9-1
君と居ると、時間が目に見えるような気がする。
ゆっくりと、でも確実に、君との時間は減ってゆく。
それがわかっていても、とても幸福。
輝きに満ちた日々。切ない苦しい時間。
……忘れられない。忘れたくない。
でも、もしも忘れることがあるのなら。
記憶の川の底深く、標をつけて沈めたい。
一人廊下に佇む駿河に、騎道は黙って横に並んだ。駿河に習うように、窓の外を眺める。
無言の問い掛けを感じて、駿河の方から、口を開いた。
「まるで別人だぜ。男一人に、あんなふうに変われるなんて。あの彩子が」
「そんなに違いますか? 僕にはそうとは思えないな。
あれが、彼女の本質ですよ?」
「恐れ入るね。彩子に関しては、俺たちよりよく知ってる。
今更驚くことでもないな」
皮肉を言っても、騎道は褒め言葉のように頬で笑った。
「だが、一つだけ耳に入れておきたい」
「あんまり彼女に、深入りするなと?」
先を読む騎道を、厳しく突き放す駿河。
「そんなことは聞いてから自分で判断しろ。
賀嶋は、彩子を手放すつもりで解消したわけじゃない」
解消……。親同志の口約束だった婚約の解消。現実の恋人関係の解消。友人としての絆の解消。
まるで、一個人の過去を切り取ってしまうような行為だ。
「わかります。その気持ちは」
まだ直接会ったことのない賀島の人間像を、騎道は想像した。声は自分より低めだった。背も、少しは高いだろう。肩幅もありそうだ。たぶん性格は硬派。あんまり軽々しく笑ったりするタイプじゃない。騎道とは大違い。
かといって、友達になれない嫌なタイプではない。
「誰よりも大切で、必要としているから、感情のままに彼女を左右できない。
どう扱っていいのか戸惑う。……今の僕も同じです」
頼れる男、なのだろう。向けられる人望と、それに甘えない自制心が、言葉に端々に見え隠れする。
……悪くない。恋敵としては。
「ところで。昨日の結果の報告がまだのようですが?」
仏頂面を造って、駿河秀一はその場を逃げ出した。
「駿河さん、ズルイですよ。僕のノロケだけですか?
椎野さんって、家庭的な人ですよ? 彩子さんの手料理のことを僕に聞いて牽制してました。自分と重ねていたのかな? 駿河さん、どんな料理が好きなんです? あの……」
「……こっそり椎野に教えるつもりか……?」
詰め寄られて、騎道は心を偽り頭を振った。
「心配させて悪いな。でももう終わったんだ。
……あいつに謝れただけで、俺は満足してる。
彩子には、もう恨みはないだろ。伝えといてくれ」
端から見ても真っ暗な駿河の表情は、そのせい。
騎道は迷わず、突き落としてやった。
「……彩子さんが言った通り。駿河さんは、椎野さんに頭が上がらないんですね」
「騎道の奴、遅いな……。化学の授業始まっちまうぜ?」
専門教室へ移動しなければならないのに、騎道は姿を現さない。彩子と三橋は、2Bの廊下が見えるT字路で、追いかけてくるはずの騎道を待っていた。
「三橋。……ありがと。居てくれて。
騎道もあたしも、すごく毎日が楽しいよ。
……三橋が、騎道を学園に引き止めてくれなかったら。
どうなっていたかわからない」
「何しんみりするんだよ? どうなったりもしないぜ?
