2-3
ピタリと閉ざされた扉の奥には、目指す人物が居た。
学園長室は空調で暖かく保たれ、屋外とは別世界だった。
ただ部屋の主は、冷徹な眼差しで騎道を迎えた。
「答えて下さい。彼と、クリオンと会ったんですか?」
騎道は、凄雀が向かう執務卓の目前に進み出た。
「あなたが、彼の生体反応を察知しないわけがない。
あの時ですか? 演説会のあった日。乱れた精神波が生じて、すぐに消えた。消したのはあなたで、光輝がこの街に現れた精神波だった」
真っ直ぐ騎道を眺め、話を聞いているらしいが、凄雀に表情の変化はなかった。肉の薄い頬、鋭い瞳、柔らかく艶のある短髪。広い肩幅を、仕立てのいいスーツで包み、一見だけで、トップ・エグゼクティブと想像できる男だ。
「……今はまだ、そんな真似がたやすくできるような体調じゃないのに……」
騎道の気遣いに、凄雀は目を閉じ、椅子にもたれた。
「彼をどうするつもりですか?
なぜ自分の体を痛めてまで、僕に隠したんです?」
黙していた凄雀が、瞼を開いた。漏れる言葉は機械的で、騎道ほど感情を込めたものではなかった。
「クリオンは空位となった。奴は、自分から降りた。
……当然だな。我々を欺き、勝手に姿を消した。
奴には、クリオンとしての資格はない」
「連れ戻します。欺いた償いをするべきです」
即座に言い継ぐ騎道。こんなところでじっとして居られないと言うように、落ち着きを失っている。動じない凄雀の態度にも焦れていた。
「なるほど。お前の進言にも一理あるな」
身を乗り出し、手を組んだ。
「だが私は、もう二度と裏切り者の顔を見たくはない」
「……裏切り者、ですか? そこまで言われるなら、なぜ粛正を正さないんですか? どうしてこのまま……!」
「では。お前が出向いてくれるか?
承知の通り、私が手を下すことは不可能だ」
瞬時に押し隠したものの、騎道は顔色を変えた。
「奴が抵抗するなら、たとえお前でも、厄介な相手になるな。お前の手の内は、すべて承知している『兄貴』だ」
凄雀は薄く笑った。
「心配にはおよばん。奴とは取引き済みだ。
あいつの方から、持ちかけてきた。……素質には、かなり自信があるらしいな」
清々とした顔で、心底楽しむように、凄雀は答えた。
戸惑う騎道を暫く見据える。
「子供が生まれたら、私にくれるそうだ。
男でも女でも。よって、暫くクリオンは空位とする」
「そんなこと……、勝手すぎる!!」
一歩踏み出す騎道に、凄雀は頭を振った。
「我々としては、いい取引条件だ。
お前もやっと、『最年少』の肩書きが取れて嬉しいだろう? 弟か妹が出来るのだからな」
ジョークも出てくる。凄雀は上機嫌だ。
「許す、とおっしゃるんですか? 光輝の行動を。
そんな残酷な取引で?」
挑むように見返す騎道に、凄雀は不思議そうに眉を寄せてみせた。
「許す、だと? そんな事にはならん。あいつはよく分かっているぞ。この復讐の意味が」
音もなく椅子を回し、凄雀は立ち上がった。2メートル近い長身は無駄のない痩身で、威厳さえ滲ませている。
支配する者、される者の立場を抜きにしても、騎道はその姿に圧倒される。凄雀が背負うもの、辿ってきた歴史。膨大な知と時間の堆積が、30代半ばに見える男の背後に横たわっているから。
凄雀の冷徹さも、彼の生き様には不可欠で、些細な一点でしかない。
「いずれ、奴が選んだ愛にも終わりが来る。奴以外は皆、限りある命だ。愛する者を永久に失う。二度と、手に入れることはない。
果てしなく彷徨う。
それを考えれば、しばらく腹も納まるというものだ」
騎道は、……やはり、と胸が冷えた。
凄雀が仕掛けた、永遠に円舞する復讐。久瀬光輝は承知の上で、選んだ道なのだろうか?
