊ちゃんの父親だし死んだらきっと責任とれってことでクビよね。クビ。ああ、憂鬱になってきた」

「ちなみに上川の親父さんとトラブルとかないの?」


 大沢がわざとらしく声を潜めるが、近くにいる小春にさえ聞こえる声だったので、川部は少しだけ笑った。


「ないない。お金だけはしっかりくれてるもの。経営も料理も斎藤さんに任せきりだしもめるようなことないのよ。そういう意味では良いオーナーよね。今回の出張も別料金で払ってくれてるし」

「さすがはお金持ち違うね」

「そういうあなたもお金持ちなんでしょ?」


 川部に言われて大沢は乾いた声で笑う。


「いやいや俺はしがない教師だよ。安月給安月給」


 手を左右に振って否定する大沢を川部は鼻で笑うと「じゃ、いくわ」と厨房のほうへと消えていった。彼女が去ったことを確認して大沢は「そうだとどれほど良いか」と独り言のように吐き出した。


「なんかすごいメイドさんでしたね」


 小春は嵐でも見たような顔で大沢に同意を求める。


「まったくだ。おかげでまた糖分使っちゃったよ」


 大沢がさらに残っていたジャムをスプーンでさらいあげると小春は妖怪にあったかのように「ジャムってそんな直に食べるものでした?」と言った。


「夏目漱石はひと月に八缶もジャムを舐めたというのだから、これが正しい食べ方だよ」

「楓さんがいたら、気持ち悪いって言われますよ?」

「いや、一条院なら気持ち悪いとは言わないよ」


 確かに言わないだろう。ただ、「へぇ」と一言出るかもしれない。それは人間を見たときのものではない。猫がねずみをくわえているのをみたような感覚だ。こんな生き物もいるのかという無に近い感情だ。


「やっぱり、先生は楓さんと仲良しさんじゃないですか? そんなに信用して」


 小春は口をとがらせて大沢に苦情を言うが、別に私と大沢は仲良しではない。むしろ、お互いに別の生物としてあれはああいう生態なのだと感じているに過ぎない。


「それを言えば俺は桜崎、お前とも仲が良いつもりだぞ」


 大沢の言葉に小春は身を固くして椅子を少しだけ引いた。


「へ、へぇーそうでしたっけ?」

「お前、次の成績表期待しとけよ」

「な、なんですか。職権乱用しすぎじゃないですか?」

「大人ってやつは年を取るごとに公私の区別があいまいになる生き物なんだよ。それはそうと」


 大沢は手に持っていた最後のバケットを一飲みにすると小春の皿の上のクロワッサンを指さした。


「喰わないなら喰っていいか?」

「いいですよ。食欲なくなってきたので……」

「悪いな」


 言葉よりも早くクロワッサンをつかむとべったりとジャムを塗って口に入れた。小春はその様子を言葉なく眺めていた。

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