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  4-1

  4-1


 家政婦の敏井が寝室まで出向き、三橋を柔らかいが断固とした口調で起こした。

 半ば寝ぼけて、瞼をこじあける。デジタル時計は、深夜2時を回った程度だった。

 受話器を受け取ると、敏井はベッド脇に控え、三橋を見守った。何かを察しているらしい表情に、三橋は意識をはっきりさせようと頭を振った。

「三橋? 私、彩子」

「……こんな時間に……、何かあったのか?」

 もどかしいくらい遠い音声に、三橋は一瞬で頭が冷えた。

 布団を跳ね除け、受話器を持ち直す。

「秀一が襲われて……。重体なの、絶対安静……。今夜が……峠だっ……て……」

 消え入る彩子の声に、三橋は飛び付いた。

「しっかりしろ、彩子!! 騎道はどうした?! あいつもやられたのか」

 彩子を叱咤しながらも、怒りで充血してゆく視界の中で、敏井が三橋にしっかりとうなずいた。踵を返し、彼女は車の手配に出て行った。

「ううん……。ごめん……大丈夫。

 騎道は何ともない。襲われたのは、秀一だけ……でも……、騎道が……」

「どうしたんだ?」

「騎道が怖いの……。本気で怒ってるみたいで、一人で殴り込みにでもいきそうで……。私じゃ、とめられそうな雰囲気じゃなくて。

 来てほしいの……。三橋しか、思いつかなくて……。

 ゴメンね、こんな時しか……。頼れなくて」

 がしがしと、三橋は髪をかき上げた。

「……お前な、オレを甘く見るなよ?

 知らせてくんなかったら、お前らを恨むとこだったぜ。

 駿河とは、ほんの3時間くらい前に別れたばかりだった……」

「! たぶん、その直後だわ……。マンション前の路上で倒れているのを発見されたの」

「そっか。

 彩子には悪いけど、俺も、騎道を止められる自信はねーな。やった奴が誰か、気付いてるんだな、騎道は」

「……うん」

 彩子は、口ごもった。

「あいつのことだから、口が裂けても言わないだろうな。

 すぐに行くから、それまで何があっても引き止めとけよ。俺を置いていったら、本気で絶交だってな」



 第一須賀総合病院。集中治療室に続く廊下は、永遠に続くかのように長く伸びていた。

 その廊下を、時折りせかせかと行き過ぎる足音。

 目の前の両開きのドアに、何度となく看護婦が吸い込まれ、無表情に出てゆく。外で待つ二人に、話し掛けるすきを与えないつもりのように。

 壁に添わせた長椅子には、彩子は騎道だけが座っていた。

 騎道の家を探し出し、駿河の危篤を教えてくれた隠岐は、いたたまれないのか、二人に気を利かせたのか、姿は無かった。

 抱き合う二人。右腕に寄り添った彩子を、騎道はしっかりと肩を抱いてやった。

 彩子は、そっと騎道の横顔を盗み見た。

 厳しく引き締まった頬。隠岐から知らされた時から、その強張りは消えない。怒りを内に秘め、ただ待っていた。

 肩に回る腕は暖かく、確かにここに居るけれど。彩子は不安を装って、頬を騎道の胸に押し当てる。

 騎道を放さない。一人で、飛び出してしまわないように。

 ほんの少し、騎道は彩子を見下した。

「……大丈夫。駿河さんは、きっと目を覚ますよ」

「疲れているの? さっき中に入って、なかなか出てこなかった。……あのせい?」

 30分ほど前。慌しく出入りする、医師と看護婦の切迫した表情を見取り、騎道は精神科医でもある尾上医師を呼び止めた。彩子には会話を聞き取れなかったが、思案した尾上は、騎道の短い説得に負けてうなずいた。

 そのまま尾上と騎道の姿が、個室ICUに消えた。代わりに、付き添っていた白衣姿の駿河茨子と、憮然とした表情の担当医、困惑し怒り顔の看護婦たち全員が追い出されてきた。

「茨子さん……?」

 憔悴していても、茨子は美しかった。しっかりとした口調で、彩子に尋ねた。

「あの、騎道って子、どういう人なの? ……なんだか、年相応にはみえないわね」

 さすがに、名探偵の推察は鋭い。その場から立ち去ろうとしない医師たちも、彩子の答えを待っていた。

「……騎道を、信じて下さい。駿河のことを本気で心配してます。騎道は自分のもてる限りの手を、尽くすはずです」

 彩子は、茨子の芽を見つめ返した。

「しかし、ただの学生に何ができるんだ……! 尾上君も尾上君だ。危険な状態だというのに……」

 冷静さを維持するべきの医師は、苛立っていた。

 彩子は医師を振り返った。

「そんなに悪いんですか……?!」

「出血が酷いらしいわ。急に、血圧が下がって、脈も……」

 彩子は素早く、言葉を失う茨子の手を握り取った。

「あの子ね、私が駆け付けた時には意識があったのよ?

