清々しい朝に笑顔を
『誰も食べたことがない料理』とは何かと問われれば二つの回答があると私――一条院楓は思う。一つは、今まで誰も食べようとしなかった食材を使った料理の場合。文明開化と呼ばれる明治まで日本では牛や豚を食べる食文化はほぼなかった。あってもそれは薬食いと言われるような薬効を期待してのものだった。美味しさを楽しむという意味では明治になって、人々は牛や豚の味を知り、急速にその調理方法を拡げていった。
二つめは、既存の食材を従来と異なる調理方法で加工する場合だ。流行りのタピオカも昔はプディングやブラマンジェに入れられていたが、最近ではミルクティーに入れるという新しい調理によって一躍人気となった。明治のころからあったものが新しい形で人々の前に現れたのである。これもまた新しい料理と言えるだろう。
「誰も食べたことがない料理というのはまた変わったことを」
大沢一は気の毒そうな声を暗い顔をする斎藤シェフに投げかける。食欲の権化たる彼にとっては料理が何であっても構わないのだろうが、変わった料理がでるというのはどこか好奇心をそそられるのだろう声と違い顔は楽しそうだった。
斎藤は口元を両手で覆い嘆息すると厨房でのやり取りを話し始めた。
「上川の坊ちゃんたちが厨房に来られたのは、ちょうど支度が終わる直前でした。寝室のほうでなにかバタバタした様子があったあと、上川の坊ちゃんを先頭に御堂君、結城君がぞろぞろと入ってきました。急なことだったので慌てて手を洗って三人のほうに行くと、一条院さんが昨晩殺されたということと食事に毒が入っているんじゃないかと怒鳴られました」
小春にしても大沢にしてもその様子が簡単に想像がつくようで何とも言えない苦い顔をしていた。そのなかでも小春は考え込むような表情で瞳に映る斎藤も大沢も見えていないようであった。
「そのあと僕や川部さんを押しのけて御堂君と結城君がたどたどしい手つきでサンドウィッチをつくっていましたが上川の坊ちゃんは手持無沙汰だったらしく僕のところにきて、昨日の料理は何だ。ひどく平凡で面白みのない。とおしゃるので先ほどの理由を言うとくだらない。そんなことをするくらいなら誰も食べたことのない料理を出してみろ。そうでなければお前の店は閉店だ。そう言って坊ちゃんは自室へ帰っていきました。そのあとは川部さんが怒り狂って大変でしたよ」
とほほとばかりに両手を挙げて見せる斎藤であったが見た目にも言葉にも追い込まれた焦燥感を感じさせるものだった。すくなくとも彼のような雇われシェフはオーナーから見切りをつけられれば店を維持することはできない。
「だから、川部さんはこっちに来たのか」
「会いましたか? もうひどい言われようだったんです。シェフがもっと強気に言わないから私も疑われるんです! 昨日も料理で遊ぶような真似をしてたのに偉そうに言って……。まぁこんな感じで僕は怒られてしまったんです。でも、事実なんですよね」
「ええ、すごく怒ってましたね。でも一条院に怒られるよりはマシかな。彼女は怒ると怖いんですよ。教師とか関係なく攻めてくるんです。まさに侵略すること火の如く。中華料理は火力が命みたいな勢いです」
一条院楓としての私が大沢に対して怒ったことは一度しかないはずである。それなのに何度も怒っているように言われるのは業腹である。もし。身体があれば大沢の舌を切り裂き大鍋でからりと炒めてあげたいができそうにない。怒るという意味では小春はそういう大きな感情の振れを見せることがない。
どんなときも規則性のある振り子のようにある範囲から逸脱せず、じっとこらえているように笑顔というフィルター越しにしか外界と接しない。彼女の身の上からすれば、自然とそうなるのかもしれないがこちらとしては面白くない。
「一条院さんが? そんな風には見えませんけどね。僕が見る限りどこまでもお嬢様って感じで本当にいいとこの娘さんというのはああいうのを言うのだろうなと思いましたよ」
「そんなのは上っ面だけですよ。一条院はきついんです。なぁ桜埼、お前もそう思うよな」
大沢から同意を促されて小春は、ぼんやりしていた表情から現実に戻ってきた。それは全く別のところからいきなりワープしてきたような様子であったが、彼女はすぐに答えた。
「そんなことありません。楓さんは私の目から見てお嬢様で……。どこからどこまでもお嬢様でした。本当にお手本が目の前にあるような感じ」
そういうと小春は席を立つと「ちょっと失礼します」と二人に頭を下げた。その姿は悲しんでいるようにも怒っているようにも見えて大沢達はそれがどちらか分からないらしく黙って彼女を見送った。食堂を出た小春は一度自室の前に戻るとドアノブに手をつけたまましばらく動きを止めてからゆっくりとドアノブから手を離した。
彼女は無言のまま右隣の部屋に向かうとドアノブを回した。
ドアは彼女が考えていたよりも簡単に開いたらしく、開いた彼女が一番驚いたように眼を見開いた。室内は照明が落とされてカーテンが閉められているため薄暗い。だが、カーテン越しに入る光で真っ暗というわけではなかった。
簡素な正方形の部屋の中にはベットが一つ置かれており、その上にはところどころ赤く汚れたシーツがかけられている。こんもりと人の形をしたそれは慌ててシーツで覆われたらしく、長い髪がはみ出していた。いたるところに残る赤い血の痕跡よりも流れるようにうねる髪のほうが流血のようであった。
小春は改めて私の死んだ部屋の中を確認してドアにもたれかかるように座り込んだ。
そして、小刻みに震えるように息を吐き出した。
悲しみにうちひしがれている少女であればそれはそれで美しかったかもしれない。だが、彼女は涙で震えているわけではなかった。彼女は笑っていたのだ。声も出せぬほどの気色が彼女を包んでいた。左右に開かれた口は喜びに歪み。垂れた瞳はどこまでも冷たい。
誰かが彼女の姿を見れば気でもふれたのではないかと思うだろう。
だが、私は知っている小春は不幸が好きなのだ。自らに訪れる不幸も他人に降りかかる災厄も彼女にとって等しく愛すべき不幸なのだった。家族を失い貧乏のどん底にある自分は悲劇のヒロインとして、自分のことを嫌ってきた女の死でさえ彼女にとっては大切な友人を失った可哀そうな小春を着飾る宝石の一つである。
探偵ごっこだっていなくなった私の代わりを必死で努めようとする健気な小春を飾るものだ。
だから、彼女は自分の推理したものが正しいことも間違っていることも興味がないのだ。ただ、多くの人が彼女を心配し、彼女を守りたいと思う。そうなることだけが小春の望みなのである。だから、小春はここにいる。
そうでなければならなかった。
悪役令嬢がいたのである。そこには当然として虐げられる生贄の娘がいる。いや、生贄ではない不幸であることを糧にできる特別な娘だ。誰もが折れるところで折れず、笑ってしまう。そんな異常を隠した存在。それが桜崎小春なのである。
彼女はひとしきり笑い終えると小さくつぶやいた。
「楓さんが死んじゃった。でも、ちゃんとしないと」
その表情はすがすがしい朝にふさわしい清らかなもので誰も愛したくなる優しいものだった。