そうじゃない。騎道は笑い出したくなる。
あの光輝なら。未来にある障害など、気にも止めない。何が起きても、豪快に自分のプライドを押し通す。
二世に跡を継がせる約束を、この男から取り付けるくらいだ。
「ゼン……。……本気だと、思っているんですか……?」
囁くように、騎道の声が籠もった。
「遊びなら、私が許さん。この手で殺している」
弾かれたように、騎道は顎を上げ凄雀を凝視した。
「本気で無いなら、僕も光輝を許しませんから……」
言い切って、騎道は溜め息のように肩を落とした。
……強く愛し合っているのなら、誰にも止められない。
三橋が叫んだ言葉通り。阻むことは不可能だ。
落胆し切った騎道を、凄雀は細く開いた目尻で眺めた。
凄雀は内ポケットを探り、シガレット・ケースを取り出した。軽く机上を見回し、取り上げたライターの傍らに、薄いスイッチカード。ライターのついでのように、そのカードも手に拾い上げる。
「だが、これで安心したな」
「?」
深々と紫煙を吐き出し、厳しい面差しを微かに緩めた。
「お前がそこまで己の使命に忠実であることが、よくわかった。鍛え続けてきた甲斐があったというものだ」
言葉の意味を、騎道はすぐに飲み込んだ。
「内心、この私でも気にはかけていた。
……飛鷹彩子に溺れ、光輝の二の舞になるのかと」
微笑みは、射るような鋭さをもっている。
騎道は体を堅くし、その場に立ち尽くした。
「どうなんだ? まさか、お前まで本気ではないだろうな。
真に守るべきはただ一人と、承知しているはずだが?」
返す言葉が出てこない。騎道は、自分の言葉に縛られた。
凄雀の右手が微かに揺れる。手の内のカード・スイッチを卓に戻した。
壁に向けられた凄雀の目が和らぐ。唐突な変化を生んだ何かを、騎道は視線を辿って見出した。
「! これは……!!」
息を飲んだ。騎道は、体の内部から吹き上る風に煽られる気がした。
何もなかったはずの、壁にかかる大きなアクリルガラスの中に、一枚の絵が浮かび上がっていた。
艶やかな彩り。桜色と濃い碧が吹きすさぶ春の嵐の中に立つ、平安朝和装の少女。
地に届く長い黒髪。白磁の肌。そこだけに一色、真紅の唇。顔立ちは若く、少女であるのに、唇だけが成熟した女性のように、艶やかでなまめかしい。
見開かれた瞳の黒い輝きは、誰かを待つように潤んで、こちらを見据えている。恐ろしいほど真剣な眼差しで、誰かを求め焦がれていた。
「……どうして、ここに……?」
無意識に歩み寄る騎道。アクリルガラスに掌を押し当てる。
見上げても、少女は彼方の誰かを見据えている。騎道には、悲痛な眼差しを受け止められなかった。
振り返る。悠然と受け止める、一人の男を。
「これを持ち出してくるなんて……、職権乱用ですよ」
それだけ皮肉るのが精一杯。
「写真を持ち歩く趣味は無いんだ。お前と違ってな」
軽く返す口元には、笑みさえ漂っている。
騎道はその時やっと、自宅から消えていた写真に気付いた。持ち出したのが、凄雀であると知った。
「……これは姉さんじゃありません……。同じ顔でも、生きた時代がまったく違う」
「では試してみるか? 同じ境遇に追い込んだ時、この女と同じ道を選ぶかどうか?」
冗談だとわかっていても、騎道は怒りを瞳に込めた。
「答えろ、騎道。この女を選ぶか、それとも……?」
ゆっくりと、凄雀は煙草を灰皿にもみ消した。
桜の花びらは、狂気を煽るかのように、舞っていた。
騎道の記憶を渾然とさせ、熱を帯びさせる。
「いや。真の名を……」
「わかっています……!!」
遮った。込み上げてくる感情をも、一言で。
「私の目を見て報告しろ。
貴様はここに遊びに来たわけではないはずだ」
のろのろと緩慢な動作で、騎道は凄雀に向き直り、背筋を伸ばす。逃げ場を求めるように、視線は揺れ続ける。
弱く、口を開いた。
「彼女とは、強力な敵に対抗するための、手段の一つ……」
「飛鷹は要だ、譲るわけにはいかんな」
補足するように、凄雀は続けた。
「僕は……、光輝が未完とした指令を、……遂行し、この地の安全を確保します……。
この人を、いずれ迎え入れる為に……」
「クリオンの代理か。いい言い訳を見つけたものだな」
冷ややかに、凄雀が言い添えた。
「よかろう。お前に任せる」
凄雀の了承を得て、騎道は機械的に頭を下げた。
「完遂後は、即時撤去しろ。光輝が抜けた以上、人出が不足している」
最後まで聞かずに、騎道はドアを開け出て行った。
学園長室のドアを後ろ手で閉じ、騎道は背中を押し当てた。頭だけをうなだれ、足元から力を失い動けない。
誰かの名前を呼ぶことさえ、騎道には出来なかった。
「騎道……」
駆け寄ってくる足音が、騎道の目前に立ち止まる。
「元気出せよ。一生の別れってわけでもないだろ?
