紅茶に殺人事件を一つ
廊下を走る。長く伸ばした髪が複雑なモーションを描いて乱れる。令嬢らしく長く伸ばしているのだが、こういう場合やスポーツをするときにはひどく面倒である。髪を気にしてスピードを落とすとようやく大沢が追い付いてきた。廊下を走るだけでこの有様なのだから日頃の運動不足は深刻な領域に入っているのかもしれない。
玄関を抜けて二つ目の角を回るとひどく困った表情で桜崎小春が青文字で『湯殿』と書かれたプラスチックが掲げられた扉の前に突っ立ていた。
「あら、ひどい顔ね。なにをかかしの様に立っているのかしら?」
「か、楓さん……私はその……」
小春は気まずいのかすぐに私から目を離すと湯殿中を指さした。私はその指に導かれるように中をのぞくと正方形をした更衣室の奥で「大丈夫だぞ」とか「傷は浅い」なんて言う声が飛び交っているらしい。どうやら風呂場で滑って転んだ馬鹿者がいるらしい。
私は手を挙げて眉をひそめた。
「いったい何の騒ぎでございますか?」
白髪に黒ぶち眼鏡をつけた初老の男性がシェフの斎藤隆と侍女の川部唯子と駆け付けていた。この落ち着いた男性は上川家に仕える執事で光岡という。上川の婚約者であったころから見た顔である。私はざっと聞こえた範囲のことを伝えると光岡は「お怪我はございませんか」と慌てて中へ入っていった。が、騒ぎを聞く限り死んでいるわけではないらしい。
「なんだ風呂場で転んだだけか。こんな山奥の屋敷で悲鳴なんてしたら殺人事件かと思うじゃないか」
はあはあと息を切らした大沢は少しつまらなさそうに笑うが、実際にこのタイミングで事件が起きればミステリー小説としてはなかなかの出だしになったかもしれない。浴場で頭を割られた客。内側から鍵の閉められた更衣室。犯人はどうやって被害者を殺し、密室から逃げ去ったのか。とはいえ、現実はくだらないことだ。男ども誰かが風呂場で転んで、悲鳴に釣られた人間たちがカギのかかっていない更衣室から浴室に入っていった。それだけの話だ。
開いている更衣室の中を覗くと、女湯と変わらない調度品が並んでおり、全く変わらない横開きのガラス戸が浴室と更衣室を分けている。浴室の中では横着者がいまだに起き上がれていないらしくガラス戸の擦りガラス越しに上川たちによって抱え起こされているようだった。
「その場合は、女子高生探偵か。お嬢様探偵の出番かしら?」
「君はどちらも該当するけど一条院は探偵というよりも被害者のほうだよな」
「もしそうなら先生の前に化けてさしあげますわ。恨めしやとね」
長い髪を目に流して幽霊のふりをすると大沢は半歩下がって「やめろよ」と苦笑いをした。
「まぁ、そういう意味では桜崎のほうが探偵っぽいかな」
いきなり話を振られた小春は激しく顔を左右に振る。肩口で切りそろえられた少しパーマがかかった髪が揺れた。
「私が探偵だなんてとんでもありません」
小動物のようなこの女に探偵が務まるかは別として、風呂場の中では手当の邪魔とみなされたのか上川や御堂、結城というクラスメイト達がぞろぞろと押し出されてきた。彼らは口々に「人騒がせな奴だ」とか「石鹸で転ぶなんて安達は足元が見えていない」とか安堵を憎まれ口に変えていたが、私を見つけるとその雰囲気は一気に変わった。
「なんだ、君も心配してくれたのか。安達なら少し腰を打っただけで平気だよ」
上川はこちらを見下すように言った。
「よかった……」
背後で小春が皆が平気であることに安堵を口にした。
「それは良かったわ。先ほど料理を投げつけてきた天罰として頭の一つでも割れてしまったのではないかと心配していたのに」
「君のそういうところだ! 他者に対してどうして優しさを見せられない。小春のように人を思いやる言葉くらいできていれば君も少しはまともだと言えるのに」
「ああ」
私は両手を小さく合わせて「そうね。殺人事件じゃなくて良かったわ。さきほどもこんな屋敷で悲鳴だなんてミステリー小説のようね、と心配していたのよ。ね、小春に先生」と微笑んだ。
「あ、はい、いえ」
