お日様と過ごそう
ある有給中の昼下がり。久しぶりに帰った実家の庭先で、その匂いは感じられた。
「ようやく夏だなぁ」
私は煙たいはずのその匂いを、深呼吸しながら吸った。
同僚や級友たちからは良く変だと言われるが、私にとってこの実家に帰った時の匂いは最高だ。
というのも、郊外の住宅地にある私の実家は、未だにD社の典型的な蚊取り線香を使っている。その環境で育っていた私は、その匂いがすると夏の訪れを感じていたけれど、「周囲の迷惑になるような匂いの出るもの」というマンションの禁止事項に引っかかるので、都心部での一人暮らしを始めてからは、蚊取り線香を使えなくなってしまったのだ。
なので、ここ数年は、帰省した時に初めて夏の訪れを感じていた。
「おかえり、菜華」
玄関で靴を脱いでいたら、ちょうど夕食を仕込んでいたのだろう、割烹着を着た母親が出てきてくれた。
「お母さん、ただいま。わざわざ出迎えしてくれなくてもいいのに」
私がそう言うと、母親は少しふくれっ面をして、そんなに出迎えられるのが嫌だったの? と言ってきたので、苦笑いしてそのまま家の中に上がった。
「菜華、手を洗ったら、ちょっと手伝ってくれない?」
荷物を置いて、部屋着に着替えていると、母親からそんな声がかかった。
「うん? いいよ」
そう言って、私は慌てて手を洗って、母親の声のした方に向かった。
「――――――何やっているの」
その光景を見た私は思わず固まった。
玄関に来てくれた母親は、料理をするために割烹着を着ているのではなかったようで、机の上には調味長や食材とは思えないものばかりが並んでいた。しかも、部屋中に熱気が漂っている。
母親はガラスボウルの中で、何か白い物質をヘラで練っていた。
「交代して!」
私がそばに来たのを確認した母親は、少しだけ身体を動かし、私にそこで練るのを代わるように命令した。
分かったと返した私はそのヘラを受け取り、混ぜ始めた。
ずいぶんとろみがあるようで、かき混ぜるために力が必要だった。
この重労働から解放された母親は、次に使うのだろう深い木型をどこからか取り出し、私がかき混ぜている隣に置いた。
「じゃあ、菜華。もうその木型に入れて」
私は突然の母親の言葉に驚きつつも、言われたとおり、中に入っている白い物質を流し込んだ。
私がボウルの中の残った白い物質をヘラでかきとっていくのを傍目に、母親は机に置いてあった茶色い小瓶を手に取り、その小瓶から液体を数滴、白い物質の中に入れ込んで私から受け取ったヘラでかき混ぜた。すると、木箱に入っているその白い物質から、柑橘系のいい香りがした。
「――――よし、これで完了。ありがとう、手伝ってくれて」
木型を大きな発泡スチロールに静かに入れた後、母親は私にお礼を言った。
「ううん――ところで、今、作ったの、何だったの?」
私は聞きそびれていたことを聞くと、あれ、菜華、分からなかったの、と真顔で返された。
思い出せずに首を傾げると、石鹸、とすぐに答えを言ってくれた。
「タンスに入れていた石鹸、覚えていない?」
母親に言われて菜華は少しだけ思い出した。うろ覚えの表情をした私に苦笑した母親は、居間にあるタンスから実物を取ってきた。
「これ、菜華が小さい時から作っていたんだけれど、覚えていない?」
差し出されたものを手に取り、匂いを嗅ぐと、先ほどとは違って、薄っすらとだけ柑橘系の匂いがして、残りの大半は木の匂いだった。
だけれど、その匂いは、私の記憶をくすぐるのに十分だった。
小さい頃は、危険だからとそばでじっと見ていた石鹸作り。
いつかは手伝ってみたいと思っていたけれど、結局、なんだかんだでタイミングが合わず、手伝えなかった。
でも、社会人になって、途中参加だけれど、初めて石鹸作りを手伝えた。
「いい匂いだね」
そんな私から出た感想はこれだった。
そんな言葉に、母親は苦笑するだけかと思ったが、心底、嬉しそうだった。
「そう、ありがとう――――あ、菜華」
母親はそう言えば、と言わんばかりに背後の食器棚を探っていた。
「あった。これ、菜華がマンションでも使えるように」
そう言いながら母親が取り出したのは、大きな透明のプラスチック瓶。中には白い粉が入っていた。
まさか、危険なものじゃないよね、なんて思いつつ、蓋を開けると、先ほどの石鹸の香りが漂ってきた。
