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騎道が、休んだ。
彩子は一つ空いている座席を、気にする様子もない。
難解な数学の授業が続く中、焦れているのは三橋一人だった。
5限目が終了し、三橋は教室を真っ先に飛び出した。
「おい、すんちゃん!?」
専門教室に移動する姿を、三橋は廊下で引き止めた。
ピタリと足を止めた駿河を、隠岐が怖々と見上げる。
「なんか聞いてないか、騎道のこと……、いっ!」
振り返った駿河に、襟首を締め上げられる三橋……。
「てめーなっ、ちゃん付けるのどーにかしろっっ……!」
「せ、先輩っっ、落ち着いて下さいっっ」
隠岐が割って入り、体で二人を引き離す。
「……先輩、今、すごく機嫌悪くて……後にして下さいっ」
小声で、隠岐が三橋に囁く。それでピンときた。
「なんかあったんだな、騎道に……!」
今度は三橋に、乱暴に問い詰められる隠岐。受難だった。
「知りませんよ! 先輩、何んにも言わないで不機嫌で……、! あわわっ」
駿河が、座りきった切れ長の目尻で二人を見ていた。顔は凍り付いたような無表情。瞳の底が暗く沈んでいた。
「……行くぞ。隠岐」
冷ややかに言い残し、駿河は背中を向けた。
「駿河秀一!! いいのかよっ、彩子のことっ!?
一人にしちゃ、危ないんじゃねーのかよっっ!!」
「知らん。任せときゃいーだろ? すっとぼけナイトに」
慰めに振り返った駿河は、骨抜きにされた後のような、どこか途方に暮れる目をして弱く笑った。
心配顔で見上げる隠岐は、駿河の言葉を信じるしかない。そう心に決めたふうに、黙って後を追いかけた。
「……なんなんだよ、すんちゃんまで……。
その騎道が、姿を見せないから焦ってんじゃねーかよっ」
バラバラじゃねーかっ……、どいつもこいつもっ。
片や彩子は、気味が悪いくらいに落ち着き払っている。
クラスメートと笑いあい、軽口を叩き。三橋と目が合うと、戸惑いながら視線を逸らした。
二度とそんな顔をさせないように。黙って席について、三橋は何でもない素振りで、次の授業の準備を始めた。
もう何十年も、彩子と面と向かって言葉を交わしていない、そんな気分。常に視界の隅に居るのに、目にしてきたのは後ろ姿と、誰かに微笑みかける横顔だけ。
もう自分に向くことのない輝きを、盗み見ているだけ。今は、それを確かめるだけで、想いは治まる。
……なんか俺って、年寄り臭いよな……。
自分を笑って、三橋は携帯電話で車の手配をした。
彩子を一人で帰すわけにはいかないから。彼女が顔を背けても。怒らせても引きずってでも。
覚悟は決めたはずなのに、三橋は、どんな顔で話しかければいいのか、わからなくなっていた。
授業が終了し、学生たちが下校する中。戸惑い過ぎて、石のように動けなくなった。
「三橋、今日はどうするんだ? 選挙対策会議。
もう2日しかないぜ?」
「……あ、ああ。わかってる……」
上の空で返事をしながら、祈っていた。
「騎道の奴、今度は休みかよ? この時期に余裕だぜ」
「悪い、友田。すぐに戻る……!」
二階廊下の窓から、正門へ向かう彩子の姿を見つけた。
三橋の専用車は正門近くに回してある。
彩子の姿を見失わないように、三橋は走った。
「!」
足が止まった。祈りは通じたけれど、心に穴が空いた。冷たい風が吹き抜けた。
正門を小走りで出てゆく彩子。その先に、人影。
スエードのコートに、温かいサーモンピンクのタートルネック。手に、同じ色のマフラーを握り、何か一言かけて、彩子の肩に回す。
