Alea iacta est - 3
本来ならDSの中で処理を行うはずの悪魔召喚アプリが現実を侵食する。
そんな異常事態に、物理的にも状況的にも中心に立たされた有は。
「……は?」
特に大きなリアクションもなく、茫然と立ち尽くしていた。
どうやら人間、脳の処理限界を越えると却って反応が薄くなるらしい。
『我が主!』
そんな風にどこか他人事のように感じていた有は、使い魔の声で思考を再起動させた。
「なんだよ、これ……!」
理解不能ということは理解出来る。そんな言葉遊びが思わず出そうになる。
そんな間にも召喚陣の輝きは増していき、時折稲光のようなものも走っている。
(なんかわからないけど……デカいのが来る!)
そう、陣から漏れ出す【何か】の存在感。今までに有が感じたどの悪魔よりも圧倒的だった。
威嚇するように唸る【大氷魔狼】もそれを悟っているからか、どこか頼りなく感じる。
いよいよ陣の輝きは真昼のように高まり、それに伴って膨張する気配もそれだけで質量を持つかのように錯覚する重圧に達する。
そして――
「っ!」
瞬間、最大まで高まった閃光に腕で顔を庇う。
それでもなお、その強烈な光はその場にいた一人と一体の視覚を一時的に奪った。
そして、それを境に陣は消滅。存在感もさっきまでの重圧が嘘のように、欠片も残さず消え去った。
「……なんだったんだ、今の、は……」
数度の瞬きをして視力が戻ったのを確認し、有は顔を上げる。
そこで、言葉を失った。
「………」
いつからそこにいたのだろう。有のすぐ目の前に、同じ年頃の少女が佇んでいた。
腰よりも長い髪は淡い藤紫。しかし染色した風ではなく、艶やかなそれが天然物だということは一目でわかる。
肌は抜けるように白く、それでいて頬などはほんのり桜色に染まり、しっとりと濡れた唇の色も健康的な朱。
日本人離れした顔立ちは美しいというよりも可愛らしく、その中に少女が女への階段を上る間にだけ許された独特の色気も備わっている。
身に纏う衣服は純白のブラウスを除いて、プリーツスカートからサイハイソックス、足首まで届く丈のマントや大きな三角帽子に至るまで、すべてがどこまでも深い黒で統一されている。
一言で表すなら、有が知る限りこれ以上ない美少女だった。
気付けばビトも目を見開き、目の前の光景が信じられないというように硬直している。
「……君、は」
ようやく絞り出した声で、そう尋ねる。
長い睫毛で縁取られた瞼が開く。その下にある丸っこい瞳は、輝度の低い黄金。
至高の芸術品が如く、誰もを惹き付ける微笑みを浮かべたその少女は、
「初めまして、ご主人様。悪魔メフィストフェレス、召喚に応じここに馳せ参じました!」
スカートの端を摘まみ、硝子の鈴を思わせる軽やかな声と共に優雅に一礼した。
『あー、もしもし有? 元気してるー?』
「元気してるー? じゃない!」
通話口から響く間延びした声に怒鳴り返す。
『あっはっは。なるほどその様子だとアレを起動したわけだ。で、どうだった? 何が出た?』
「だから、その根本的な部分を説明しろって言ってるんだよ!」
どこまでもマイペースな母親に、いやむしろこの場合は――
「DSは悪魔の誕生プロセスを再現する装置じゃなかったのかよ!?」
――DSの主任開発技師、北部愛美にそう問い質した。
人の、いや人間に限らず生物の意思、願いや祈りといった想いには質量があり、生きている限り常に外部へ放出されている。
想いが持つ質量は物理的な影響力は持たないが、その内容に沿って因果を捻じ曲げる力を秘め、世界を循環する間に引き合い目に見えない大きな『流れ』を構築している。
もっとも、人一人が放つ願いの影響力などたかが知れている。偶然同質の『流れ』が近い時に、少しばかりの幸運を感じる程度の因果干渉が関の山だ。
そんな中、極めて稀なことではあるが願いの『流れ』が淀み、淀みが渦となり、渦がやがて個我を得て『魂』となることがある。
その、文字通り吹けば飛ぶような儚い魂は、同質の願いを用いて自身を強化し、四肢を編み上げ知識を蓄えていく。
そうして生まれた、人の願い、欲望を糧にする生命に古の人々はこう名付けた。
――『悪魔』と。
「その手順を機械制御で再現して、主人の一番強い願いを糧に成長する悪魔を生み出すのがDSの悪魔召喚アプリ。そうだよな?」
実際は召喚どころか生成なのだが、それはさておき。
『そだよー。いやそれにしても、四年経ってもまだ解析不能だー、とか言われてるのもびっくりだよねぇ』
いやいや、と有は心の中でツッコミを入れた。
いくらガワが機械でも、中身はオカルトに片足どころか両足で踏み抜いているのだ。
量産を担当したメーカーすら設計図通りに製作しただけで中身については知らされておらず、そんなものを解析しろという方がどだい無理な話なのだが、たった一人でDSの基幹システムを開発したこの天才技師は本気で驚いている。
ここまで来るともはや天才というより天災だろうと、息子ながら常々思う有だった。
一方で本心からそう考えているからこそ、愛美はDSを一般に配布するにあたって基本的な取扱いなど初歩以外を公開しなかった。使い手の手で自分の作ったモノに秘めたものを解き明かして欲しいという開発者としての願いを込めて。
『ついでに補足すると、誕生したての悪魔との間に願いを供給する経路を繋いで純粋に主人の願いだけで成長するようにしてるわけね。だから主人と使い魔って似るんだよねー。思考もそうだけど、嗜好も同じだから』
