8-1
まったく人気のない廊下で、彩子は、ルームプレートのない突き当たりの教室をうかがっていた。
放課後。騎道は、新役員に元シャドウ・キャビネットを加えて、新組織の人員選抜、企画構想会議に出向いている。
彩子自身も、忙しい体になっていた。役員選挙も終了し、残る大イベントとしての学園祭に、実行委員として本格的に取り掛からなければならない。
イベントを目前に控えて、各参加クラスの不足予算の争奪は熾烈を極めた。喧嘩腰の手配要求、乱れ飛ぶ伝令と伝票、足りない人員。実行委員室の戦争状態を抜け出して、彩子は一人、目指す人が一人になるのを待っていた。
幸運なことに、唯一残っていたはずの松川蛍子が部屋を出ていく。手に奉納舞に使う為か、白布で丁寧に覆った包みを捧げている。舞台に当てられた旧講堂に向かうのなら、ここからは距離がある。暫くは戻ってこない。
「藤井さん?」
嫌な顔一つ見せず、藤井は彩子を招き入れた。初めて目にする、室内の優雅な調度に彩子は暫く見惚れた。
「騎道が感謝していました。私からもお礼を言わせて下さい」
藤井は上座に正座し、何のことかと目で問い掛けた。
「今日の伝達式のことです。騎道から聞きました。
私、心配してたんです。あの人と顔を合わせること……」
「私には何の話しなのか、わからないけれど。騎道様の退学が撤回されて、彩子さんも安心なさったでしょう?」
「……はい。あの、ご存知なんですか……騎道との事」
ころころと鈴を鳴らすように、藤井は含み笑った。
「知らないのはご当人たちだけですわね。
白楼会の会員の間では、もちきりですわ。騎道様が、堂々と彩子さんの肩を抱いていたとか、溶けてしまいそうな目で見守っていらしたとか。うるさいほどに。
皆さん、騎道様に密かに想いを寄せていたのですわ。
彩子さん、ずいぶんと恨まれておいでですのよ」
……な……? そんな……。
「彩子さん、最近綺麗になったわ。幸せな顔をしています。
……騎道さんと一緒に居る時が、一番素敵なのね」
「そ、そんなこと……。あのっ、……すみません……」
少し寂しく目を伏せた藤井に、慌てふためいて、彩子は最後に謝ってしまう。騎道を気遣ってくれたのは、まだ想いがあるから? 儚い美しさをもつこの人を、憂えさせるのは、心苦しかった。
「謝るなんて、それは違いますわ。……騎道様は、私の希望ですの。気にかかる方のお一人でしかありません。
私の思いは、もっと別の方にありますのよ」
恋の至福に微笑む藤井に、彩子は親近感が湧いた。
隠し切れない、密やかな喜びは、彩子も感じている。騎道の姿を見る度。離れていても、人波の中から、吸い寄せられるように見出す瞬間。
「何か、私に聞きたいことがあるのではないかしら?」
たおやかな中に、藤井は毅然と背筋を正した。
「私が、一昨日までの三日間、妹とともに行方不明になっていたことですの?」
「……それもあります」
「耳聡いあなたですものね」
「いえ……。気にかけているのは、三橋や騎道で。
安摘さん、とても疲れていました。沙織さんのことも、ショックだったようですけど。それだけでは……」
「そのことはお話しできませんわ。藤井の家に関わることでもありますの。安摘には酷な真似をしましたが、藤井家の直系である以上、避けることではないのです。
そのこと、案じてくださるお友達にお伝え下さいませね。
あの子が挫けそうな時には、厳しく突き放してほしいと」
「藤井さん……」
「姉のことは、もう振り切れました。
あの男を殺してでも、止めるつもりでしたのに。姉の顔を見たら、とてもできなかった……。
久瀬の軽薄な顔は、何時見ても憎いばかりだけれど」
藤井の本音に、彩子は冷や汗を覚えた。
「騎道様は、ひどく動揺されたようですわね。あの安摘が、しょげていました。本心は、優しい子なのですわ」
「……。久瀬光輝が生きていたということは、四つの陣が崩れたということですか?」
いいえ。関係ありません。本当に、あの場で久瀬は殺されたのですわ。現場に残る、断末の死の苦痛は現実のもの。
どう手を尽くし死から逃れたのか、想像もつきませんが。あの苦しみが残留する以上、陣に変化はありません。
日に日に、強さを増すばかりです」
騎道も、彩子と同じ疑問を抱いていた。毎夜、彩子を飛鷹家に送ってから、血の標の凶相を減じるため、力を放っていたけれど。目立った効果はないと、騎道は言った。
「藤井さんは、この事件はどう思っていらっしゃるんですか? 白楼講の汚名を殺ぐためだけですか?