「その香り、小学校の時からずっと夏になったらずっとこの香りを嗅いでて、『お日様の香り』なんて呼んでいたくらいだったんだけれど、覚えてない?」
母親はにこやかに菜華に訊ねたが、菜華は覚えていなかった。まぁ、そうよね、と言いながら、それを紙袋に入れてくれた。
「その粉をパフで体に塗るといいよ」
母親の言葉に、前にマンションでの蚊取り線香禁止の話をしたんだっけ、と思い出した。
でも、この香りと蚊取り線香の話がどうつながってくるのかが、分からなかった。
「まだ、分かんないようね」
母は苦笑しながら、ある一冊の本を近くのラックから取り出し、本を同じ紙袋に入れた。
「あっちに帰ってから、読んでみなさい。とりあえず、今日はゆっくり休んでいきなさい」
いつも私が一日しか滞在しないこと――職場までが遠い上、連続して三日以上の休みをとれないから――を知っているから、休んでいいよ、と言ってくれた。
「ありがと」
私はその言葉に甘えることにした。
紙袋を持っていき、忘れないように荷物に括り付け、強い日差しを背に受けながら、ベッドの上で少し横になった。
数十分寝たつもりが、気づいた時には、午後四時を過ぎていた。日陰になった部屋に、少し涼しい風が吹き込んできており、慌てて台所へ向かった。
久しぶりの家族勢ぞろいでの食事はすき焼きだったようで、下拵えをしていた。
それを手伝いながら、母親から地元に住んでいる子たちの話を聞いたり、私から反対に向こうで再会した子たちとの話をしたりした。
やがて、すき焼きの匂いにつられたのか、肉を焼き始めた時に父親が、野菜をお鍋に投入し終わった時に、今年で大学を卒業する妹が部活帰りの格好で帰ってきた。
着替え終わった二人と合流し、四人で乾杯して、わいわいとすき焼きを食べた。
一人暮らしして数年経ったからか、一人で食べることに慣れたせいで、あまり一人でも寂しくはなかったが、やはり、家族と一緒に食べれることは何年経っても、楽しい。そう感じられた。
本当は、夜遅くまで四人でいろいろ騒ぎたかったが、何せ私の朝が早い。そうでなくても、妹や父親も早い。
夜の十時過ぎに、ベッドに入った私はかすかに残った蚊取り線香の匂いと、庭の雑草の茂った匂いを嗅ぎながら寝た。
翌朝、高らかに上った太陽によって目を覚ました私は、家族への別れもそこそこに、電車に乗るため、駅に向かった。
駅舎は無機質の白い建物で、朝早く人が少ないせいか、少しだけ涼しい風を感じた。
何本も電車を乗り換えた先に待っていた終着駅。
都心の駅なので、かなり人が多く、彼らから発せられる汗の匂いや香水の匂い、エキナカで売られているお弁当やお惣菜の匂いが漂ってきた。
これらの匂いはいまだに慣れなく、いつまで経っても私がお上りさんだと感じさせられるものだ。
結局、マンションに着いたのはお昼過ぎで、少し夏の暑さにばてていた。
この場所は実家とは違って、草の匂いや田んぼに張っている水の匂いは漂ってこない。むしろ、何も匂わないのだ。
ほんの少しばかりの荷物を片付け、早速、母親からもらった白い粉の成分が何なのかを調べるために本を取り出したが、ふとあることに気付いた。
「何が入っているのか、教えられてないじゃん」
だけど、その心配は不要だった。
なぜなら、本の数か所に付箋が貼られていて、「菜華のパウダー用」と書かれていたから。
そのページをめくって効果の部分を読むとすべてに共通することが書いてあった。
「防虫、だったのか」
道理で蚊取り線香とつながるわけなのか。
母にメールでありがとう、と送った。
早速それを腕に付けてみた。
うん、爽やかな香り。
私がずっと好きだった匂いだ。
そう感じた夏の匂いは、お日様の匂いだった。
作中で、母親から渡された白い粉は『ボディーパウダー』といって、夏の汗ばむ季節などにお肌をさらさらにしてくれるものです。
[レシピ(基本のボディーパウダー)]
・タルク&コーンスターチ:各大さじ1
・お好きな精油※:3滴
材料をすべてよく混合し、茶こしでふるって、容器に入れる。
常温で1か月程度持ちます。
精油は一種類でも、ブレンド精油でもお好きなものを。
作中ではレモングラス&ヒノキ&シナモンリーフを1:1:1で混合したものを使用。
※基本のボディーパウダーの作り方、精油の効能については、『最新版3訂版 アロマテラピー図鑑』(主婦の友社)を参照しています。