小春が困惑して右往左往するのをしり目に大沢は目元を手で押し隠してため息をついた。上川は怒りに何かを言おうとしていたがその言葉は奥から出てきた執事の光岡と腰を押さえた安達によって遮られた。
「若様。安達様も打ち身くらいで骨なども大丈夫です。どうでしょう。皆様、騒ぎでお目が覚めておられますし、お紅茶などいかがでしょうか?」
光岡の言葉に上川は「そうだな」と答えると広間のほうに取り巻きたちと移動を始めた。ただひとり安達だけが「少し部屋に戻るよ」と言って客室のほうへ戻ろうとしたが、足元がおぼつかなかったためシェフの斎藤が部屋まで肩を貸した。侍女の川部は人騒がせな人たちだなという表情で光岡にうながされて食堂のほうへ戻っていった。
小春は私と先生の顔色を少しだけうかがうと、てとてとと上川たちの後ろについていった。
「はぁ」
息を吐くと大沢が意外だというような顔をした。
「一条院でもため息を吐くんだな」
「先生は私をなんだと思っているんですか?」
「悪い悪い。どうにも婚約破棄にしてもあんまり気にしているようには見えなかったからな」
大沢は大沢で私のことを心配していたのか意外にも教師らしく生徒のことをよく観察していたようだ。
「別に私は構いませんよ。鉄の女でも鉄の処女でも」
「それは嫌だな。生徒がイギリスの首相とか拷問器具というのは……。まぁ、いいさ。俺たちもお茶をいただこう。お前さんにとっては面倒なだけかもしれんが。さすがにおじさんは喉が渇いたよ」
大沢は三十代前半だったはずだが、どうにも体力面では四十代くらいになりそうだった。
私たちが遅れて広間に入るとすでに光岡と川部の二人がすでにスコーンなどの準備を始めていた。そこに遅れていた斎藤がキッチンで手を洗って戻ってきた。小さなスコーンやクリーム、ジャムが綺麗に盛り付けされた小さな皿は見た目にも美しい。この様子では騒動があろうとなかろうと就寝前のティータイムは用意されていたらしい。光岡の手で席ごとに置かれた皿は正確にコピーしたように盛り付けがされていた。
大きな机を囲むように右から順に上川、小春、御堂、結城が着席していた。流石に上川の隣にすわる気になれなかったので大沢を上川の隣にしてその左隣に座ることにした。ちょうど私の正面あたりに座る御堂は目が合うと少し困った顔をしたがすぐにこちらをにらみつけるような顔をした。
取り巻きというのは大変だと思う。大将の顔色をじっと観察して気に入るような言葉や仕草をしなければならないのだ。とてもではないが私には一日も務まりそうにない。
「いやー、すまない。心配をおかけしちゃって」
部屋に入ってきた安達はひどくおちゃらけた様子で皆に謝った。彼は皆が座っている座席を見渡すと少しだけ困った顔をした。それは彼が座るべき椅子が私と結城の間にしかなかったからだろう。
「一条院。席を一つ詰めてあげよう」
珍しい気づかいで大沢が私の座っていた席へ移り、私は空白地になっていた最後の席に移動した。急にお隣さんが変わったことに結城は驚いたのかもしれないが顔には出さなかった。そういう意味では御堂と結城では結城のほうが腹芸ができる人間なのだろう。
ようやく最後の安達が席に着くとカートを押した斎藤が部屋に入り、カートに置かれたティーポットからカップにお茶を注いだ。その手際はシェフとは思えないほどに手慣れており、紅茶の香りを部屋いっぱいに広げた。花の香りにマスカットの甘い香り。おそらく茶葉はダージリンだろう。もし、これがウバであれば独特なハッカの香りで目が覚めてしまい就寝前の一杯としては不適だと感じたかもしれない。
この選定が光岡か斎藤かは分からないが良い選択だ。
「どうぞ」
侍女の川部が上川から右回りに配膳を行い。最後に安達の前にカップが置かれると上川が微笑んだ。
「すっかりみんなも目が覚めてしまっただろうが、紅茶を飲んで落ち着いた気持ちで就寝してほしい。安達も大きな怪我無くてよかった。だが、あまり皆に心配させるようなことをしてくるなよ」