騎道って奴は、自分がどんな目に逢っても、彩子との関係だけは変えないはずさ。
急に色っぽい目してくれて、変だよ?」
三橋の茶化しに、彼なりの照れだと承知する彩子は、怒ったりむくれたりはしなかった。
「だって、いつも騎道と三人で居て、こういうこと言うチャンスがないんだもの。話しておきたかったの。
あたし、三橋に何もしてあげられないのに……」
……ゴメンね。の言葉の飲み込んだ。言ったら、もっと茶化して誤魔化して、三橋は逃げてしまう。
ちょっと考えて、三橋はノートと教科書の束を片手に持ち直した。背をかがめ、少し背の低い彩子と視線を並べる。
「一つだけ、ある」
「何?」
「一度だけ。キスしたい」
少し硬い、生真面目な顔で彩子をうかがう。短い前髪を少し振り上げ、頭を傾げ目が尋ねる。
「……。いい、よ。一度なら」
息を飲んで、彩子はこくんとうなずいた。
その肩に、三橋は空いた右手をかける。手の下で、強張っていく細い肩。
「! きゃ」
突然、三橋の手が彩子の肩を前後に大きく揺さぶる。
驚いて目を見張る彩子に、三橋は腹を抱えて笑い出す。
「彩子ちゃんてば、意外と純情だったんだ。
ほんとに、気をつけてくれよ。口の旨い男には」
さすがに、騙された彩子は三橋を睨んだ。
「そういうのは、騎道の為に取っとくものなの。
は、殴られるかと思ってたのにさ。
どーせだったら、もっとすごいこと言えば……」
バキっ!! 当たり前のように。いつものように、彩子に殴られてしまう三橋だった。
「ばかばかっ。もう! すぐに調子に乗るんだからっ」
「乱暴者の彩子ちゃんっ。騎道、気をつけろよ? 慰めて欲しいときは、この三橋クンを尋ねなされ」
教科書とノートを抱え、駆けてくる騎道の姿に、それだけ言って、三橋はさっさと逃げ出してゆく。
「ごめん、遅くなって。何? あいつ、何かあったの?」
「……。いーのっ。……」
疑念もなく、少し考えてから、騎道は言った。
「そう……」
不安になったのは、彩子だった。騎道は、時々何を考えているのか、わからなくなる。自分の感情を殺して、涼しい顔ができる。整った仮面の下で、とんでもない誤解があるのは、とても怖い。震えてしまいそうになる。
「騎道?」
「こういう気持ちって、ここに来て初めてだ。
……少しでも、離れていると不安になるんだ。つまらない想像を、何度も繰り返してしまう」
「何を言ってるの? ね?」
騎道は、彩子の肩越しに、背中合わせる壁に手をついた。
「僕は嫌な男で、何度でも君の気持ちを確かめたくなる」
彩子は慌てて目を伏せた。
「キス、したい……」
呟く騎道に、彩子は耳を疑った。
「な、何、バカなこと……。ここ、どこだと思ってるの」
……まさかとは思うが、さっきの三橋とのことを見ていた? だから……嫉妬……?
「……でも、したい」
困惑する彩子の腕を取る。誰も居ない、2Dの教室に彩子を押し入れる。背後で騎道が扉を閉めた瞬間、授業開始のチャイムが鳴った。
落ち着いた音色にも、騎道は表情を変えなかった。壁に手を付く。後ずさった彩子を両腕で囲う。
「……いい、よ……」
もしかしたら、三橋みたいに冗談かもしれない……。
妙な期待を頭の隅で抱きながら、彩子は堅く答える。
リラックスさせるように騎道は小さく笑った。
「目を閉じてくれる?」
騎道を見上げて動けなかった彩子は、ぎこちなくうなずき、困った顔をした。本気だ。戸惑いながら、目を閉じた。
近くなる、騎道の体温。抱き締められるのは、何度でもあった。今は、触れ合うわけでもないのに、彼の熱さを感じる。視線の強さ。甘えるように、彩子の髪に頬が触れる。
髪を探る手が、彩子の頬を滑ると。騎道の呼吸が、少し距離を置いた。指先が、彩子の顎を捕らえる。
……近くなる。
「やっぱりダメ……。やめて……!」
精一杯、壁に体を押し付け、彩子は鋭く囁いた。
騎道の気配が遠のく。彩子の肩越しに両手をつき尋ねる。
「どうして? 僕は嫌い……?」
彩子は目を堅く閉じたまま頭を振った。
「まだ誰かのことが、忘れられない? 志垣さんのこと?
それとも賀嶋さんが?」
早口の言葉に、騎道の焦りが滲んだ。彩子は目を開けた。
「! 違うよ!! そんなんじゃなくて……!」
「なら……」
「ダメ……。騎道、だめなの……!」
両手で顔を覆って、彩子は泣き出しそうになる。
「信じて? 騎道のせいじゃないの。嫌いじゃないよ」
「そんなに怖い? 僕が志垣さんのようになるのが?