「何度も聞かされたから知ってるよ。だから二枚以上持ってると分散された分使い魔の成長が遅くなるし、米倉みたいに極端に我欲のない人間も成長が遅い。だろ?」
一人の願いは微々たるもの。だがそれは無意識に垂れ流している時の話だ。特定の願いを意識し、ある種の方程式を持って指向性を与えて放出した時、瞬間的にではあるがそれは『流れ』をも上回る。
言うまでもなくそのエネルギーは悪魔にとって極上の餌であり、それを受け取る代わりに余剰分の願いを精錬し因果を歪め願いを叶える。これが古来から『悪魔の契約』と呼ばれるものの正体。
昼間の舞花とのやり取りを思い出す。舞花の使い魔がEランクから成長しないのは、ひとえに舞花の欲が薄すぎるのだ。
それを知っていて、しかし有は教えようとしない。自分よりも他人を気にかける裏表のない舞花の優しさを、有は好ましく思っていた。
それに、先刻の説明も嘘ではない。そんな少ない願いをかき集めた弱弱しい使い魔を大事に慈しむ舞花。それを使い魔が知らないはずがないし、それに応えようという想いが小さな自我の大部分を占めていることを有は感じ取っていた。
「――で、だ」
脱線しかけた話を戻す。
「何なんだよ、あれ?」
『ふーむ。あれとは?』
「いきなりリビングに現れた、自称メフィストフェレスとかいう女の子のことだ!」
有が視線を向けたその先で――
「お手っ」
ぽふっ。
「伏せっ」
したっ。
「服従のポーズっ」
くぅーん。
「いい子いい子」
仰向けになったAランクの【大氷魔狼】の顎を優しく撫でる少女。
そもそも有の使い魔であるビトが主の許可もなく他人の命令に従っていることからして、本来ありえないことだ。
つまりそんな道理を無視するほどに、少女とビトの実力が隔絶していることの証明に他ならない。
『へー、メフィストフェレス。それはまた大物を召喚したもんだ。しかし女の子ね……』
「いや、だから……」
DSは悪魔を人工的に作り出す端末。そのはずで。
そしてメフィストフェレスといえば、世界的に有名な大悪魔のはずで。
『あぁ、有にあげた新しいDSね。あれ、既存の悪魔を召喚出来るようにリミッターを外しておいたから』
「………………………………………………はい?」
今、この母親は何と?
『だからー、天然モノの悪魔を召喚して契約出来るようにしておいた、ってこと』
なるほど。そういうことか。
「って納得出来るかぁあああああ!」
腹の底からあらんかぎりの声で叫ぶ。
『まぁまぁ、落ち着いて。ほら深呼吸、深呼吸。ひっひっふー』
「これが落ち着いていられるか! あとそれは深呼吸と違う!」
DSには三種類のリミッターがかけられている。
ひとつは使い魔が人間に危害を加えないよう、そして社会法規を守るよう本能に暗示をかけるもの。
もうひとつはそんな暗示がかかっていない、伝説にあるような自然発生した悪魔と契約出来ないようにするもの。
そして最後のひとつが、使い魔に分不相応な願いを過剰供給し、古くは『悪魔に魂を奪われた』と表現される精神崩壊を防ぐもの。
これらが機能しているからこそ、使い魔という人間を遥かに上回る存在は良きパートナーとして社会に受け入れられたのだ。
それを愛美は、その必要なリミッターを事実上ふたつ取り払ったと言い放った。それで怒るなという方が難しい。
「あんた、なんつーもんを息子に押し付けやがった!」
『えー。有はそう言うけどさぁ』
そこで一拍置いて。
『たった半月で使い魔を一から【大氷魔狼】まで育てあげた上に、普段その出力の八割を抑えたまま三年もピンピンしていられる天才悪魔使いの有くんなら、大丈夫でしょ』
「………」
確かに自分の悪魔を使役する才能が飛び抜けているのは客観的事実だ。
【大氷魔狼】の次に確認されたAランクはDSの普及から二年近く経ってからだし、普通は一度育ちきった使い魔に意識だけで制限をかけるなど一ランク下げるだけでも半日保つかどうか。
「って言ってもなぁ……」
実際のところ、有も天然の悪魔を見たのは初めてだ。それでもメフィストフェレスの名前ぐらいは知っている。
ファウスト博士との契約によってあらゆる快楽を体験させ、最後には代償としてその魂を奪った、悪魔の中の悪魔。
目の前で悟りきった表情のビトをもふもふしている少女から、それらしい威厳は感じられないが。
しかし召喚した時の圧倒的な存在感は今でも覚えている。あんなものを短時間で忘れられるほど有は図太くなかった。
『ま、せっかく来てくれたんだから少し話してみたら?』
「……誰のせいでそうなったと」
しかし不本意ながら、あの少女を呼び出したのは自分ということは厳然たる事実だ。本当に、不本意ながら。
それを母親との通話で長時間放置して、あまつさえ一方的に追い返すのも無礼というものだ。相手が大悪魔ともなれば、尚更に。
『それじゃ、頑張ってねー』
最後まで緩んだ語調を崩すことなく、愛美は通話を切った。
「……何を頑張れっていうんだ、まったく」
母親の突拍子もない行動は今に始まったことではないにしても、やはり頭が痛くなる。
それでも有がグレずにいられたのは、そうした厄介事が最終的に何だかんだで有の役に立ったからで。
そして、ふざけているように見えて愛美がいつも本気だったからだ。
と。
――どさり。
何か大きな物が倒れる音に、振り返ると件の少女が床に伸びていた。
「っ、おい! どうした急に!」
慌てて駆け寄る。上半身をなるべく揺らさないように抱え上げて尋ねる。
「……お」
そうして、大悪魔を自称する少女は。
「……お腹、空きました……」
ひきつった笑いを浮かべて、そう言った。