彼が冗談めかすと「いやー、ほんとに面目ない。お騒がせをしました」と安達が頭を下げた。それを合図にしたかのように上川たちはカップに口をつけた。私以外の人間は砂糖を入れた。珍しいと思ったのは上川が砂糖を入れたことだった。私とお茶をする際は砂糖を入れることのほうが少なかったはずである。女が変わるたびに趣向が変わるというのではこの先が思いやられる。
喉が渇いたと言っていた大沢にいたっては牛乳まで川部に頼んで入れている。それでは油分でまた喉が渇くだろうと思うのだが、彼はそんなことを気にする様子はない。
「しかし、このメンバーで会うのも一年後には難しくなるな」
少し寂しそうな表情で上川が言う。その中に私と大沢が入るのは当然であるが、取り巻きのなかにもそういう者がいるのかと驚いた。
「同じ大学に行ければ楽しいのでしょうけど、僕はどうしても教えを乞いたい教授がいまして」
照れるように結城は頭をかいた。どうやら結城は歴史に興味があるらしく城郭考古学の権威のいる大学に進みたいらしい。他の人間などは上川と同じ大学に進むつもりらしい。それでも御堂は理系に進むというのだから確かに一堂に集まるのは難しくなるだろう。
どちらにしても合格しなければどうにもならないが、大沢いわく「そこまでレベルが高い大学じゃないから大丈夫だろう」ということだからそれほどの問題ではないのだろう。
「でも、寂しくなりますね」
両手で持っていたスコーンを皿において小春がはかなげな表情を見せる。それをたしなめるように上川が彼女の手を握る。
「大丈夫さ。俺たちの友情はどこへ行っても変わらないし、君への唯一の愛は枯れることなどない」
「まぁ」
上目づかいに小春は上川を見上げるとはにかんで見せた。
元婚約者がいる目の前でよくいちゃつけるものだと私は感心しながらクロテッドクリームをスコーンに塗り付けて口に放りこんだ。空気を多く含ませたクリームは重くなく口当たりも軽い。用意されているジャムも果実の香りを消さないように低温でじっくりと煮込まれているのか煮崩れもなくシロップに果実を漬け込んだような出来だった。
甘い雰囲気の中で少し色合いが違うのは安達だった。彼は学園生活三年のなかで恋人の一人もなく、クラスの女生徒から話を聞いても「悪いところもなければ良いところもない」という人間だ。スポーツに秀でた御堂や文化祭などで活躍した結城のような個性が彼にはない。
そのうえで安達は上川の取り巻きという印象が強い。学園を出たあとも上川と同じ大学に進む彼はこれからも上川の取り巻きと周囲から思われるのだと思うと少しかわいそうな気がするが、人に料理を投げつけるような奴が良い奴とも思えなかった。
彼は隣で繰り返される甘い言葉から逃げるようにスコーンに手を出していた。
私はあんなペースで食べると口が渇くだろうなぁとぼんやりと思ったが、隣からむせ返るような咳が聞こえて大沢のほうを見ると頬ばりすぎたスコーンで喉が詰まったのだろう。必死な顔でカップに手を伸ばす大沢の姿があった。ようやくカップを手にした大沢は一気にお茶を飲み干すと「ふぅー」と大きく一息をついた。
「先生。やはり暴食は大罪のようですね」
「こうやってまた息をできているのだから審判では無罪だろ?」
「はぁー、よくそんなこと言えますね。人前であんな必死な形相をしていたというのに」
「なに閻魔大王だっていつも必死の形相だ。俺が同じ顔をしても醜態とは言われないさ」
私たちのやり取りに小春がくすりと笑う。上川たちはそれに少し苦々しい表情をしたが、全く違う表情をしているものがいた。安達だ。彼は紅茶を震える手で口にするとはあはあとマラソンのあとのようなひどく息を乱して胸を掻きむしった。乱雑に手放されたカップはそのまま重力にひかれて床にぶつかると砕け散った。
「おい! 大丈夫か」
隣に座っていた上川が慌てて声をかけるが安達はそれに答えることなくドスンとひどい音を立てて倒れた。紅茶を入れていた斎藤がすぐに安達を抱え起こそうとするが、安達はぐったりとしたまま動かなかった。斎藤は安達の左手首をしばらく押さえていたが、黙って首を左右に振った。
安達健次はこうして十八歳で死んだ。