エピローグ (旅の終わり)
1971年8月26日
河口湖のキャンプ場をでると国道139号線を富士山に沿って走り駿河湾に
出て国道1号線を静岡、豊橋、とただひたすら走りつづけそして
以前働いていたフジパンのある豊明から国道1号線のバイパス名四国道で
三重県へ、四日市から国道42号線に入り伊勢まで行って伊勢道路の峠を越え
真夜中になっていたが懐かしの我が家に無事に着いた。
家に帰ってから、しばらくはのんびり過ごしていたのだがテレビのニュースで
三里塚に機動隊が突入している映像を見た。
第二次行政代執行が行われたのである。
1971年9月16日からの第二次行政代執行警備のため、警備本部は
総勢5300人の機動隊を動員した。
早朝6時45分に代執行が宣言され、機動隊は一坪地主の土地から退去せず
座り込みを続ける日本社会党議員らと、反対派農民と支援学生が「砦」と
呼んでいた3カ所の団結小屋に立て篭もる空港反対派を排除すべく、
行動を開始した。
一坪共有地で座り込みを続ける350人の排除を午前6時45分頃から開始し
数十分で制圧。
100人が篭城していた木ノ根団結小屋の排除を正午すぎまでに終了。
駒井野団結小屋の制圧を午前8時8分頃から開始し、午後0時半過ぎ、
機動隊が団結小屋内に突入し制圧、午後3時15分には鉄塔が倒された。
テレビで映し出されていたのは以上の部分であったが、これらの
団結小屋に篭城していた反対派農民と支援学生の数は、総勢でも
500人程度で、テレビで放映されていなかった東峰十字路では
激しい戦いが繰り広げられていたのであった。
反対派農民と学生の主力約2000人は、鉄パイプ等を所持して、
数百人単位の「ゲリラ部隊」を編成し、空港建設予定地周辺の農家や茂み
草むらの中に潜んでいた。
警備部隊の堀田大隊は約240人で当日、前6時30分頃、駒井野団結小屋の
東側、小見川県道の東峰十字路に第1中隊、第2中隊が到着したところに
周囲の藪の中から、総勢700名以上の反対派集団が一斉に現れ
大隊を襲撃した。
遅れて到着した第3中隊は別の300名の集団に襲撃された。
特に東峰十字路の第1中隊第1小隊は、200人以上の反対派に包囲されて
孤立してしまい救援が来ないまま、反対派から火炎瓶、鉄パイプ、
竹ヤリ、角材、丸太などで激しい攻撃を受けた。
この襲撃により、福島誠一警部補、柏村信治巡査部長、森井信行巡査の
3名が死亡し、他の隊員20名以上が重傷を負い、部隊は壊滅状態となった。
事件当時、神奈川県警察では常設の警備部第一、第二機動隊の他、
関東管区機動隊が設置されており、関東管区機動隊員は、第一、
第二機動隊と同様に、錬度の高い部隊である。
その一方、襲撃を受けた堀田大隊は、機動隊勤務の経験が無く、
隊員は刑事、防犯、交番、パトカー勤務の若手警察官によ
り臨時編成された特別機動隊であり、装備も不十分な
後方支援部隊であった。
この事件は結果として、常設の精鋭部隊が行政代執行の最前線で
警備実施をしている間に、後方支援にあたっていた臨時編成部隊が
襲撃され、全滅するという構図であった。
たまたま三里塚の幻野祭に参加しそれまで無関心であった私が
空港建設に反対する住民に同情してニュースで団結小屋や実際に見た砦が
倒されるのを見て悲しくなったが、その後東峰十字路での事件を知って、
機動隊員にも家族がいる以上、人を殺してまで守ることがはたして
正義なのかと思い、全ては住民を無視して決めてしまった政府に
全責任があったと思っている。
とにかくこれで北海道ツーリングの旅にかかわるすべてが
終わったと実感しました。
最後まで読んで頂いた方に感謝します。
この後の話は続編の「伊勢志摩フォークソング」で連載