アメリカなら、飛行機に乗ればすぐだぜ?
おい……騎道?」
「……アメリカ……?」
「ああ。安摘は、渡米するって言ってたぜ?」
騎道の右手が刺し伸ばされる。目が見えない者の仕種のように、空中を探る。慌てて、それを受け止める三橋。
しっかりと騎道は握り返してくる。すぐに指を解き、三橋の肩を押しやるようにして歩き出す。
「……もう、会えない……」
擦れ違いざま、騎道は絶望の呟きを残した。
「おい……。彩子が、さっきの場所で待ってるぜ!」
離反者。過去を捨てて、クリオンの名まで放棄したなら。
久瀬光輝の方が、騎道を避けるだろう。それが離反者の礼儀。掟。二度と過去とは関わらないという、意思表示。
だから確信できる。
二度と会えない。
凄雀や彩子。恐らく藤井香瑠と、顔をあわせることはできても、騎道だけを避けた理由。
……僕が僕であるから……。
すべてを押し付けて逃げ出した、僅かばかりの後悔か?
顔を合わせられないほど、悪いと思っている……?
「……まさか……」
そんなはずはない。
……ただ、僕が泣き虫だから嫌なんだ。
目指す中庭では、北風と、少女が一人待っていた。
「……さっきは、怒鳴ってごめん」
「悪いのは私よ。……黙っていて、ごめんなさい」
彩子は、自分を見返す騎道の視線が、いつもとは違うことに気付いた。
真っ直ぐに、目を見てはくれない。優しさを失っているのは、取り残されたという動揺のせい。では、この余所余所しさは何? 考え疲れて、抜け殻になったような表情は。
「寒いの? 校舎に入った方がいいわ」
彩子は、立ち尽くす騎道の肩に、駿河が置いていった制服を着せ掛けた。
「何……?」
「手が震えてる」
言われて、騎道は自分の手を見下した。
拳を堅く握り込む。その手でかけられた上着を脱いだ。素早く確かな動きで彩子の背後に立ち、肩にかける。
彩子の細い肩は、寒さのせいでなく、緊張で強張っていた。掌に伝わる堅さに、騎道はうなだれ目を閉じた。
「……騎道?」
肩を震わせ、騎道はくつくつと笑い出していた。
「おかしいね……。彩子さん。
永遠の別れなのに、僕の中のどこかで喜んでる。
……あいつのことを称えてる」
彩子を向き直らせ、身を乗り出すようにして喋り出した。
「バンザイって、叫び出したい気分なんだ。
やっぱり、光輝は死んでなかった。彼は最強の人間の一人で、簡単に死んだりしない。僕が尊敬していた通りの人間だったって、嬉しいんだ」
明るくはっきりとした口調が、彩子には悲しく思えた。
「僕は、それを確かめるために、ここに来た。代行の反対を押し切って……」
騎道の瞳が、彩子に向いていながら、遠く別のものを辿って行く。
「僕が、ここに来なければ……。何もかもを暴いたりしなければ。光輝は笑って、いつか戻ってきてくれたかもしれないのに……!」
後悔を吐き出す騎道は、10歳の子供のようだった。自分のしたことに戸惑い、その結果に怯え、混乱する。
「そうじゃないよ。騎道?」
彩子は騎道の頬を両手で包んだ。揺れる視線を、しっかりと捕らえる。
「思い出して? 彼は隠し通していたの? 逃げ回った?
騎道に知られないよう、誤魔化していたの?」
彩子に、騎道は頭を振った。
「騎道には会わずに居たけれど、いつも堂々としていたわ。
知ってほしかったのよ。騎道がいつか、追いかけてくれることを承知の上で。少なくとも、彼の生き方を……」
生き方……。
彩子の慰めに、騎道は再び胸を突かれた。
久瀬光輝の選んだ道。すべてを捨てて得た、ただ一人の女性。
騎道は黙って、彩子を抱き寄せた。
「……光輝は最高の人生を選んだよ。
やっぱり、光輝には勝てないや……」
彩子が胸の中で、くすりと笑った。騎道の泣き言を笑い飛ばせる、彼女はこの街で唯一の女性だった。