Ultima ratio - 8
「私が行きます」
凛とした、決意に満ちた言葉。
「あの使い魔が本当にSランクなら、今のビトさんじゃ勝てません。ですから私が――」
「却下」
進言の途中で有は有無を言わせず切り捨てる。
「冥だって怪我してるし、それ自力で治しきれないくらい消耗してるんだろ。そんな状態で任せられるか」
「……そうですね。自力だとちょっと厳しいです」
触れた有の手を持ち上げて。
「有さん。今ここで、私と正式な契約を結んでいただけませんか?」
「……それは」
「何をしているのか知らねェが、来ないならこっちから行くぜェ!」
二人目掛けて突進する【名を秘すべき虚影の獣】。
『させるか!』
その巨体に白狼が横から飛びかかり、抑え込もうと四肢を振るう。
『ぐっ……がぁ、あ……!』
雷撃が全身を貫き、猛火に肉が焼ける激痛に、それでも使い魔は耐え、それだけでなく隙あらば喉を食いちぎろうと顎を開く。
『我が主、冥嬢……』
横目に主人を見て、ビトは嘆願する。
『小生が保つうちに、早く……!』
その瞳には、もはや自分がこの敵に勝てないことを悟り、それでも勝利の布石になろうという覚悟が見えた。
「お願いします、有さん!」
『我が主!』
使い魔たちに必死で請われ、有は――
「……どうすれば、正式な契約は出来る?」
有も、決意する。
今ここで勝たなければ、氷室は同じことを繰り返すだろう。その度に犠牲者が出て、今回の有たちのように対抗出来る人間がいなければ更なる大惨事にもなりかねない。
だから、ここで負けるわけにはいかない。そのために出来ることなら何だってしよう。
冥も言っていた。出来る出来ないではなく、やるか、やらないかなのだと。
「有さんは何も。ただ、私と手を繋いでいてくれれば大丈夫です」
「こう、か……?」
しっかりと、指を絡めて手を繋ぐ。
「はい。そのまま離さないでくださいね」
そうして、冥は目を閉じた。
「――我が神にして、主なるもの」
二人を包むように、風が吹いた。
「私は貴方を私の神、及び主として認め、私の生のある限り、貴方に仕え、従うことを誓います」
言葉を重ねるごとに、曖昧だった二人の繋がりが強固になっていくのを感じる。
「私は私の生命を、貴方のものとして捧げることを、この日、この時に誓います――」
ゆっくりと、冥の目が開かれる。輝かない黄金色の瞳を見つめていると、有の頭に自然と言葉が浮かぶ。
二人同時、異なる言語で。
――汝、そのあるべきをを為せ。
――Age quod agis.
契約の結びを唱え終え、春の嵐が二人の姿を覆い隠した。
『ゴァアアアアアアアッ!』
『ぐぅううう……っ!』
怪物の渾身の力に、白狼の身体が弾き飛ばされる。
全力を使いきり、その場にくずおれるビトだが。
『ふっ……後は、任せ……』
役目を果たし、力尽き意識が落ちてなおその顔には主人たちの勝利を確信する笑みが浮かんでいた。
起き上がる【名を秘すべき虚影の獣】。最大の障害を叩き潰し、残る二人も引き裂いてやろうと視線を巡らせ。
桜色の嵐を視界に入れた瞬間、そのヴェールが弾けた。
『!』
爆発的に膨れ上がる力を警戒し、怪物は主人の下へ後退する。
そして。
「あれ、は……」
『ァ……』
そこにいたものに、主従は言葉を失った。
風に揺蕩う、淡い藤紫色の長い髪。
生気に満ち満ちた、輝度の低い黄金色の瞳。
華奢な身体に纏うのは、その淡雪のような白い肌とは対照的な、黒地に銀糸をあしらった、ゆったりとした作りの法衣。
手足に負っていた傷は消え去り、背筋を伸ばして立つ姿は可憐にして壮麗。
目を離すことを許さない圧倒的な存在感を伴って、その少女は有の前に佇立していた。
「――有さん」
頭だけで振り返り。
「行ってきます」
「あぁ、頼んだぞ」
紫のDSを取り出して、有は笑顔で送り出す。
ゆっくりと、しかし確かな足取りで、冥は彼我の距離を半分ほど詰めた。
「……なるほど、それが貴女の本当の姿ですか」
忘我から覚めた氷室は、努めて冷静を装う。
「美しい。私の使い魔とはとても比べようがない。少し北部くんに嫉妬してしまいそうです」
「少しですか? 心から羨んでくれてもいいんですよ?」
上辺だけの称賛に、冥も冗談めかして返す。
「そんな借り物の力、紛い物の使い魔を誇示して、いい気になってるあなたに教えてあげます」
すっと、目を細めて。
「真なる悪魔と、その主人の在り方を」
「面白い。是非ご教授願いましょう――出来るモンならなァ!」
二本の触手が風を切る。さらに炎と雷撃、氷塊を織り交ぜた殺意の嵐が冥を狙い――
――いざ謳え。数多の物語を言祝ぐために。
そのすべてが、不可視の壁に遮られた。
――さぁ、ようこそ兎の庭へ。楽しいお茶会を始めましょう。
――招待状はいりません。三月兎と帽子屋と、ねぼすけ山鼠が歓迎します。
朗々と、心に浮かぶままに心象を詠い上げる冥。その祝詞に引き寄せられて、重厚な願いが渦を巻いていく。
――くるくるくるりと回る椅子。けれども時計は回りません。
心の底から止めどなく、溢れそうなくらいに想いが湧き出してくる。
――憐れ時間は刻まれて、二度と時間を刻みません。
漏れ出した願いの奔流が、次々と襲い来る怪物の攻撃をあらぬ方角へ弾き飛ばす。
――空いたお席へさぁどうぞ。幾つもカップを積み上げて、解なき問いと躍りましょう。
そして――
――Ultima ratio.
