ミニチュアのような永遠の波止場
彼女が帰ってきたのは午後十時丁度だった。僕はリタから貰ったヤマハのガットギターでグレイプバインの「風待ち」を練習していた。コーラスの部分はパワーコードを交えて誤魔化した。彼女はいつになく酷く疲れた様子だった。ハンドバッグを投げ出したきり座り込んでしまった。僕はスヌーピーのマグカップにレモンティーを注いだが、彼女は受け取らなかった。「遅かったね。一体どうしたのさ」僕は尋ねてみたが、返ってきたのは無言だけだった。彼女のこんな姿を見るのは殆んど初めてのことだった。いつも明るく元気なのが取り柄の彼女なのだが。誰か他の男と遊んでいるようには見えないし、浮気をするとしたら俺の方だな、と僕は思った。もちろん冗談である。
「会議で何かあったの。ショックなことでも言われたのかい」俺がこんな風に心配することもまた珍しいな、と僕は思った。「私の仕事はね、基本的に守秘義務があるのよ」と守秘義務が彼女の声で喋った。「俺は恋人としてね、基本的に君の悩みに触れる権利があるんだよ」と僕は言った。彼女は両手でまだ冷めていないマグカップを受け取り、呼吸以外の口腔の機能を思い出したように一口飲んだ。「女の子が亡くなったのよ。私が話したことのある高校生の女の子」彼女は堰を切ったように話し始めた。「普通はね、って言い方は変だけど、だいたいの子は遺書を残すの。いじめに遭ったことやドメスティックバイオレンスのこと、男女関係の縺れ、人の数だけ理由があるわ。でもその女子高生にはそれが全く見当たらなかった。だから会議で取り上げられた。理由なく自殺を図る子供を未然に助けられないだろうかって。私はその子にはその子なりの思いがあったんじゃないかって気がするの。最初に連絡を受けたのは学校の学年主任の教師からだった。女子生徒が屋上のフェンスを乗り越えて飛び降りたと。幸い打ち所がよかったみたいで大事には至らなかったけれど、心のケアが必要だから相談に乗ってほしいと言われたのよ。しばらくして、やっと通話することができたわ。その女の子は口数は少なかったけれど、自分の考えていることを私に打ち明けてくれた。でも結局、私はどうすることもできなかった。この一年半で色々な人の話を聞いたけれど、死んでしまったのはエリカだけ」彼女はハッと目を見開いた。名前を言ったのがまずいと思ったのだろう。「こんなことを話して名前まで漏らしてしまうなんて、カウンセラー失格だわ」彼女は膝を抱え目を伏せた。僕は、僕と彼女の間に浮かんだ空気の透過率を計測していた。
長い雨が過ぎ去って、深みを増した秋の気配だけが残った。路面の水溜りは頼りなく薄暮を反射していた。エリカの話をしたあの夜以来、彼女と僕の間でそのことが話題になることはなかった。彼女は専ら、職場に来た大学院生の男の話をしていた。国立大学の研究の一環で2週間センターに通うのだという。テニスと菓子作りが趣味で、実家は歯科医院を経営している。将来は臨床心理士になろうと考えているのだそうだ。水も滴る好男子か、女史達が色めくのが目に浮かぶ。素面と酩酊を親しく同居させながら生きる僕のような落伍者とは正反対の種類の人間だ。「彼はね、私のことを先生って呼ぶのよ」彼女は楽しそうに笑った。教職員に限らず先生と呼ばれる人間は漏れなく聖職者である、というのは僕の考えだった。物書きとして名声を馳せたら俺だって先生になれるかもしれない、と僕は思った。「職場のお姉様方が聞くところによると彼は今フリーだそうよ。随分と二枚目なのに」と彼女は言った。あんまり大学院生の話ばかりするから、彼女は僕に嫉妬心を抱かせようとしているらしい。僕はその手には乗らない。「女心と秋の空」そう呟いて僕は小走りにバス停を目指した。次のバスまではジョン・ケージの「4分33秒」を丸々聴いても余るくらいの時間があった。彼女はすぐに追い着いて来て、半ば引っ手繰るように僕の腕を両の手に抱いた。「何よ、それ」彼女は上目遣いで僕の顔を覗き込む。「昔の人の言葉さ」と僕は言った。そういえばいつかそんなタイトルの映画を観たっけ。ストーリーはすっかり忘れてしまった。
揺られていた。バスの走行音は次善のインダストリアルみたいだった。気付いたら彼女は僕の肩に頭を預けて眠っていた。眠ったフリをしているのかもしれない。全く無邪気な女だな。そんな彼女のことを僕は憎からず思った。いつもと同じ帰り道も彼女といると景色は違って見えた。それだけだろうか。
「ねえ、好きって言って。好きって」彼女は僕の下で小さく叫んだ。彼女とセックスをしながら僕はエリカのことを考えていた。僕はエリカのことを知っている。そのことは彼女には黙っていたけれど。フラッタ・リンツ・ライフが出演したイベントの打ち上げの席で僕はエリカと出会った。出会ったといっても少しの言葉を交わしただけだ。僕はなけなしの感謝として観客に作詞家の名刺を配っていた。いかにもバンドマンといった大人達の喧騒の中で、凛として涼しげな少女は際立って見えた。「あの歌詞は貴方が書いたのね」とエリカは言った。「そうだよ」僕は答えた。きっとあの子だな、いや間違いなく。何故、今エリカのことが浮かぶのだろうか。ベッドの彼女に向けて求められた言葉を囁いた。そして、彼女の深い喜びの中へ僕は果てていった。こんな日々がずっと続けばいいなと僕は思った。或いは、俺はいつになったらこの暮らしから抜け出せるだろうかと思ったりもした。ミニチュアのような永遠の波止場で、僕と彼女はいつまでも風の音を聴いていた。