キスをしたら、僕は白楼后に負けて、死んでしまうと君は思ってる」
「!」
「……君の心を読んだわけじゃないよ。テレパシーは、他の能力が秀でると、衰退してしまうんだ。
それに、気にかかる人であればあるほど。怖くて……、心が乱れて、まるでわからなくなる。
読もうと考えなくても、今の君は震えてる」
彩子も自覚していた。病的な震えは、彩子の心の怯えだ。
「怖いの……。騎道まで、あんなことに……」
存在を確かめるように、彩子は騎道の胸にしがみつく。
騎道が、支えてくれるから、安心して体を預ける。
この世の中で、騎道だけが確かな存在に思えていた。
他の出来事が、彩子の意識にはすべて意味のないことに映るから。こんな感情を抱く自分が、不思議でならない時もあるけど。それを悩むことさえ、彩子には無意味だった。
騎道がしっかりと、両腕で包んで居てくれるから。
震えのおさまった彩子の肩を、騎道は暖かい手で確かめた。ぎゅっと掌に力を込める。
「ほんとうに、僕でいい?」
冷えた言葉で、騎道は彩子に尋ねた。
「?」
「僕らの恋には限りがある。それでも……?」
騎道は彩子の耳元に、誤魔化しも気弱さもなく、はっきりと告げた。彩子が逃げ出してもいいように、騎道は腕の力を緩めた。彼女の判断に委ねるように。
限りがある……。こんなに近くに居るのに。こんなにも、心が重なろうとしている時なのに。騎道は確かめる。
彩子は顔を上げた。騎道を見上げる。
「……君以外に、他に誰が居るの? 教えて?
誰を好きになればいいの。騎道の、言う通りにする……」
騎道は絶句した。引き締めた頬が震えかけた。
彩子は騎道の答えを待っている。
「……僕は君を傷つける。誰よりも、酷く……」
従順な視線から、騎道は逃れられないと悟った。
だから、告白しなければならない。許しを請うためでも、罪を嘆くためでもなく。自分のすべてを、彩子の言葉に預ける。彼女がそうしてくれるのと同じに。
弱く苦悩する自分をさらけ出す。
「それでも、いいよ。
だって、騎道は私を必要としているんでしょう?」
無垢な子供のように、彩子は問い掛ける。不思議そうに。
「その通りだよ……。
君を苦しめるってわかっていても、君が欲しい。
彩子さん無しでは、抜け殻になってしまう気さえする」
「私も、君が好きだよ。悲しいことばかり言う、君も好き」
彩子は自分から、うつむく騎道の頬に額を押し当てた。
子犬のように、押し上げ。ちょっとだけ笑った。
「私の泣き顔が見たいなら、そう言って?
いくらでも泣くから。
でも、短い時間なら。精一杯好きでいて、精一杯笑って、君を見ていたい」
微笑みはうまく造れなくて、彩子は騎道の制服を掴んだ。
「お願い。私が大丈夫なように、沢山好きでいて……?
その日まで、私のこと、放さないで……。
言ったよね。君を大好きな私の心で、敵にすきを与えるなって」
「僕らの敵は、君の心のすきに付け入る。だから。
僕以外の人間は、誰も心に入れるな。どんな人間にも心を許さずに、僕だけを見て、僕で君を守って欲しい」
肩を抱いて騎道は命ずる。うなだれて眼鏡を抜き取った。
「うん……。そうする」
幸せな笑みを零し、彩子はうなずいた。
従順な中に、感情の起伏を押し隠す彩子は、疲れきっていた。それがわかるから、騎道はためらった。
けれどもう一度。彩子を突き落とす。
でなければ、騎道は自分自身が許せない。いや、彩子の感情を受け止める資格はないのだ。
「……ごめんね。彩子さん。
僕の生死を恐れる必要はないんだよ。
僕は絶対に死んだりしない。志垣さんとは違うんだ!」
騎道の衝動に目を上げる彩子は、至福の金色に輝く髪を目にした。眼鏡を必要としない、騎道の真実の姿。
「……僕は君の為に、死んであげることができない」
黒々としていた瞳が、吐き出す言葉の痛みに乱され、青く色素を失う。騎道若伴ではない、男に変わっていった。
「僕の命は、女神のためにあるものだから。ここで、君の為に死ぬわけにいかない。
何が起きても、どんなに時間がかかっても。いつかかならず、生きてこの街を出てゆく。
だからね、君の目の前では絶対に死ねないんだ」
彩子は見惚れていた。金の豊かなさざ波と、そこから見え隠れする蒼い二つの輝きを。
魅入られながら、こっくりとうなずく。
「僕を信じて、諦めないでほしい。どんなことが起きても。僕の考える通りに」
「……うん。そうするよ」
寂しさよりも、誇らしい。顔中が痛みで引き裂かれそうな騎道に、彩子は弱く微笑んだ。
「良かった……。安心した。騎道が居てくれるだけでいいの。それ以上要らない。永遠なんて、信じてないもの……」
もう一度、騎道は肩を引き寄せて彩子の顎を捕らえる。
やはり怯えを見せた彩子に、本当に諦めた。
「……ごめんね。頭ではわかってるの……でも」
騎道は慰めるように頭を振った。
「全部、終わったら。君を怖がらせるすべてに勝ったなら。
その時は、恋人同志のキスをしよう」
「……いいよ」
騎道なら決して、負けたりしない。