「――【我が時ノ庭で狂い躍れ】」
静かにそう呟くとともに、願いの渦も緩やかに掻き消え。
中心に立つ冥すらも、霞むように消失した。
『ガッ!?』
その姿がどこへ消えたか目で追う間もなく、怪物の頭の片方が後ろからの打撃につんのめる。
『ァグァッ! ゴガッ! グガァッ!』
さらに腹部、側頭部、尾の付け根――全身を秒とおかず滅多打ちにされ、その度に苦悶の唸りを上げる。
「な、何が起きて――」
見えない攻撃に翻弄される使い魔に唖然とする氷室。
対して、有は目に見えずとも、己の使い魔が何をしているのか、正確に理解し、自分の役目に専念する。
『ガァアアアアアアア――!』
そしてこの場で唯一状況を視認しうる【名を秘すべき虚影の獣】は、ようやく自身の目を高速に対応させ、消えた標的の姿を捉えた。
「たぁあああああああああ!」
地を蹴り、空を蹴り、縦横無尽の立体機動で怪物を乱打する冥。その速度、実に光速の九五パーセント以上。
強化された手足から放たれる神速の連撃。怪物は棒立ちのまま、それに翻弄されるふりをする。
「せやぁあああああああ!」
そして、冥が正面から突進してきたタイミングを見計らい――
『シャアアアアアッ!』
密かに練り上げていた速さへの願いを解き放ち、二対の腕のすべてで殴りかかる。
完全な隙を突いた、同じく光に迫る攻撃。回避は不可能と勝利を確信して――
――正面に飛び出していたはずの冥が、怪物から遥かに距離を取っていた。
『ガ――!?』
必殺の攻撃が外れ、驚愕に目を見開く怪物に。
「「無駄です」」
左右からまったく同じタイミングで、まったく同じ声。
「「「「もうあなたの攻撃は、永遠に私に届きません」」」」
さらに後ろと上から声。
時間の鎖に縛られたまま、冥と比べれば止まっているにも等しい動きで振り返り、そしてそこにいる者たちの姿に愕然とした。
『さぁ、私と一緒に躍りましょう?』
数えきれない顔、顔、顔――
グラウンドを、空を、埋め尽くさんばかりの冥が、縦横無尽に駆け回っていた。
――虚数時計。
永劫、不変の速度で同じ円環を駆け続ける実数時計に対する、その時々で加速あるいは停滞し、さらには逆行すらする存在しない時間概念。
しかし、今の冥は因果を歪めに歪めた特異点として、時間の軛から解放されていた。
ただ巻き戻すのではなく、そもそも別の時間軸にある冥にとって、過去や未来の自分と同時に存在する程度のことは造作もない。
(有さん、ありがとうございます)
ここまで異常な権能を発揮出来るのも、すべては有の願いがあってこそ。
それは――『自分は全力で応えるから、いつでも全力でぶつかってきて欲しい』
本気で生きる誰かがいるなら、同じく本気で向き合う自分でありたいという祈りを内包した願望。
そして悪魔は総じて願いから生まれ出るがために、譲れない渇望を心に秘めている。有はその願いに手を差しのべて同調し、最高の力を引き出す才能に特化している。
中でも冥は基幹願望『誰かを幸せに出来る自分になりたい』――すなわち『支えたい』という願いゆえ、互いの想いを増幅させ続ける相乗効果を発揮する。
ここまで有が闘い続けられたことも、不完全ながらその恩恵に預かっていたからに他ならず、真に契約を結んだ結果がこうして今広がっている。
「これで――」
一方的な蹂躙を繰り広げた冥が一人に戻る。その手には、時間の断層を切り取った漆黒の虚無が握られている。
「――終わりです!」
振り下ろされた虚無の刃が【名を秘すべき虚影の獣】の中心線を捉える。
『ギッ、ギィイイイアアアアアアア――!』
耳障りな断末魔の咆哮を上げ、一つ目が真っ二つに断ち斬られる。
――ズゥウウウウウン。
統率個体を失った巨体が、ゆっくりとその場に倒れ付した。
「……ふぅ」
それを確認して、冥は権能を解き本来あるべき時間軸に帰還する。
己の使い魔が倒されたことが信じられないのか、氷室は呆然と突っ立っている。
「……終わりましたよ、有さん」
「あぁ……」
くらりと眩暈に襲われながら、有も相槌を打つ。いかに最高の相性といえど、経路にかかる負担は変わらない。精神力で耐えるにももう限界だった。
見れば冥の方も、華奢な手足が所々内出血で青黒く染まり、息も僅かに荒い。
「お疲れ、冥。よく頑張って――」
そう、労いの言葉をかけようとして。
「――有さん!」
――ぐちゃり。
肉の弾ける音がして。
先端が鋭い鋼色をした触手が、大きく腕を開いた冥の腹部を貫いていた。