『……忘れ物』
こっくりと顎を引いた彩子。騎道が、悪戯っぽく笑った。
彩子が、騎道の腕に触れ不安そうに尋ねる。
『大丈夫なの? 出歩いて……』
黒縁眼鏡の奥、長めの前髪の下で、黒い瞳が細められる。
彩子の鞄を取り上げ、騎道は歩き出す。
離れず、あとを追う。くすりと頬に昇る、彩子の満たされた笑み。
離れて行く。三橋の視界から。距離の分だけ、動けない胸が冷えてゆく。窓の外の、冬近くなる。
『いーのっっ? おねーさまを取られてもっ』
幻の安摘のなじりが聞こえてくる。
「……いーんだよっっ……!」
力を込めて、追い払おうとしたら。
「……何、独り言やってんだよ……?」
応えが来た。ゲッと、辺りを見回す。
「お、おっ、お前こそっ、何んでここに居るんだよっ」
実験室や準備室の並ぶ廊下なので、誰も居ないと思っていたのに、居た。学園に居るはずのない詰め襟姿の中学生が、張り出し気味の窓の手摺りに座っていた。
……身軽な奴……。こいつらって忍びに近いから当然か。
「……ふん。俺の勝手だろ。行くとこねーんだし」
相変わらず人を見下した態度に、不満たらたらを込めて、狩峨、と呼ばれるガキがうそぶいた。
「行くとこって、お前の役目は安摘に張り付いてること……。 ! あいつに、何かあったのか?!」
狩峨は、白々とした目で三橋を見下した。
「……。何、ムキになってるんだよ。
なんにもねーよ。付いてくるなって言われただけさ。
あの野郎……、もう次期総領気取りで……」
向けようのない苛立ちを、狩峨は窓の外にぶつけた。
ぎらぎらと視線が鋭くなる。片膝を抱え、拳を顎に押し当て、必死に自分を押さえようとする。
「あざみ姫のことか? 藤井香瑠が安摘に何を?」
「知らねーよっ!!」
煩げに噛み付いてくる。もうそれで、歯止めは利かない。
「来るなの一言きりで、居場所さえ掴めねーんだよっ。
兄弟同然なのに、栄峨までマジな顔してくれてっ……!
きっと、安摘様には予感があったんだ……。あの日、ここに呼び出されのも、嫌々出向いてきたのに……」
窓辺から、弾かれるように飛び降りた。三橋の制服を掴み顔を引き寄せる。
頭半分、背は低い。なのに三橋は圧倒されていた。
「お前のせいだぞ! ほんとは誰かに引き止めてほしかったんだ!! なんで、そっちは気付かなかったんだよ!
俺……、俺、なんにも気付かないで……、くそっ」
「……悪かったな。俺、勘が悪くてさ」
謝る三橋を、狩峨は突き放して解放した。顔を背け、すねたように、天井へ向かって顎を上げてから呟いた。
「……。簡単に謝るなよ……。
俺、屋敷にも居ずらくてさ。誰を見ても敵に思えて、つっかかっちまって……」
行き場を無くして、安摘と別れた場所へ戻った。
肩を落とす姿など、誰にも見られたくなかったから。
「やっぱり、何かあったんだな……。安摘のあんな顔、俺も初めて見たぜ。
一人きりで、お前からも引き離されて。きっと、安摘もお前みたいに孤立してる。それを考えてやれよ」
食事の約束をさせた安摘。何が起きても、ここへ帰ってくるという、言葉にならない約束か……。
「お前のことだから、もう十分、八方を捜したんだろ?」
「……うん」
三橋は、狩峨の努力を大きな笑みで褒めた。
「飯、食わしてやるぜ。俺ん家にくるか?」
「……。いや、屋敷に帰る」
棘の取れた、素直な真顔ですこしためらった後。
「安摘様が戻られた時、居てやらないと……」
「そうだな……。あいつが戻ったら、連絡しろよ。
約束は果たすぜ」
せめてお前は、変わらずに戻ってこい……。
待っていてやるから。