失礼ですけど、時々、敵か味方か解らなくなるんです」
「私の真意が知りたいのね」
「お聞きしてよければ」
「ええ。飛鷹さんには知っておいてもらいたかったわ。
家の為でも私自身のプライドの為でもない、些細な理由のためよ。聞かせたら、笑われるかも」
笑ったりしない。彩子は真剣なまなざしで藤井を見た。
「以前、今年は五黄の年だと、説明したわね。五黄が負に染まるなら、破壊と破滅の相が強く生まれるのです。
さらに、六角白楼陣が陰気となっては、純粋な負が生まれ、最大の邪気に染まる。この街が、その危機にあるのです。染み込む破滅に根底から覆されそうになっている。
そして真っ先に、今年と同じ五黄の黄をもつ人間が。それも、企んだ者に一番近い者ほど、影響を受け己を失う」
ほうっと息を大きく吐き出してから。
「私の大切な方が、そこに居るの。
だから食い止めたい。救い出して差し上げたいの。
おかしいでしょう。画策者の一人が自分たちの仕掛けた罠に嵌まって自ずと転落してくれるというのに、私はそれを引き止めたいと願っている。大きな矛盾だわ。彩子さんに、敵か味方かわからないと言われてしまうのは当然ね。
……常に揺れているわ。どちらに付こうかと」
騎道と、闇に取り憑かれた者。正反対の両者を秤に乗せることで、藤井は自分の精神を保つ。己であろうとする。
「……無論、あちらもそう思うでしょうね。私のことは敵、邪魔者と見なしているはずですもの」
五黄の気を持つ者……。明確に教えられても、彩子には謎かけだった。今年と同じ五黄。騎道なら、誰のことなのかわかるだろう。
藤井の浮かべた悲しみの色を、きっと変えてくれる。手を打ってくれるはずだった。
騎道を、藤井は騎道だと言った。その期待に、気付かない男ではなかった。
「ねえ? 今日も帰り、遅いの?」
食堂で、騎道と向かい合ってランチをつつきながら、彩子は呟いた。
「あ、たぶん。新組織を造るのに手間がかかって。
ごめんね、彩子さん。一緒に居てあげられなくて。
これ、食べる?」
せめてものお詫びのつもりか、サラダのプチトマトを差し出す騎道。横からフォークで奪うのは、騎道と並んだ三橋だった。
「あ! 何すんのよ!?」
「あーあー。うっとーしーわねっっ。見つめあってくれてっっ。大体さ、同じ学園の敷地内に居んのに、サビシーとか、アイタイーとか、言ってくれんのヤメテくんない?」
「そっちも、女言葉ヤメてくんないっ?」
平坦なアクセントで、それも騎道に言い返されて、三橋君、凍り付いてしまった。
「うっわーっ。騎道君、人間が変わったねっっ。はいはい。
三橋クン、ハンセイします。はい、彩子ちゃん」
自分のセロリを彩子に差し出す……。
「……。仲がいいのね、アタシより。
執行部の打ち合わせとかって、いっつも君達二人、下らないこと言ってじゃれてるしっ」
プイと顔を背ける彩子に、男二人は揃って焦った。
「さ、彩子さんっ? 誤解しないで下さいよつ」
「そーだよ。嫉妬するのも、相手見てから言ってよ。
俺、野郎は恋愛対象には無いぜ?
「ほらっ。息ぴったりのギャグかましてくれて」
疑惑のまなざしを真に受けて、騎道三橋は胸を張った。
「仕方ないじゃん。大大大親友なんだもん。俺たち」
なっ? じゃないわよっっ……!