 やっぱり役者の方が向いてたかなって、言ったの。

 笑って……。

 嫌よね、こんな時に。顔の傷の心配までして……。

 ……私、あの子には私の跡を継いでほしかったの。秀一の父親じゃ、ちゃらんぽらんずきて、頼りにできないって思ったから。パートナーとして側に居てほしかった。

 だから、おかあさんって、呼ばせなかった」

 毅然とした顔立ちが、むき出しの悲しみに変化した。

「なのにね……、秀一の血まみれの顔を見たら、足が震えたわ。……私、ただの母親になってた……。情けないけど、祈ったわよ。あたしの子供を助けてって……! 母親の、私の命なら、引き換えにできるでしょうって……」

 彩子は息を飲んで、茨子の気丈さに目を見張るしかなかった。彼女は泣いてはいなかった。泣く時ではないと知っている、女である前に母親であるから。

 彩子は無意識のうちに、茨子に自分の母親を重ねて見ていた。母とは、こんなものなのだろうかと。

 生きていたなら、去年の春、自分を見失った彩子の為に、祈ってくれたのだろうか。

 ……ずっと、そんな母親の姿が存在することを忘れていた。忘れようとしていた気がする。母の居ない事実を。あまりにも早く逝ってしまった現実を、思い出さないように閉じ込めてきた。

 こんな時、母が生きていたら、どうしている? そんなことを引き比べても、意味の無いことだと思い込んでいた。

 けれど。目の前の茨子は、彩子に教えてくれる。

 暖かくて心地良いばかりの、無私の祈り。そうして、常に怯え続けてきた、二度と得られないという寂しさを。

 ドアが開いて、尾上が一人出てきた。

「患者は持ち直した。だがしばらく、このままにして下さい」

「! 尾上君、どういうことかね?! 説明を……」

「来て下さい。……彼の集中を、妨げたくない。

 用があれば、騎道君が連絡をよこすでしょう」

 医師たちを引き連れて、尾上はナースステーショーに引き取った。問い掛ける彩子の自然に、一度重くうなずいて。

 彩子は、茨子を長椅子に座らせた。閉ざされたドアを見返し、すぐに戻ると茨子に断って、公衆電話を探し走り出した。連絡を取ったのは三橋だけ。

 取って返すと、困惑した表情を隠せずにいる医師と尾上が戻ってきていた。

 その数分後。騎道がドアを開けた。騎道と入れ違いに担当医、尾上、茨子が中に戻った。

 そうして元通りの、集中治療室の張り詰めた空気が復活した。変化したものは、やや疲労したような騎道の顔色だけに、彩子には思えた。

「……少し、疲れたかな?」

 少しどころではない陰りを、騎道は彩子に笑ってみせた。

 言葉にされなくても、彩子は騎道が一人で何をしたのか、察しはついた。顔色が、すべてを物語っていた。

「あの時。茨子さんに何を言われたの?」

 病室を入れ替わる際。擦れ違い様、騎道は何か囁かれ、自信に満ちた微笑みを茨子に返してやった。

『今度は、私の息子が持てる限りの力を尽くせばいいのね?』

 秀一の生命力を信じる、誇らしい茨子の顔立ちだった。

「素敵な人だね」

「……ええ」

 でも、騎道の方がもっと上……。

 彩子が信じた通りに、騎道は全身全霊をかけて手を尽くし、駿河親子を励ました。

 長い廊下から、先を急ぐ軽い足音が近付いてくる。

「……三橋……。彩子さんが……?」

 うなずいて、騎道と握りあった手を解き、彩子は席を立った。

「コーヒー、取ってくるから」

 二人を置いて、彩子はその場を離れた。

 廊下の曲がり角で振り返る。三橋は彩子が座った反対側に、少し距離をおきながら、それでも長い足を持て余しぎみに、大きく騎道の方へ膝を投げ出していた。

 待合室に入ると、隠岐が駆け寄ってきた。

「彩子さん……」

 一人になるのを待ち構えていたように、彩子の腕を取って、待合室内の長椅子に座られた。

 手にいる、ミニ・パソコンを開き差し出す。

「彩子さんに、アメリカからメールが入ってます」

「メール?」

「はい。賀嶋さんからです」

 彩子は、隠岐自身も困惑している表情を、聞き違えたかのように見直した。

「僕、中は見てませんから……。このキーを押せば、画面に出ます」

 低いテーブルに乗せ、指でキーを示し、隠岐は立ち上がった。彩子はその手を掴んだ。

「ねえ。駿河のこと、これで伝えられるよね?」

「……。勿論です」

 一瞬、まったく違う話題に、隠岐は戸惑った。

「なら、後で教えてあげて。黙っていて恨まれるの嫌だもの。

 ……ほんとに、男って寂しがり屋なんだから……」

 彩子の頼みに、隠岐は頭をうなだれ、声を絞り出した。

「でも……。どう伝えたらいいんですか? 僕……」

「大丈夫よ。駿河は必ず目を覚ますわ。いいわね?」

 立ち上がり顔をのぞきこんで、彩子は隠岐がのろのろと顔を上げるのを待った。

「彩子さん、強いんですね……」

 気弱な笑みで応えて、眩しそうに彩子は見上げた。

「騎道さんが、居るせいですか?」

 くすりと、彩子は笑い飛ばした。

「変わってないよ、ちっとも。

 ただね、私と騎道は、今、一つなの。

 どったかが弱気になったら、二人とも崩れるの。だから、気を抜けないのね。

 私、自分を強くすることで、騎道を守るの。騎道が、今の私には一番大切なの……」

 泣き出しそうになる自分の顔を、彩子は両手で隠した。

「……本当は、すごくもろいの……。

 怖くて辛いの。好きにならなければよかったくらい……」

「! ごめんなさい、彩子さん……!?」

 懸命に謝って、隠岐は震えを堪える彩子を座らせた。

「僕、騎道さんを信じてます。よくわからない所が沢山ある人だけど、信じられる。

 騎道さんは、信頼する人を裏切るようなことのできる人じゃない。

 なんか、バカ正直って言えるほど、真っ直ぐで優しくて。

 僕、先輩より尊敬してます。

 だから……、彩子さんは幸せですよね」

 彩子は弱く笑ってみせた。パソコンに向いた瞳は、少し影ってぼんやりと虚ろいでゆく。

 一人置いて、振り返らず隠岐は部屋を出た。






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