肩を摺り寄せる二人を置き捨てて、彩子は食堂を出た。
「何よ、今度は園子? 頭抱えてうっとおしい真似しないでよ。騎道は騎道で、三橋とセットでちゃらんぽらんだしっっ」
教室に引き返す廊下で園子と出くわした。いつもと雰囲気が違う。ダークで、恨み籠もった視線が彩子に向いた。
「……あんたね、自分の立場の価値、わかってナイ」
「な、何よ……。あたしが何したって……きゃ」
両手で顔を掴まれて、かなりびっくり。
「この顔の、どこがいいわけ、騎道君って。あんなにイイ男を、この口で、バカとかカスとか言う奴なのにっ」
「カスなんて、まだ言ってないわよ。でも、ほんとにおバカだから……。ち、ちょっと何よっ」
「あんたが、あの笑顔を独り占めするってのが、女として理解できないのね」
「あら、妬いてるの? ふーん。でも騎道はアタシにぞっこんだもーん。もーん」
余裕で高笑いしてみせる彩子。
脱力し、青木は乱れたショート・ボブを整えた。
「言っておくけど、あんまり人前でいちゃいちゃしないでよ。せめて、学園祭が終わるまで」
「終わるまでって?」
「うちのグラビアの売上に差し障るでしょっっ。
秋津会長と騎道新会長の最強無敵のタッグ。グラビア写真集は、二人にアコガレる女の子たちが購買層なのっ!
あんたが、騎道とデキてるとわかったら、買う気力が失せるでしょっ、え?」
「……あたしぃ、秋津会長にも告白されてたんだ……」
「言うなっっ」
彩子の口を塞ぐ園子。
「折角のスーパーショットが、スキャンダルで世に出ないのは、企画者として最高の無念なのよ……。金の為じゃないわよ? 学園祭のポイント稼ぐためでもないっ」
瞳の色は真剣で、彩子はそんな色を初めて見た気がする。
園子は大判の封筒を突き出した。
「こっそり見て。まだ、駿河とあたししか見てないの。
今日届いた。駿河が騎道君と二人だけで撮影した写真よ。
こんなの、発売まで絶対非公開だわ……」
あたりを伺い、廊下には誰もいないことを確かめて、彩子は写真を抜き出した。
息を飲んだ。
画面には、光と闇のコントラストが繰り広げられていた。
背景は、夜より深い闇。そう見せるのは、中央に一人配された少年が放つ、艶やかで高貴な輝きが造る光の影ゆえ。
きらめきを与え増幅するのは、ぶつかり迸る水の破片たち。超感度スローモーション露出で撮られた、最高の撮影技術が、水飛沫のもつ一瞬の動きを切り取った。
あの日の昼間。撮影をした、同じ公園の同じ噴水に手を加えた舞台だとは、言われるまで想像もつかなかった。
幻想の世界。
停止させられ、落下しているのか、吹き出しているのかすら、水の動きは教えてくれない。
唯一、躍動を感じさせるのは。掌に飛沫の一筋を受け、片膝を軽く引き上げながら、岩肌に乗り身を乗り出すように正面を振り返る一人。
そこに垣間見えるのは。幻の世界を嫌い、飛び降りようとする自分さえも憎む、一瞬の惑い。
荒ぶる飛沫は、恐ろしいまでにリアルな現実の世界。
夢のように輝き続ける、たっぷりと水を含んだ細くしなやかな髪。曇りのない金色の髪。額に張り付く金糸の狭間から、冷たく見据える蒼碧の双眸。挑戦的に微笑む口元。透き通るような、白い肌。
水に濡れた白いワイシャツ。片袖を脱いだ濃い紫の上衣が、乗り出した左肩から、滑り落ちようとしていた。
「……騎道じゃ、ないみたい……」
写された者の人間としての弱さと、取り巻く水の力強さ。欲望を挑発する均整のとれた全身と、突き放す視線。
闇の中に住む、光の魔物のような、危うい存在感。
「嫌だな……、これが他人の目に触れるなんて……」
園子は、彩子の言葉を聞き返さなかった。
「……これを全部、私が受け止めるんだもの」
一人で。美しいばかりではない獣を。




